三十三話・皆鶴
鬼一法眼が生まれたのは、京より南西、海を越えた伊予国だった。
幼名を鬼一丸と言い、父親が陰陽師であった事もあり、両親を流行り病で亡くして後は父親の伝手を頼りに、当時、京で陰陽博士であった安倍泰長の門人となって天門地理を学んだ。
鬼一の才は師である泰長を超える程で、それは優秀な陰陽師に育って行ったのだが、泰長の死と共に安陪家での権力争いに嫌気がさして、野に下り、今度は剣を磨く様になった。
当初、鬼一を馬鹿にする者が多くあったが、天門道に続き、剣の道でも直ぐに頭角を現した彼は、都随一の剣豪として世に知られる様になる。
その彼の剣が、実は母親の影響に寄る処が大きく、幼少の頃に散々に鍛えられた為だと言う事を知る者はほぼ居ない。
母の剣は流れる様に自由であり、けれど、女性とは思えない程に、時に激しかった。女傑然とした母親であったが、植物を愛し、暇を見つけては道や山に自生するその姿を描き写す様は、まるで少女の様でもあった。
彼の母は、息子の鬼一の目から見ても、なかなかに掴み処の無い女性だったと言えるだろう。
また、鬼一が剣豪であり、兵法家として名を馳せた理由の一つに、斎の始祖であった太公望呂尚が書いたとされる兵法書・六韜三略を所蔵している事にもあった。
両親が死んで後、遺品を整理した際に母親の所蔵していた物の中に、それが紛れ込んでいたのだ。
母親がどうやって六韜三略を手に入れたのかは不明であるが、形見の一つである為、鬼一としては京に移る際にそのまま持って来ただけに過ぎない。
だが、それが後に鬼一を絶望させる事になる。
安陪家を離れ、剣の道に進んで暫く、鬼一は思いがけず妻を娶る事になった。
妻は嫋やかな見た目に反して、気丈な性格の女で、少しだけ母親に似ていたかも知れない。
穏やかな生活の中、妻が身籠り、だが、産後の肥立ちが悪かったのか、娘を産んで暫くすると儚くこの世を去ってしまった。
鬼一は残された娘を「皆鶴」と名付け、妻の分も愛し、育てた。
皆鶴はすくすくと育ち、やがて年頃になると一人の男に懸想した。
その恋が破滅の道であるのだと、知る由も無いままで―…
「…ちっ、我ながら、御し難いな、殺意ってヤツは。」
鬼一は掌に刺した刀を引き抜き唇を噛み締めた。
血に塗れた刀先には、種の殻から飛び出した極小さな、けれど醜悪な触手の塊が蠢いている。
鬼一は刀を床に刺して触手を押さえると、十二天将・騰虵の名を口にした。
すると、忽ち触手は業火に焼かれ、灰になる事無く消え失せた。
「今になっても俺の中にある憎しみは消えちゃくれねえ…、なあ、皆鶴、おまえが最期に願わなければ、俺はあいつを殺しに行けるのによ…本当に、親不孝な娘だぜ。」
皆鶴が愛した男は源氏の御曹司であった。
彼は、鬼一の所蔵する六韜三略を目当てに皆鶴に近付き、彼女を利用するだけ利用すると、彼女を捨ててそのまま姿を眩ませたのである。
残された皆鶴は、男恋しさに身を崩し、自決した。
鬼一は怒りのままに男を殺しに行こうとしたが、娘が最期に残した遺書には、弱い自分が悪いのだと、男を許して欲しいと綴られていた。
鬼一は娘の遺言を守って来た。
心の奥底で煮え滾る憎悪を押し込めながら。
それが、浜靫に寄生された事で、強制的に思い起こされたのである。
娘に似合うだろうと誂えた色鮮やかな袿が血に染まっているのが、
娘の首元を貫いた小太刀が、
掻き抱いた娘の体が徐々に冷たくなって行くのが、
あの日、世の中の全てを恨み、憎んだ己の心が…全て、
全て、思い起こされる。
「くそったれ、これじゃあ、いつまでたっても穢れが取れねえ。」
浜靫が消えて後も続く憎しみの心は、自分の中にある明確な意志でもある為、打ち消す事が困難でもあった。
正に呪いである。
鬼一は目を閉じると丹田に力を籠めて大きく息を吐きだした。
兎に角、心を落ち着かせなくてはならない。
身の内に燻る憎しみを、殺意を抑え、自分の中の邪念を払わなければ。
その時、鬼一の手元に暖かな塊が身を摺り寄せて来た。
鬼一がゆっくりと目を開けると、真っ白な猫が血で濡れた鬼一の掌をしきりに舐めて癒そうとしている。
「…皆鶴」
あの日、娘が死んだ日も、何処から紛れ込んだのか、気が付けば皆鶴の亡骸を抱いて憎しみに駆られた鬼一の足元に身を摺り寄せる真っ白な仔猫がいた。
鬼一を慰める様に、必死に小さな体を擦り寄せるその姿に、鬼一の目から涙が溢れて止まらなかった。
まるで、皆鶴が仔猫の姿になって、鬼一の元に戻って来た様に思えたのだ。
―…ああ、そうだ、憎しみに打ち勝つのは、いつだって…
「…鏑木さん、あんたの選んだ道が、どうか後悔の無い道である事を願っているよ。」
鬼一は口元を上げると、愛猫を胸に抱き、肩の力を抜いた。




