三十話・野良犬
典久達が羅城門に到着すると直ぐに祈祷の準備が始められ、羅城門の外の警備を担う利久は他の役人と共に門外へと向かった。
今回の怨霊祓いでは護摩が焚かれる為、祈祷場所では安倍家の門人が護摩木を積み立て始めている。
祈祷を行う安倍家と加茂家の陰陽師二人がそれを横で指示していたのだが、その時、どこから迷い込んだのか野良犬が現れ、安倍家の陰陽師に向かって襲い掛かって来た。
典久はそれを見つけると、無言で腰から刀を抜いて野良犬を斬りつけた。
典久の刃が野良犬の腹を裂き、鮮血が大地を汚す。
「なっ、何と言う事を!」
賀茂家の陰陽師が血で染まった大地を見つめ、面を上げると典久を睨み、声を上げた。
「これでは前日にこの場を清めた意味が無くなってしまう!この様に野良犬の血で穢れた場所で祈祷等出来よう筈が無い!」
「では、そこの男の血ならば良かったのか?」
典久は腰を抜かして座り込む安倍家の陰陽師を一瞥して言った。
「その様な事を申しているのでは無い!儀式は神聖なもので無ければならないと申しているのだ!祈祷は中止だ!直ぐに大内裏へ遣いを走らせろ!」
賀茂家の者が声を荒げるのを、今まで腰を抜かしていた安倍家の者が慌てて止めた。
「ば、馬鹿な事を申すなっ!ここまで来て儀式を取り止め等出来る訳無いだろう!今日の為に、どれだけの時間と金が費やされたと思ってるんだ!」
「では、この血で穢れた場所で祈祷をやれと?失敗は許されぬのだぞ!」
「そんな事は分かっておるわ!だが、これから馬を走らせたとして、紫宸殿に報せを届けて泰親様の判断を仰ぎ、御上に了承を得るとしよう、だが、それで次の儀式までにどれだけの日数が必要だと思う!?やっと「あざみの鬼」の脅威から逃れられると思っていた都の民が納得すると思うか?ただでさえ、戦が続き、世の中も荒れているのに、更に人心を乱れさせる行いが出来る筈も無かろう!」
「では、どうしろと言うのだ!元はと言えば、貴公が野良犬に気付かず、突っ立ていたのが悪いのであろうが!」
「何だとっ!!」
陰陽師同士が睨み合いをする中、典久は刀を仕舞いながら二人に告げる。
「安陪家も加茂家も都を代表する陰陽道の一門であると言うのはどうやら過剰評価だったらしいな。この様に些末な事で、御上の勅令を取り止める等、出来ると思っているのか?言い争いをする暇があるなら、その時間を使って場を清めるなり、祈祷の支度をするなり、やるべき事はあるだろう?」
陰陽師の二人は典久の言葉に唇を噛み締めた。
典久に向かっても言いたい事は山程あったが、彼の言う通り、御上の勅令を覆す事等、一介の陰陽師に過ぎない自分達に出来る筈も無かった。
賀茂家の者が護摩木を運ぶ他の門人に声を荒げて命じた。
「…っ、直ぐに水を持って来い!血で穢れた大地を洗い流すのだ!護摩木を積むのはそれが済んでからだ!急げ!」
「は、はいっ!」
護摩木を放り、慌てて駆け出す男を見やり、典久は鼻で笑うと陰陽師に背を向けた。
「ふんっ、初めからそうすれば良いものを。」
典久が自然と己の首元に爪先を伸ばそうとした時、
「…だからと言って、少々やり過ぎでは無いか?儀式が終わるまで、妙ないざこざは困るんだがな。」
と、声を掛けたのは兵部省の役人で、利久の上司である藤原正孝だった。
彼は部下に典久が斬り捨てた野良犬の死骸を運ばせると、典久に苦言を呈した。
「これはこれは、正孝殿。武官の貴公らの仕事を文官の私が奪ってしまい申し訳ない。まさか、優秀な武官の貴公らが、野良犬如きをこちらに通すとは思ってもみなかった故な。」
「それを言われると耳が痛い。まあ、どちらにしろ、祈祷が滞り無く終わるのなら、俺から何か言う事は無いが…それにしても、普段冷静な貴公らしく無い振る舞いだ。あれでは、怨霊払いが終わった後に、陰陽寮から苦情が来ても可笑しくは無いぞ。…何かあったか?」
「…何も。」
典久はそう言うと、ふいと顔を背けた。
確かに正孝の言う通り、いつもの自分では考えられない行動だったかも知れない。
刀を振り回し、野良犬を斬り捨てる等、野蛮な武官のする事だ。
まして、今は大事な儀式が控えている。
それなのに、自分の中の何かが抑えられない。
「ん?首元に血が…先程の野良犬の返り血でもついたか?」
正孝が典久の首元を指して言うのに、典久はその場所に手を這わす。
指先には正孝の言った通り、真っ赤な血がべったりとついていた。




