二十九話・徳祐と典久
開諸門鼓が打たれる少し前、典久は茜君に体を揺すられ目を覚ました。
一度母親の機嫌伺に帰宅して以降は、妻の一人である茜君の元から大内裏に通っている典久は、昨夜も茜君と床を共にしたのだが、どうやら酷く魘されていたらしい。
「殿、顔色が悪う御座います。…今日の御勤めはお休みされてはどうですか?」
「馬鹿を言うものじゃない。今日は都を上げての怨霊払いが行われる日なのだぞ。その様な大切な日に休める筈が無いであろう。」
「ですが、こんなに汗もかかれて…」
茜君はそう言うと、典久の首元にそっと袖を這わせて指を止めた。
夫のそこに、見慣れぬ黒子があったからだ。
「良い、構うな。」
不思議に思った茜君の手を払い、属星の名を唱える事無く、典久は床を出ると出仕の支度を始めた。
本日は怨霊祓いの儀式の為に、大内裏の各門が開けられる時刻が早まっている。
いつもより早く出仕した典久は、宮城門の手前で牛車から降りる父親の徳祐と黒い裳付の琵琶法師の姿を見掛けた。
どうやらあれが、例の鏑木法師と言う男らしい。
典久は鏑木法師に丁寧な態度を取る父親の姿に眉を顰めつつ、足を進めた。
「おはようございます、父上。」
鏑木法師を見送った徳祐が宮城門を潜る手前で追いついた典久は、父親に声を掛けた。
徳祐は息子の姿を一瞥すると、足を止める事無く宮城門を潜った。
典久は慌てて父に並ぶと言葉を続ける。
「今朝は随分と早いのですね。」
「…紫宸殿で行われる祈祷には色々と準備が必要なのでな。おまえは利久と羅城門担当だったか。おまえは利久と違って能力も充分に備えていると思っていたが、羅城門の様な小さな部署を任されるとは…どうやらおまえも、出来損ないだったようだな。」
「…っ!」
父親に冷えた目で見られた典久は足を止めた。
徳祐はそんな息子に構わず、さっさと紫宸殿へと向かって行った。
典久は唇を噛み締めると、苛立たしい気持ちで首元を掻き毟った。
選りに選って、あの弟と同じ扱い…出来損ないと断じられるとは。
典久の身の内に、どす黒い何かが這い上がるのが分かった。同時に、首元が熱く燃え上がる様だ。
典久は父親の背中が見えなくなるまで、首元を掻き毟り続けた。
その日は、雲一つ無い澄んだ空気の朝だった。
怨霊払いを行うに相応しい日を、天文博士が天文道により選定し、今日と言う日が選ばれたのだ、それも当然と言えるだろう。
紫宸殿、朱雀大路、羅城門で行われる祈祷は巳三刻の四つの太鼓を打ち終わって後、一斉に開始される。
朱雀大路と羅城門では陰陽師が祈祷を行うのに妨げにならない場所で兵部省から派遣された警備の者達が彼らを囲み、また、羅城門の外では儀式が終わるのを待つ者達を整理する役人が配備され、有事に備える手筈になっていた。
また、これを見届けるのにも中務省から数名の役人が配備され、紫宸殿の物と比べると小規模な物ではあったが、それでも都を上げての怨霊払いと言う事で万全の体制が敷かれている。
これを以って、都を震撼させる「あざみの鬼」も退治されるだろう、後白河院を初めとした貴族や都に住む全ての者達は、そう信じて疑わなかった。
中務省内では本日の怨霊祓いに於ける担当場所での段取りが各自に説明された。
そうして、準備が整い馬に乗った典久達は、兵部省の役人が先頭と最後尾で彼らを警備する中、大内裏を出発し羅城門を目指す事となった。
ふと振り返った隊列の最後尾に弟の利久を見つけた典久は、再び己の爪が喉元を掻き毟った事に気付く事は無かった。




