二話・噂
その噂が京の都を駆け巡ったのは、二週間程前の事だった。
それは与度津の漁師達が、武蔵国から帰って来た商船に乗った者に聞いた噂話から始まった。
何でも、武蔵国にある東山の近くに住む村人が、子供から年寄りに至るまで全て、異形の化け物…鬼に食い殺されてしまったらしい。
騒ぎを聞きつけ、この地を治める大井氏が遣わした侍が見たのは、血に汚されたどす黒い大地に転がる腐乱した肉片と骨だった。
そうして、その場から、ずるずると何かを引き摺った後を追い掛けると、一面に見えたのは咲き誇る『あざみの花』で、そこには食い千切られた無数の里人の死体が捨て置かれていた。
その、あまりにも凄惨な状況に、精鋭である筈の侍達も悲鳴を上げて逃げ出したのだと、商船に乗った者達は笑いながら話をしていた。
所詮、海の向こう、東の田舎の国で起こった出来事だと、他人事の様に聞いて同じく笑っていた者達も、まさか自分達の身に降りかかる事になるとは、この時は思ってもみなかったのだ。
ある晩の事、何処かの家の従者が、主の遣いの帰りに百鬼夜行に遭遇し、先頭を歩く異形の頭から二本の角が生えているのを見たと言った。
その異形の頬には火傷の様な痕があり、本来ならば端正であっただろう顔に浮かんだそれは見た者を震えさせたらしい。
また別の晩には、道の端で泣いている女を見つけ、声を掛けようと近寄ると、やはり、その頭には二本の角があって、慌てて逃げ出したと言う者が出て来た。
日を追うに連れてこう言った怪異が増え、とうとう初めの犠牲者が出た時には、取り返しのつかない事態にまで陥っていた。
それと言うのも、初めに犠牲になったのが安徳帝の摂政を務める近衛基通の妻の一人、登美君であったからだ。
基通の北の方は平清盛の六女、寛子であったが、儚げな美貌で基通の心を捉えた登美君の名は広く知られている。
基通の愛情の程が分かる様に、彼女の住む屋敷には高価な調度が揃えられ、屋敷の警備に当たる侍も多くいた。
しかし、そんな強固な護りにあった筈の屋敷は、無情にも恐ろしく凄惨な殺戮現場へと変わってしまった。
基通が政務を終え、登美君が待つ屋敷へ戻った時には全てが終わっていた。
牛車から降りた基通が最初に見たものは、全身を棘の様なもので抉られ、
真っ赤な血で塗れた侍の死体だった。
そうして、登美君を初め、彼女の身の回りを世話していた女房達、屋敷の下人に至るまでが同じく惨たらしい姿で殺されていた。
それでも、厨で身を潜め、何とか難を逃れた庖丁人を見つけ、聞き出した言葉は、基通の理解を遥かに超えるものだった。
「突然、緑色の蔓の様な物が現れて皆の体を縛り上げたのです。そうして、その蔓から無数の棘が生えて来たかと思うと、何処からか鬼が現れた…、顔は暗くてよく分かりませんでしたが、宵闇にぼんやりと浮かんだ右頬に不気味な火傷の痕がありました。頭にあった二本の角は、間違いなく鬼の証。その鬼は手の中にあった『あざみ』を放ると、次々と皆を殺して回ったのです。」
実際には、恐怖に震えた意味の成さない言葉であったのだが、それでも何とか汲み取ったものがこれである。
彼が混乱して正気を失った為、こんなおかしな事を言うのだと一笑に付す事は簡単であったが、盗賊が押し掛けたにしては、そう言う意味で部屋を荒らされた痕跡は窺えない。
それに、死体にあった無数の棘の痕…
何よりも、殺された登美君の直ぐ側には、彼が言った様に一輪の『あざみ』が、その赤紫の花弁に血を染み込ませて添えられていたのである。
そうして、基通の屋敷で起こった惨劇は、瞬く間に京の都を駆け巡って行った。