二十一話・決意
「ちょっと、お前らの親父をぶん殴って来るわ。」
三鬼が立ち上がり出て行こうとするのを、晶子は慌てて彼の袖を掴んで止めた。
三鬼はどうして止めるんだと不満気な顔をしていたが、晶子は頭を振って言った。
「お父様が私を生かしてくれた事は事実です。人の世の習わしとして、忌み子である私は、産まれた時に処分される可能性もあったのですから。」
「それがそもそも納得出来ねえ。そんなの昔の誰かが自分の都合で勝手に決めた事を、何も考えない馬鹿が前へ倣えをやってるだけじゃねえか。そんなの習わしでも何でも無いだろ。」
「例えそうだとしても、先人がやって来た事を自分の手で止める事はなかなか出来ないものなのですよ。」
黄金色の目を光らせて怒る三鬼を座らせ、晶子は「でも、」と続けた。
「お姉様は、人の世の習わしを気にしない方だったのです。」
「橘のお屋敷も、晶子姫に取っては暮らし難い所かも知れないけれど、このお屋敷でお祖母様から悪口を言われたり、閉じ込められたりするよりは、きっとましだと思うの。だから、私と入れ替わりましょう?」
孝子はそう言うと、晶子の着物に手をやった。
晶子はそれを慌てて止めて、頭を振った。
「孝子姫は、どうして、……私は、忌み子、なのですよ?」
日頃から会話をする事が無い晶子の言葉は覚束ないもので。
自分の伝えたい言葉がなかなか口に出せないまま、晶子はそもそもの自分の立場と言うものを口にしていた。
「あなたは忌み子なの?」
「はい…」
まさか孝子は、忌み子の意味を知らなかったのだろうか?
晶子は居た堪れない気持ちで、そっと目を伏せた。
しかし、晶子が肯定するのを孝子は直ぐに否定した。
「違うでしょ!あなたは私の妹よ!それ以外の何かなんてありえないわ!」
孝子は再び晶子の手を強く握って言った。
「橘のお屋敷でも、あなたの事を話す事は禁じられていたのだけど、それでも使用人達がこっそりと話しているのを聞いたわ。それで、私には双子の妹がいるんだって知って、お母様にお尋ねしたのだけど、お母様は教えてくれなかった。」
信心深い細波君に取ってもやはり、晶子は忌むべき存在で、口にするのも穢れと思っているのだろう。
しかし、実母にそんな風に思われている事を知ってもまだ、晶子の心は沈む事は無かった。
「もっと妹の事が知りたかったから、話をしていた使用人に聞こうと思っていたら、翌日にはその使用人達はお屋敷からいなくなってしまったの。…だから、それ以上の事は言えなくなったけど、ずっとあなたの事を考えていたわ。」
「…私のことを、考えて、くださったのですか?」
「ええ!だから、今日、お祖母様のお屋敷に来たら、真っ先にあなたに会おうと思っていたのに、お祖母様はあなたの事を悪く言うばかりで何も教えてくれなかった!酷いわ!私の妹なのに!」
孝子はぎゅっと眉間に皺を寄せて怒っている。
込められた力で握られた手に痛みを感じたが、晶子の胸は先程と同じ様にじんわりと温かさで満たされた。
孝子が晶子と入れ替わろうと言ったのは、だからなのだろう。
晶子の境遇を哀れに思ったからではない、母に、祖母に、いない者とされ、それなのに悪く言われる妹を思って孝子は怒っているのだ。
「私と、孝子姫は、今日、初めて、お会いした、ばかり、なのに?」
「そうね。でも、私は晶子姫が字が綺麗で、頑張り屋さんだって分かったわ。思っていた通り、私の妹は素敵な妹だったわ!」
孝子は晶子を見てにんまりと笑った。
その顔を見て、晶子は決めた。
握られた手を、今度は晶子の方から握ってみせる。
「…私は、ここに、残ります。」
「どうして?きっと上手に出来ると思うの、だから大丈夫よ?」
「いいえ、私は、ここで、お父様の、役に立てる、娘になります。だから、孝子姫も、橘のお屋敷で、頑張って、ください。」
父が何れどちらかを選ぶとしても、どちらも選べない程に優秀な人間であれば、二人は見捨てられる事は無いだろう。
今までは、祖母に言われるままに手習いを続けて来た。手本を元にして、ただ繰り返すだけの作業の様なそれを、孝子は「頑張り屋さん」だと褒めてくれた。
だったら、この先、誰にも負けない程に美しい文字を書いて、父に認められれば良いのだ。
「…私の事は孝子姫ではなくて、お姉様って呼んでちょうだい?私は晶子姫のお姉様なのだから。」
晶子の決意が分かったのだろう、孝子は困った顔をしていたが、直ぐに微笑むと晶子を正した。
「では、私のことも、晶子、と、呼んで、ください。…お姉様」
「ええ、晶子!」
そうして二人で笑い合う。
晶子がこの屋敷で笑顔を見せたのは初めてだったが、その事を孝子は知らない。
でも、知らない方が良いだろう。
きっと、孝子はまた怒ってしまうから。その事を想像して、晶子はますます笑みを深めるのだった。
「―…それから、女房の呼ぶ声が聞こえるまで二人で色々な話をしたのです。お姉様は、私の書いた「あさかやま」をそれはもう褒めて下さって、私は本当に嬉しかったのですよ。」
晶子の話を聞いて、三鬼は手の中の手習い書を見つめる。
きっと、この紙に書かれた文字の全てに、姉への想いが込められているのだろう。
そうして、彼女は幼い頃の決意のままに今は都一の才女と謳われ、未だ祖母の屋敷で暮らしているものの、その存在を簡単に無視する事は出来なくなっている。
晶子の評判は良くも悪くもあり、徳祐の言う処の「悪名は無名に勝る」を体現していた。
「そうか、晶子は頑張ったんだな。」
三鬼はそう言って、晶子の頭を柔らかく撫でた。
異性の体に気安く触れるその行為に、いつもであれば眉を顰める晶子であったが、その手がとても温かく、そうして、あまりにも心地良かった為、今宵だけはと思いながらそっと目を閉じた。
―…それは、あの頃の孝子の手の温もりを思い出させ、けれど、何処か違う温かさだった。




