十九話・恋と言うもの
翌日の早朝、鏑木法師は徳祐に同行して屋敷を出た。
朝廷からの催促の文に出仕を余儀なくされ、かと言って、道すがらに「あざみの鬼」に襲われるのも御免被りたい徳祐は、鏑木法師に同行を頼み数日ぶりの朝廷へと出仕したのである。
無論、官吏でも無いただの琵琶法師が大内裏の中に入る訳にもいかないので、宮城門の前で牛車を降り、徳祐が政務を終える頃に再び迎えに来る事で話は纏まっている。
「大内裏では陰陽師の方々が宮廷内に結界を張っておられます故、中に入ってしまえば安全でしょう。」
鏑木法師がそう言うのに安心して、徳祐は数日ぶりの職務に励んだのであった。
「晶子は本当に字が綺麗ね!」
孝子は晶子の手元を眺め、感嘆の声を上げた。
晶子が部屋に入って早々、孝子に強請られて手本を横にして筆を取ったのは先程の事。
流れる様にして書かれた書に、孝子の目は釘付けになっていた。
「私が書くと「なにわづ」も「あさかやま」も何故かぎくしゃくした字になっちゃうのよね。本当、晶子は凄いわ。」
「基本である和歌やいろは歌は繰り返し練習しましたから。それはもう、自分が思っている文字が書けるまで何度も。」
「姫様は一筆目から力が入り過ぎなのですよ。それで形が崩れ、手本通りにならないからと言って、書を続ける気持ちを持とうとしない。だからその様な粗雑な文字になるのです。」
孝子の横で宇美がそう指摘する。
けれど、孝子はそんな事は気にしない風で、指先を正面にして開いて見せると笑顔で言った。
「でも、私には箏があるから大丈夫よ。この指先が幾ら粗雑な文字を書くとは言っても、天上の音色を奏でられるのも、この指先よ?晶子も凄い、私も凄い!二人とも凄い!で良いんじゃないかしら?」
「そうですね、姫様の屁理屈が凄いのはよく分かりました。」
宇美が呆れて言うのに、孝子はやはり笑顔で受ける。
そんな二人の遣り取りを、晶子も扇の下で口元を上げて見つめていた。
「ああ、そうだ。お祖母様から粉塾を頂いたのでしょう?宇美、晶子と二人で頂くから持って来て頂戴。」
孝子が思い出した様にそう言うと、宇美は頷き、部屋を後にした。
宇美の姿が完全に見えなくなったのを確認し、孝子は晶子に向き直る。
「今朝、お父様が鏑木法師を連れて出仕されたけど、晶子は大丈夫?」
表向きには四鬼が残した鍼以外、この屋敷を護る者はいなくなったのだ。
「あざみの鬼」がこれを好機と捉えて襲って来る可能性は高くなっただろう。
「はい、覚悟は出来ております。…それに、三鬼様からも護って下さると言われましたので。」
「あら?三鬼って、四鬼の双子の兄の?一体いつ会ったの?」
孝子が首を傾げて尋ねるのに、晶子は何故か気恥ずかしくなって、扇で更に顔を隠しながら答えを口にした。
「…昨夜、私の部屋を訪ねて下さいました。三鬼様は私達を囮にする事を申し訳無いと仰られ、謝罪の為に来られた様でしたが…」
「何それ?四鬼のお兄様って恰好つけなの?」
図らずもその言葉は、昨夜の四鬼の言葉と同じ物であったのだが、それを知る者はこの場にはおらず、晶子はくすりと笑うと孝子の言葉を否定した。
「…優しい方なのですよ、とても。」
妹の言葉に「ふーん」とだけ返して、孝子は先程書かれた晶子の書に目をやった。
その中には、宇美が「この様に胸が熱くなる程、恋焦がれたいものですねえ」と溜息を吐いていた万葉集の恋歌もあった。
「それにしても、晶子は本当に美しい文字を書くわね。こんな綺麗な文字で恋文なんて贈られたら、受け取った相手も直ぐに晶子の事を好きになるのでは無いかしら?」
孝子が「ふふふ」と笑って言ったのを、けれど、晶子は困った様にして目を伏せた。
「…手習いの為に、これまで様々な恋歌を書いて参りましたが、文字を書ける様になっただけで、私には恋の何たるかが分かりません。恋歌を詠んで胸を熱くしたり、恋焦がれたりもなく、ただそこに文字があるだけだと思ってしまうのです。…ですから、私にはまだ、恋文は贈れません。」
「贈る相手もいませんし」と小さく呟き、扇で隠れた晶子の顔を見やり、孝子は「ふむ」と頷いた。
「だったら、晶子はこれから知るのかもね。胸を熱くする事や、恋焦がれる事を。」
「…お姉様は、その様な気持ちになった事があるのですか?」
晶子がそっと扇から顔を出し、姉の顔を窺うと、孝子はにんまりと笑って、きっぱりと言い切った。
「無いわね!」
姉の明快な答えに、何と言って良いのか分からない晶子だったが、孝子は構わず片目を瞑ってこう言った。
「晶子と同じ、私もこれから知るのよ!胸を熱くする事、恋焦がれる事!…だから、「あざみの鬼」なんかに負けないで、生きて思いっきり恋と言う物を楽しみましょう!」
しかし、その日は結局「あざみの鬼」が襲って来る事は無く、政務を終えた徳祐と共に鏑木法師が帰宅したのは夕刻を過ぎた頃だった。




