十話・宴
孝子の近頃の日課は、朝起きて直ぐに庭先の古木に刺された銀の鍼を確かめる事だった。
庭の掃除をする下男には、風水に基づいた縁起物故、抜かない様にと言い含めている。孝子の言いつけを破る者がいない限りは、あの鍼が無くなる事は無いだろうと分かっていたが、孝子は確かめずにはいられなかった。
「姫様、徳祐様から至急の文が届いております。」
女房の宇美が文を両手に持って来たのを、孝子は箏を奏でながら返事をした。
「まあ、お父様から?珍しい事もあるものね。近頃では茂黄君のお屋敷に行ったっきりで、お父様の御顔も忘れてしまう処だったわ。」
「姫様!その様な事を仰るものではありません。さあ、さあ、箏はその辺にして、徳祐様からの文を御受取り下さい。」
宇美が孝子を窘めながら徳祐の文を差し出すので、孝子は顔を顰めると嫌そうにそれを受け取った。
そうして、父親からの文を読み進めると、更に顔を顰めて眉を寄せた。
「…今晩から暫く客人を屋敷に泊まらせるそうよ。それで宴を開くから、その席で私に箏を弾く様にですって。」
「まあ、今晩ですか?それは急な事で…では急いで支度せねばなりませんね!それで、その客人とはどの様な御方なのですか?」
「知らないわよ。文には書いてないもの。でも、お父様の事だから、きっとお父様に取って得になるお客様に違いないわね。…ああ、嫌だ、嫌だ。宴なんて面倒臭い。」
「姫様!」
宇美の叱責を何処吹く風と言った顔で受け流した孝子は、それでも溜息を一つ吐くとすっくと立ちあがった。
「そうは言っても、お父様には逆らえないものね。宇美、支度をしましょう。」
「はい、姫様。」
そうして、孝子を初め、屋敷の中で客人を迎える準備が慌ただしく進んで行き、酉三刻になる頃、徳祐と客人を乗せた牛車が屋敷に到着したと、孝子の元へ報せが届いた。
夕刻ではあるが、まだ室内には陽の光が届いている。
それでも、この先に続く宴席の為に燈台は灯され、庭には篝火が焚かれていた。
孝子は几帳の向こうで、客人を連れた徳祐が着席するのを、箏の脇に置いた脇息に肘を掛けただらしない姿で待っていた。
ここに来ても、孝子のやる気は一切起きる事は無かったのだ。
「姫様、何て恰好ですか!ほら、もっと背筋を正して!」
「几帳で隠れてるんだから、向こうからは見えないわよ。」
宇美がこそりと耳打ちしたのを、孝子はやはり面倒臭そうに顔を顰めて悪態を吐いた。
「姫様っ!」
宇美の眉が吊り上がったのを横目で見つつ「ほらほら、お父様がいらっしゃたわよ。」と両手で制して、客人を連れて部屋に入って来た徳祐に顔を向けた孝子であったが、徳祐の後に続いた裳付姿の男を目にすると、口をぽっかりと開けてその動きをぴたりと止めた。
「姫様?」
ぴくりとも動かず客人を凝視する孝子に、宇美は首を傾げて主の名を呼んだ。
「どうして…」
「姫様、どうなさいました?徳祐様が御呼びですよ。」
「あ、…っ」
宇美が孝子の肩を揺すり言ったのに、我に返った孝子は改めて父親に顔を向けた。
久し振りに顔を見る徳祐は、呼べど返事をしない娘を腹立たし気に睨んでいる様だった。
「…失礼致しました。」
「まったく!…鏑木殿、この様に些か思慮に欠ける姫ではあるが、箏を奏でれば都一と謳われている。今宵は、その音色を存分に楽しんで頂きたい。」
徳祐の言葉に両目を閉じたまま頷いた男に、孝子は内心で「鏑木?」とその名に疑問を抱いたが、父親の命ずるまま、箏へと指を伸ばした。
正直、徳祐の連れて来た鏑木と言う男が気になって、箏の演奏どころでは無かったのだが「都一」だと紹介された手前、下手な演奏を聴かせるのは孝子の矜持が許さず、一度も指先を間違える事無く演奏を終えた頃には、孝子の口からはほっと安堵の溜息が零れていた。
「流石、都一と謳われる天上の音色。見事な腕前でございますね。孝子姫様、ありがとうございました。」
孝子の演奏に微笑んだ鏑木が、その腕前を褒め称えるのを、徳祐は自分の手柄の様な顔をして満足気に頷いている。
「…しかし、こうやって孝子姫様に御会いして気付いたのですが、姫の命の形は奇妙な形をしておりますね。」
「命の形?」
「はい、元々はとても強い陽の気を纏っていた様ですが、私の目にはその輝きは半分に映っております。」
盲いた鏑木が何かをその目に映す筈も無く、それでも彼が見えると言うのなら、それは常人には窺い知れぬ何かなのだろう。
しかし、徳祐が気になったのは、そんな事では無かった。
「…っ、半分だと?」
徳祐は鏑木の言葉に唸り声を上げた。
彼の言う「半分」と言う言葉の意味に覚えがあった為だ。
「…聞く処によると、孝子姫様には晶子姫様と言う双子の妹姫様がいらっしゃるとか?」
「…ああ、その通りだ。だが、晶子は忌み子故、この屋敷に置いてはおけなかった。今は義母の別邸で暮らしているが…。」
「確かに、双子を忌み子と言って別々に育てるのはよくある事ですが、孝子姫様が陽の魂を持つならば、恐らく、晶子姫様は陰の魂をお持ちでいらっしゃる筈。陽と陰、互いが存在する事こそ、調和への道。孝子姫様の様な方ならば、寧ろ、妹姫様を御側に置く方が魂も安定すると思います。これ程の命の輝きを持っていらっしゃるのならば、下等な怨霊等、近寄る事も出来ぬ筈…御二人が揃えば「あざみの花」もこの屋敷には届けられますまい。」
「二人が揃えば…」
そうやって徳祐と話始めた鏑木に、周囲の者達は何故、徳祐が鏑木をこの屋敷に招いたのか知る事となった。
政務を終えて帰る途中の徳祐が、都で噂の「あざみの鬼」に襲われ、そこを通り掛かった琵琶法師である鏑木に助けられたと言う衝撃的な話に周囲の誰もが息を呑んだ時、
「その様に恐ろしい事が…っ」
か細い声と共に、がたんと誰かの倒れる音がした。
女房達の悲鳴と共に、徳祐の北の方である細波君を呼ぶ声が聞こえる。
どうやら信心深く繊細な細波君は、夫の身に降りかかった災厄に耐えられず、気を失ってしまった様だ。
意識を失った細波君を北対へと急いで運んだ処で、最早宴席を続ける事は不可能となり、面目が瞑れて平謝りする徳祐を手で制した鏑木は、細波君の元に付いてあげる様に言って、自分に当てられた客室へと杖をつきながら戻って行った。
こうして予想外にも、鏑木法師を持て成す為の宴席は、早々にお開きとなったのである。




