魔法の扉 6
16
2007年の桜の花がすっかり散った頃、優紀は座禅研究会に行く決心がついていた。その頃、ふとしたことから、大山氏の噂を聞いた。
彼の活動がボランチア活動を中心にすえたNPO法人の設立で、当分の目標が絶滅危惧種を守るための活動と、足の悪いお年寄りの散歩や買い物の手伝いを始めたとのことだ。ことに、絶滅危惧種を守ろうと声を出したのは山本杏衣だったようだ。
アンネの日記を思い起こす名前をつけた祖父の思いが、こういう形で結実したことに、優紀は感動をおぼえた。ユダヤ人を抹殺しようとしたナチス、原爆を彼らが最初に製造したら、歴史はそういう方向に進んだかもしれないと危惧した、当時の科学者の思い。そういう思いが杏衣の中に流れ、蝶々が絶滅すれば、花の雄しべの花粉を雌しべに運んで受粉を助ける自然の流れが壊れ、植物も滅びる可能性があることに、気がつかせたのかもしれない。
大山氏のニヒリズム克服同盟は、尾野絵ユートピアNPO法人と変えてから、大学生も入ってきたようだし、何と言っても驚いたのは会社の友人の飯田がこの法人に入る意欲を示していることだった。
それから、しばらくして、新緑の頃の土曜日の夜、座禅研究会は五時に始まっていた。ここに、高校時代の友人岡野と寺田が来ることになっているのだから、優紀は久しぶりに会える楽しみがあった。二人ともビデオサークルでの仲間だった。山本杏衣と中野静子が二人で来ていたのには予想していなかったので驚いた。
松尾優紀は十分ほどおくれて部屋に入り、席についた。 斜め横の席に座っていたアリサの顔に一瞬、 美しい微笑が立ちのぼった。 座禅研究会は仏教の他の宗派の人も呼ぶし、キリスト教のように、他の宗教を呼ぶことも稀にあるらしい。
これはアリサの父親の住職の独特の宗教観から、そういう風にしているのであろうが、優紀はその稀な時に出席するという運の良さに恵まれたと思った。何故なら優紀の頭の中では、この二つの宗教はどう考えても異質で、共通点らしいものを感じなかったのだ。
それにしても、岡野は唯物論の考えを支持しているし、 寺田は存在に醜さを見出すと主張する奇妙な感性の持ち主。二人はジョンソン氏の話をどう受け止めるのだろうという興味もあった。
円陣になった席の一角に座っているジョンソンさんが話をしていた。ジョンソン氏は四十ぐらい感じの人で、体格は中肉中背で、温厚な白人だった。
彼も松尾が入室した時、 おやという驚きの表情をしたが、話はやめず、はっきりした日本語で流麗に続けるのだった。
「私達は小さな自己を捨てて、心の奥にある大きな自己に生きることが一番大切なことなんです。 マタイ伝の十章にこういうキリストの文句があります。 地上に平和をもたらすために私が来たと思うな。平和ではなく、 つるぎを投げ込むために来たのである。もちろん、 キリストも戦争を憎み、 平和を愛しておられました。 ですからこの聖書の文句は私達の心の平和について言っているのだと思います。愛する努力をしょうということでしょうか。仏教では、大慈悲心と言いますね。パウロはこう言っています。たとえ私が予言が出来、宇宙の全知識に通じ、山を動かすほどに満ちた信仰を持っていても、愛がなければ無に等しい。愛は寛容で、愛は慈悲に富む。愛はねたまず、誇らず、高ぶらず。非礼をせず、全てを許し、全てを耐え忍ぶ。知識は滅びるが、愛はいつまでもたえることがない。この宇宙で最も偉大なものは愛である。
本物の愛に生きるということは、小さな自己を捨てなければできないことですから当然、心の中に激しい戦いがひきおこされるはずです。 心の平和は大事なことですが、とかく厳しい心の戦いを経験していない未熟な人の心の平和は、 むしろ惰性的な毎日に流され、くだらない感情に翻弄されていることが多いものです。本物の愛に生きるには厳しい山を乗り越え、頂上に登った時のすがすがしい心の平和こそ大切なのです 」
小さな自己を捨てる。じゃ、俺の恋心もすてろということなのか、そんな無茶なと、優紀は思った。
ジョンソン氏の重々しい声が優紀の耳に響いた。
「大きな心というのは愛です。大慈悲心です。自分の煩悩を浄化し、愛と大慈悲心を旗にして、生きていくことが大切で、そうでない者は信仰がないと同じだと思います。
また自分の煩悩を浄化していこうという修行の志がない者は真理に到達できないということだと思います。」
優紀はこの時、思った。真理を知るには自己を忘れることだと、アリサの父の住職が言った話を思い出した。自己を忘れるために、座禅するとかいう話だった。今のジョンソン氏の話と似ているような気がする。ジョンソン氏の話は面白いが、冗長で退屈だ。そんなことを考えなくても生きていける。
小さな自己を捨てろとか、新しく生まれ直さなくてはならないとか、優紀の耳に響くけど、その部屋の籠にいる大きなオウムの鳥の声のように響くではないか。自分の未熟なのは分かる。そんなことよりも、目の前の中野純子の清楚な美しさはどうだ。これこそ、生きている証拠ではないか。これこそ生命の真実ではないか。
間違っているのだろうか、と優紀は考えた。彼の心に葛藤がおきた。
「ですがキリストの言う隣人愛は信仰と同じように厳しいものなのです。 私達が日々経験しているような馴れ合いの友情などとはわけがちがうのです。相手の言うことが倫理的におかしいと思っても、その場を取り繕うために、相手の言うことに同調してしまう。確かに、そういうことも必要でしょう。しかし、そればかりやっていると、それは単なる付和雷同で、友情ではありません。本当の隣人愛を獲得するためにも信仰を強く持たねばなりません。
そのためには小さな自己を捨てなければならないのです。 この小さな自己を捨てるということが宗教にとって最も大切な修業の一つなのです。 小さな自分を捨てると大きな自己が見えてきます。 キリストはニコデモという偉い学者にこう言いました。よくあなたに言っておく。 肉から生れる者は肉であり、霊から生まれる者は霊である。あなたがたは新しく生れなければならないとわたしが言ったからとて不思議に思うには及ばない。
風は思いのままに吹く。 あなたはその音を聞くがそれがどこから来てどこへ行くかは知らない。
霊から生れる者もみなそれと同じである。肉から生まれる者は肉であり霊から生れる者は霊である」
ジョンソン氏はそこまで言った時、口を閉じた。静かな沈黙が訪れた。気がつくと、アリサの父の高山住職が僧服を着て立っていた。優紀はこの僧を見るのは二度目だ。年の頃は六十前後という所か。髪は白髪が目立ち、顔立ちはアリサにどこか似ている。深みのある顔立ちだ
「ニュースに見られるようなマナーと倫理の崩壊と色々な争いを防ぐには、私達が真理の大海の中にいるということを知ることです。それは、今ジョンソンさんがおっしゃっているように、小さな自己を忘れる時、そのことが分かります。真理の大海は深いいのちと愛に満ちているのです。そのことは座禅の意味です。我々は普段、妄想に満ちている。妄想や煩悩という言葉が嫌な人には、考え事に満ちていると言いましょう。考え事に満ちている自分は小さな自分ですね。世俗の世界では誰でもそうなります。明日のことを心配する。金儲け。人間関係にあれこれ妄想を働かせていると、こちらに自分がいて、向こうに物があるというごくありきたりの世界観の中で悩み苦しみ、時には歓び、悲しみというありきたりの人生が展開されるわけです。
しかし、この世俗の世界と隣り合わせに魅力的な異世界があるとしたら、どうでしょう。つまり、真理のいのちの大海の中に自分がいることが知られると、自己と向こう側の風景の垣根はとれ、どんな平凡な風景も美しい光とうっとりするような音楽に満ちたものになり、大自然の深い美と愛に心うたれるようになるのです。この平凡な部屋が、この平凡な荒れ地が浄土に匹敵するような風景に変身するというのです。
嘘みたいな話ですが、これが真実の宗教の核にあるのです。
このいのちの大海に入るためには、座禅しましょう。勿論これは修行ですから、この真理の大海に気がつくのに、一生かかる人もいるかもしれません」
高山住職は微笑した、
「座禅が苦手な人ならば、自分が「不生不滅」のいのちというイメージを浮かべて、南無阿弥陀仏と唱えても、良いし、他の好きな聖句を唱えても良いのです。
すると、時空という概念ではとらえられない虚空のようないのちに満ちた光と愛の世界に入るというイメージが得られます。
その時、思考は止まります。私はその時、死なない不死のいのちの世界に足を入れたと思っているのです。
これは、合理的な知性で知ることの出来ない世界です。
理性は素晴らしいけれど、決して万能ではありません。
特に、仏教で言う真理の中核にはこうしたいのちの聖句で入ることが出来るのです。神秘なことです」
そのあと、ジョンソンさんが瞑想の号令をかけた。椅子に座っている皆は思い思いに瞑想に入った。優紀は瞑想していて、雑念が起きた。
真理の大海を知るのに、座禅しても一生かかるかもしれないだって。そんな呑気なことができる筈がないじゃないか。我々は生活しなければならないんだぜ。そんな風な言葉が優紀の頭に飛びかった。
いつの間に住職はいなくなっていた。静かにビアノソナタが聞こえてくる。
瞑想が終わって、皆が庭に出ると、夜空に満月がかかっていた。
黄色い満月がかかっていた。
松尾優紀の隣に中野静子が来ていた。
「今の住職の話、分かった?」
「分からないけど、いい話だと思いましたわ」と静子が言った。静子の隣にいる山本杏衣が「わー綺麗。満月が」と素っ頓狂な声を上げた。
優紀の心は空虚だった。空虚だったけれど、何か激しいものが燃えていた。静子の美しい横顔に感ずるものがあったのだろうか。それとも、満月の美しい光か。
いや、優紀の後ろの部屋で、アリサがテーブルの上に茶碗を用意しながら、ジョンソン氏と談笑している、神秘なアリサの声に優紀の心の弦が震えているのだろうか、彼にも分からないことだったが、ここに現れている庭の世界の何と美しいこと、そして、心が空っぽなのに、その中にある弦が震えているようだ。悲しみと喜びがミックスしたような不思議な感情があふれてくる。
彼は詩が書けるぞと思った。物語が書けるぞと思った。
【つづく】