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魔法の扉  作者: 久里山不識
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魔法の扉 2

6


松尾優紀にとってこれほど希望に満ちた春を迎えた事は、今だかってないことであった。城井高校に入学できたということは、合格発表後十日以上たっても夢のように思われたのだった。彼の中学三年生の時の通信簿を見れば、合格ということが驚きであったことは何も優紀だけにかぎったことではなかった。

担任の谷川先生にとっても優紀の合格は、長い教員生活における一つの奇跡であった。

県立城井高校のガラスばりの新築校舎はさらに優紀の夢をかきたてた。広い校庭、三階だてのスマートな校舎、緑や花の多い静かな環境、そうした条件が自由な校風とプラスされて魅力的な学園という風に優紀の目に映った。

それに優紀には、高校での新しい友人が入学式前にすでに二人もいた。

一人は城井中学の岡野光男という秀才少年だった。名門私立高に合格しながら、それをいともあっさり棒に振り、城井高にやってきた岡野。理由は瀬戸内海が見渡せる学校の位置が気にいったというから、面白い。それに、瀬戸内海に夕日が沈む光景を縫い込んだ織物が校旗である。それも珍しいし、その由来も岡野のお気に入りらしい。勿論、これは松尾優紀にとっても同じ気持ちだ。夕日と海の溶け合う光景に永遠を発見したというランボーの詩が校旗に織り込まれているのだから。

城井第五中では野球部にいた岡野だが、サッカー部の優紀との接触は、これまでまるでなかった。

それが試験当日口をきいて以来、春休みの間、時々岡野は優紀の家を訪ねてくるようになった。

優紀のように、背は高くないが、いかにも健康そうな風貌の中に鋭い知的な目を輝かせていた。当然、校旗のことが話題になった。

優紀にとって、女の子の知りあいができた事も楽しい空想をかきたてた。山本杏衣である。ただ、友人というよりは先輩になるので、戸惑いもあった。

昨年の夏、実母のいる信州に帰った時、途中の電車の中で懇意になった老人の孫娘である。 テニス部に入ることには迷いはあったが、四月になると優紀は何度か城井高のテニスコートのわきに立ち、杏衣に軽い挨拶をするのだった。彼女は愛敬のある笑いを振りまきながら敏捷な動作でラケットを振っていた。

松尾優紀の心には、こうした新しい友に楽しさを感じながら、一方において中学時代の懐かしい友や教師も思い出していた。


美しい春の到来と共に、 それぞれがみな別々の道を歩み始めていた。優紀にとって、 これらの友のことはもちろんだが、 なによりも懐かしく美しい思い出の人となったのは、寺院の娘である高山アリサである。 彼女は中学の教師として、この四月初めて教壇に立つ。彼女は優紀の中学に教育実習生として来て以来、希望の光であった。だがアリサは、すでに弁護士の堀川と結婚している。 この思いは優紀を不安におしやった。 一種の苛立ちに似た感情だった。彼は、 その考えにとりつかれると、ねむれない夜と対面しなければならなかった。 それで彼は、 アリサのことを思う時は極力堀川のことは忘れるように努力した。堀川は優紀が城井高に合格した影の功労者である。 そのことは、 優紀も認めていたし堀川に対して感謝の気持も持っていた。

だが、アリサを思う時はただ彼女一人の美しい影像だけが浮かんでくれれば良いのだった。 よけいな付属物は彼の慕情に不必要だった。

優紀は春の息吹が横溢する町や郊外の田園をながめながら、アリサのことを考えた。 彼女は近日中に教壇に立つ。 優紀と同じような若い目が彼女の姿を見る。その視線は憧れに似たものや恋に似たものが、きっと入り交じっているにちがいない。優紀はその視線をうらやましく思った。 彼女はそうした若い生徒達の熱情にこたえて愛情に満ちた声や瞳を教室中にふりまくにちがいない。 やさしい春の光線が教室を黄金色に縁どる中で、彼女は女王のように美しく歩くにちがいないと優紀は、空想するのだった。彼女は教師であると同時に使命を持った伝道者である。彼女は思想家である。 真理の到来を信じると同時に地上にユートピアを築こうとする面もあった。仏性、仏、真如、神、空。核兵器を地球からなくし、世界の軍縮を進める、そうした断片的な言葉だけが耳に入った。それでも、優紀にはアリサのいる寺院の深遠な教理を理解することはまだできなかった。

だが、その教理から滲みでてくる理想主義には強く心をひかれるのだった。

彼はその理想主義を深く学びたいと思った。彼が散策や読書に時間をつかっている間に、入学式がやってきた。

体育館の入り口に近い所に桜の巨木があった。満開だった。青空に絨毯のように広がる花の群れが黒い肌をした枝を隠している。優紀は華麗で、生命の喜びを現わした一枚、一枚白い花びらを見た。乙女のようなかれんな装い。桜というものがこれ程の春の自然の創造の喜びの象徴であるのだろうかという思いが彼にはあった。

制服に身をかためた新入生達が体育館の中をうずめていた。



入学式の儀式が始まると、型どおりに学校長の挨拶のあとに教育長や市会議員の話が続いた。次々演壇に立った議員の話は陳腐でおもしろみがなかった。大きな花瓶に大きな真紅の花だけが演壇の中で、美しい歌声を響かすかのように、独特の自然美を構成していた。

陳腐な内容に、あくびが出そうになった時に、 百九十センチは十分あるかと思われるロ髭をはやした大男が勢いよく舞台の上に飛び上がった。マイクの紹介によると、前保護者会の会長で発明家だそうだ。彼が喋ると、不思議な緊張感が会場に流れた。 初め優紀達は、時間におくれた県会議員かなんかが急いでやってきて、おきまりの話をするのかななどと思っていた。

ところが話の内容が、 まるで今までの調子のものとちがう。

「みなさん、 入学おめでとう。 私は発明家です。 私が、 こうしてあなた方の入学式の日にマイクを前にしてお話しようと決意しましたのは、それなりの重大な理由があるのです。

これから私がお話することをよく聞いてほしいと思います。 私は最近、 夢の中で強い啓示にうたれました。

夢の中に現われた天使は、 私の発明した水陸兼用の車のソーラーカーで、伝道の旅に出るように命令したのであります。

何を伝道したら良いのかわからない私に天使はていねいに教えてくれました。

それは『地球の危機』ということであり、地球温暖化をこのまま放っておけばどうなるか、地球に人が住めなくなるというのです。最近の異状気象に、その兆候が表れてきています。人が争っている場合ではない。戦争なんかしていている時ではない。すべての国が協力して、この問題に取り組まなければならない。そうしないと、ノアの大洪水のようになる恐れが近づいている。私は地球温暖化の原因の一つに、車の排気ガスがあるとにらみ、1995年の秋、昨年になりますがソーラーカーを発明しました。

これを持って、ユーラシア大陸への旅に出て、co2を出す車ではダメだ、地球温暖化を食い止めるには私の発明したソーラーカーにしなさいと、宣伝しようと思っています。そのためには平和が必要なのです」

ここまで大山が、 情熱的でよくとおる声でしゃべった。その時、 ついに我慢のできなくなった校長が一人の若い大柄な教師と一緒に大山に近づいて来た。 数分の押し問答が始まった。 しかし大男の大山の迫力に校長達は旗色が悪かった。 そして大山が、 「あなた方は引っ込んでいなさい」 と大声で一喝すると入学式の雰囲気をこわすことを恐れた校長達はすごすごと引き下がってしまった。

前代未聞の光景にざわついた式場も大山信一が再びマイクをとりあげて、 しゃべり始めると再び波をうったような静寂がもどった。 優紀にとっても、 この式場に不釣り合いな服装をした大男が妙な演説を始めたことに驚きを感じると同時に興味も持った。

「 さて次ですが、みなさんこの世が不正に満ちていることはマスコミでよく知っていることと思います。城井高校も不正とまで言うつもりはありませんが、教育の理想から遠くはずれていることは、 みなさんにもいずれ分かります。自由な校風ということで入学してきた生徒さん達にこんなことを言うのを申し訳なく思うのですが、若い時は真実を見る目を養わなければなりません。

そうしないと、社会は進化しません。

これを直すには人類愛が必要です。皆さんの心の中に眠っている人類愛が目を覚まし、

真に自由な学園を建設することが必要なのです。

といっても皆さんは指導される立場、少なくとも愛を学ぶことです。友情を大切にして下さい。これが私の言う心の発明です」


大山信一は、深々と頭をさげるとそのままステージを下り、あっというまに体育館の外に出て行ってしまった。

現代のドンキホーテだと優紀は思った。要約されたドンキホーテは読んだことがある。風車に突進するドンキホーテは優紀にとって詩人風の英雄だった。 大山は物語のように、ほっそりしていず、むしろ太っていただけに、妙なドンキホーテを想像しておかしさが心の中に噴き出してきた。それで、笑いをこらえるのに苦労するのだった。現代のドンキホーテと、優紀はつぶやいた。

入学式が終わった。帰り道、新しく友人になった岡野光男とその日のハプニングについて話題にした。

「君の言うように大山はドンキホーテだと思うね。しかしセルバンテスの書いたのは小説の中だから、良いけど、あれを実生活の中にもちこまれると、頭が狂っていると思われてもしかたないじゃないかな。

あの発明家は SFにこって少々頭がおかしくなっ たという噂があるよ。

もし正気で愛と大慈悲心の人類社会をめざすなら、民主的ルールに基づいた手続を進めなくちゃいけないと思うがね。ユートビア建設というのはそんなに簡単なことではないと思うね。日常における多くの人々の地味な活動が歴史を動かすんじやない? どうだい。優紀君の意見は?」

優紀は岡野の考えはもっともだと思った。

しかしあの発明家の声の調子には何か心をうつ響きを持った詩があるように優紀には思われるのだった。

ひげを顔じゆうにはやした大男は五十才を過ぎていた。妻と、大学に入学した息子と三人で、

大きな邸宅に暮らしているのだそうだ。優紀は、さらに彼の話を聞きたい気がした。

そのことを岡野に言うと、彼ははねつけた。

「彼は、発明家でありながら、詩人のような所がある、こういう人の言うことは信用しないし興味もないんだ。

発明家なら科学者ではなくてはね。つまり、理性的であること」

松尾には詩人に興味を持たないという岡野のあまりに理性的な部分が少々気にくわなかった。

優紀の祖母は詩人だったせいもあるかもしれない。

優紀は、むしろこうした大山のドンキホーテ的な所に興味をひかれた。


桜の花が散り、授業が始まるようになると、優紀にはどこの部活に入るかということが関心の的となった。

そのうちに山本杏衣から声をかけられた。彼女に対してはおじいさんを大切にしろと忠告のような調子で言ったが、お爺さんはとっくに死んだわ、下級生が何をなまいきに言うという態度でえらく高圧的なので閉ロした。それにしても、あの画家が死んだとは。今の彼女は最初に彼女の家の玄関で話した時とまるで印象が違う。

優紀はどの部活を選ぶか迷っていた。テニス部、天文部、文芸部、サ,カー部のうちのどれかにしようと思っていた。

井上茂は山本杏衣と親しく彼女の口から優紀を知り、柔道部に入るように声をかけたのだった。

松尾は中学の親友、大助が柔道をやっていたことを思い出し、神経の細い自分には不釣り合いなスポーツだと考えた。大助は図太い大陸的なおおらかさのある男だった。

優紀はことわろうとしたが、ふと彼の心に強くなりたいという欲望がわきあがってきた。

彼はまるで考えもしなかった柔道部に入ることも悪くないという考えに傾いている自分にちよっとした驚きを感じていた。

それでも、彼は迷った。背がひょろりと長い体型が柔道向きでないと、迷った。井上はそんなことより、やる気だと言って、優紀を誘った。井上は丁寧な話し方をする一方、よく笑う大陸的なおおらかな所がある。井上のそんな性格と優紀は相性があった。

一時はテニス部に入ろうとして仮入部までしたので、テニス部には複雑な思いがあった。

そうして山本杏衣の威勢のいい声を聞きながら、一週間ほどラケットをふってみたのだが、あるささいな事で彼女に対して腹をたててしまったのだ。

おそくまでラケットの素振りを練習したあと、薄暗くなったグラウンドで優紀は山本に突然キスされたのだ。

「あなた経験あ るの?」といきなり聞かれ、ちょっととまどっていると彼女は暗闇の木立の所にひっばり、彼女の唇を彼に押しつ けてきた。彼は、そのあと三日間テニス部に行きはしたが、山本杏衣とは口もきかなかった。

しかし彼女とよく親しそうに立ち話をしている井上茂という男が気にかかっていた。

山本杏衣は松尾を指さしながら、井上に向かって言った。

「この人ったら、テニスにまるで熱意がないのよ」

「フーン、随分、背が高いんだね。柔道部に入る決心がついたかね」

井上がひややかな微笑を浮かべて言った。松尾はその言葉が妙に気にかかった。山本が「せっかく仮入部している人をとらないで」と言いはしたが、松尾は彼女と親しくするずんぐりした体格の井上茂に興味を持ったし、柔道部への誘惑にたとえようもない魅力を感じたのだった。

こうして松尾優紀は仮入部してから十日目にテニス部をやめて、柔道部に入った。

優紀には柔道部の封建的な所が妙に新鮮に思えるのだった。

井上から、まず受け身の指導を受けた。背負いから、内またの指導を受けるようになった頃から、優紀はますます柔道に興味を持つようになった。それに、彼は、柔道をやるたびに彼のひどく繊細な神経が鍛えられて強くなるように思った。

井上は、優紀にひどく好意を持ち、親切だった。その井上から大山の所に行ってみないかと言われた時、ひどく驚きもし、うれしくもあった。大山は柔道三段で、息子が城井高の生徒だった三年間、保護者会長と同時に、柔道場にも時々顔を出し、指導してくれたのだそうだが、あの入学式で演説をぶって以来、全く来なくなってしまったという。

ある日、井上は心配そうに言った。

「おれも実は心配していたんだ。息子さんが名門の大学に行き、東京に行ってしまった。奥さんは自分の父親の介護のために、近い所だけれどそちらに寝泊まりすることがよくあり、彼は一人になることが多いそうだ。孤独に慣れているとはいえ、もう六十近いからね。」


三日後に優紀と井上は、大山を訪ねた。井上は山本杏衣と一緒に行ったことがあるようだ。

大山は、一人で仕事をしていた。金持ちを思わせるような、立派な邸宅で、二階建てだった。発明で特許をとり、儲けたというのは町の噂にあったのだ。今の彼は電気自動車と太陽電池に興味を持ち、日本海を渡り、ユーラシア大陸を渡るのに、砂漠では、太陽電池を使う、市街地では、バッテリーに蓄えた電力でモーターを通して走るように工夫しているという話だ。



中国を通るのかロシアを通るのか、あるいは第三の道シルクロードがあるのか、どちらにしても砂漠に近い所を通るだろうと言った。

「そのためには平和でなくてはいけない」と彼は繰り返しそう言った。

「日本人に信頼がなくては、通してくれないだろう」とも言った。

ヨーロッパまで、行けばドイツ、フランス、イタリアには行きたいと言った。終点はロンドンさ。そんなことが可能なのか不可能なのか、優紀には分からないことだった。

「君、こんなことを他人にしゃべるのは初めてなんだが。どうやら僕も死を覚悟で、遍歴の旅に出る時が近づいていると思いたい所なんだが。それが無理となると、それまでニヒリスト克服同盟でもつくって、青少年の冒険家の育成に努めるか」

大山は現代の日本はニヒリズムに汚染されていると言い、それを克服するためのクラブを立ち上げるのは意味あることだと、簡単な説明をした。冒険とは、なにも外国に行くことだけでない。企業をたちあげること。ボランティア活動とか、日本を夢に満ちた活動の場にするのだと言った。その時、奥さんが買い物から帰ってきたこともあって、それを潮時として、優紀達は帰ることにした。

帰り道に、二人の話題はニヒリスト克服同盟だった。井上は言った。

「大山さんはニヒリストだな。ニーチェに影響されていると、彼も自分でも言っている。僕はニーチェなんていうのは難しくて、読んでないが、大山さんの話によると、キリスト教的な神を否定するのだそうだ。すると、人の生きていく意味が分からなくなるんだそうだが、それでもたくましく生きていくという考えなんだそうだ。ニヒリストでも、人類の幸福のために前向きに生きる。それが大切ということなんだろう。」

優紀は寺の娘でありながら、キリスト教的な神も肯定する島村アリサを思い出した。自分はどう考えたら良いのだろうと思うと、荒野に一人立つ思いがした。

今まで考えたこともないことを考えた。自分は理屈なしに未来に向かって生きようとしている。世界のこと、知らないことを知りたいと思っている、好奇心の塊だ。

杏衣のことも話題になった。

「杏衣はファシズムと戦う意味で、あのアンネという名前を彼女が生まれた時に、画家のお爺さんがつけたそうだ。だから、山本杏衣は、大山の遍歴の目的に世界平和と差別の廃止を旗印に掲げて、旅させたいのさ。地球温暖化についてもね。国際連合で取り組んでいるのに、今更、遍歴の旅なんて漫画みたいな話さ。でも、何か共感するな」と井上は言った。


松尾は、井上茂の言っていることが分かるような分からないような気持だった。

「ニヒリストって何だい?」優紀は問うた。

「君は、随分と間がぬけた質問をするんだね。大山の言うことをわからないで聞いていたのかい? ニヒリストというのは、虚無主義者のことでね。つまり真理なんかないと思い、絶望してしまった人間のことをさすんだよ。だから道徳宗教ばかりでなく、あらゆる権威・制度を否定していくんだ。

どうだ、松尾君。わかったかね。 ニヒリストというのはこんな風なんだ。大山は二ヒリスト

なのかもしれないね。でも、彼のニヒリズムは高い理想をかかげているが故に色々な困難に出会い挫折してしまったような所が感じられるね。 こうもいえるね。現実の世界ではニヒリスト

で、夢の世界では理想主義者であるとね。彼はポエムの世界では心の隅に美しいユートビアを持っているにちがいない。

しかし彼は、それが決してこの地上で実現されることはないと信じているという意味でニヒリストなんだ。

僕は大山の弟子というのかな。柔道を直接、指導してもらったという意味では僕の先生だ。」


松尾は、 ニヒリズムという考えと、これまでお寺などの座禅のあとに聞かされたユートビア志向の理想主義と底にあるものがひどく異なっているように思われた。


松尾優紀のすばらしさは、子供の頃からのアニミズム的世界が高校一年になってもくずれないことであった。

彼は中学時代にはサッカーに夢中であったし、 高山アリサの寺院で理想主義的な思想の世界を知りはしたが、まだそれほど理論の世界になじんでいなかった。彼 のまわりには友人や先輩達が彼にむかって色々な理論を紹介するが、彼には世界が理論で説明される前のアニミズム的感性の世界こそが最も親しみがあり美しく真実味があるように思われるのだった。

例えば岡野と議論した時もそうだった。岡野は図書館で本ばかり読んでいるような生徒だった。

岡野はその頃、科学雑誌にこっていた。人の心も脳という物質がつくりだしものだというような話をした時のことだ。

「人間の心も石と同じといいたいのかい」と優紀は向きになって反論することがあった。

「僕はそうは思わない。確かに、石も花と同じように生きていることは認めるけどね」と優紀は微笑した。

岡野は優紀の感覚が幼稚であるかのように、笑った。  

「生きているというのは新陳代謝があることだぜ」と岡野はぞっとするような冷たい目を優紀に向けた。いつもは微笑している目がそんな風に変わってしまうのだから

恐ろしいと優紀は思った。    

優紀はそんな風だから、まわりの大人や友人達が人生の意味について時々得意そうに、深刻に説明するのをいぶかしく思っていた。優紀にはそんな風に人生の意味についてあれこれ詮索する必要性にせまられたような経験はいまだ なかったのである。彼には世界が花のようにいつも美しく親しく現われるのだった。確かに都会は彼の田舎のように自然を残してはいなかったし美しくもなかったが、優紀の家は野絵の斜面の町の一つの路地の上、つまり高台に近い所にある。

だから、庭に出ると、路面電車の音が風の向きによってはカラスのように、ある響きをもって聞こえる。

瀬戸内海の海の色の変化は美しいだけでなく、こくこくと動いているいのちを感じさせた。それは夕日の射す時に、海の色が昼間の緑色の近い色を急激に変化させることに象徴された。それだけでなく、彼の目の前にあるすべてのものは彼に生きものとしての挨拶を送るのだった。


机にむかえば万年筆がその優美な姿をあらゆる色彩の合唱の中で浮かべるのだった。

それはまるでべットに横たわる美女がやさしい曲線美を表現した裸身を黒と金でテザインされた布でおおい微笑しているようだった。

外に出れば季節の花がこの都会の雑踏の中で彼の目を楽しませてくれることもあったが、そうした事よりも町の中で醜い姿をさらしている建物や何かの看板、あるいはデパートの中を飾っているあらゆる商品が生き物として感じられることの方が、彼のすばらしい才能として特筆すべきことなのである。それぞれの物質はそれ特有の顔を持っている。

この顔というのが実におもしろいのである。電話は妙な生き物であった。まるでりすのように可愛らしく顔に番号を書き、そしていつも片手を頭の上にのせているヌート写真のようだった。

時おり森の中に響く角笛のように小鳥達を驚かす不思議な音をたてるのだった。

テレビはもっとおもしろかった。 スイッチを押すと美しい絵が画面に映る。 これはまるで魔法の鏡のように思えた。

台所のテーブルの上にある色々な調度品はさらにおもしろかった。

やかんは銀色の鉄が輝いていて形が妙だった。唇をつき出している姿はやわらかみのある瀬戸物でつくられた急須と兄弟のようである。


白い湯気をたてた湯が唇から湯飲みに落ちていく。 

 パンだのやかんだの本だのコーヒーを入れたビンだのが、

テーブルの上に工場の煙突のように林立している。松尾優紀の住む世界はすべての物が生きているアニミズムの世界でもあった。

すべての物は、いのちを持っていた。空間すら何か多くのいのちが呼吸しているように思われるのであった。

確かに姿は見えないけれど、 いのちはすべての空間に脈打っているのだと思った。

松尾はまだ理論の世界を持っていなかったけれど、彼の見ているこのアニミズムの世界はどんな理論よりも彼に生きる希望と確かなものを与えてくれるのだった。



彼は眠気が襲う中、静まりかえった深夜、松尾は三時三十分頃、起き出しペンをとった。

眠気はとれていたが目が螢光燈に照らされた時、ひどくまぶしかった。

光になれても目のしよぼしょぼした感じはしばらく続いた。

彼 の額のあたりに眠気のかたまりが残っているような気がした。

もう一度べッドにもどろうかという誘惑におそわれたが、又日記を書きたいというやみがたい欲求におされてペンをとりつづけた。

眠気は、目のあたりをおそっているので時々目ぶたをとじたりして、再び白い紙をながめた。。


山本杏衣のしなやかな肉体を思い出して、彼は魂の波寄せるさざ波を感じとった。杏衣はアンネの生まれ変わりなのだろうかという妄想が起きることもあった。画家の祖父の影響から彼女には大山に何か意見らしいことを言うだけではないか。それでも、何か鋭いものがある。そんな色々な思いに、彼は翻弄されたあと、空しさと淡い後悔を感じながら、再び日記にむかっていた。彼は、大山が世間離れした行動をとることを懸念しながら、大山の印象を白い紙の上に書いていた。目やにが目のふちをおおっているような不愉快さが彼を長い間、日記にしばりつけずに、べッドにもどした。彼は目薬をつけると、再び、机に向かい、ノートにこんな詩を書きつけた。

ここは宮殿の魔法の扉、それを人は真白なエレクトロニック冷蔵庫と呼ぶ

だが朝や夕方の忙しい食事時とちがって寝静まった夜の静寂の中では

台所という宇宙は一変するのだ

試みよ!その魔法の扉を開けることを。

それは真白なエレクトロニック冷蔵庫だ。

開けったってタマゴだの肉だの野菜だの牛乳だのがあるだけだよなどと

理性の愚かしさを示してはならない

ただ、信ぜよ! これは魔法の扉なのだと

ここから不思議な霊気が漂うのだと。

あ、闇の中に突然、月光、雲間からの月光なのだ。

台所の机の上にある、すべての日常品に、

まるで魂でもあるかのように何かある輝き!

おや、丸い置時計が、何か物を言い始めたぞ。

ほら、あの針や文字盤をごらん

おれは童話の国の王様だ

王子は その青色の服来たバターケースだ

なるほど何という新鮮さ、何というかおりの良い品性

姫はその赤いマッチ箱だ

なるほど心にしまいたるその情熱は? 点火を待つ恋の爆薬か

臣下は色々な形をしたビン

かってコ―ヒ―の粉をいれし大いなるビンには

今、うす青紫のあじさいがいけてある

ありし日の宮殿の栄華

かっての日には絢爛たるバラが咲き誇ったが

今、あじさいは静かに物も言わぬ

それは この貧しい台所の人間に忘れられた悲しい歴史を物語っていた。

ある夜の不思議な沈黙の童話。

   


                7


そんな松尾優紀も普段は柔道に夢中になっていた。彼は高山アリサのことを忘れたわけではなかった。

彼がアリサと会わなくなったのはちょっとした訳があった。堀川とアリサは結婚し、籍は役所に届けてあった。けれど、式はまだ延ばしていたのだ。五月のゴールデンウィークに二人が結婚式をあげるというニユースを四月に松尾は聞いて、ショックを受けたことが足を遠のけた原因だった。

優紀は、アリサと結婚した堀川光信に対して複雑な感情を抱いていた。もともと堀川は松尾の恋のライバルのように思えることもあったのだ。しかし堀川は、優秀な弁護士である。

アリサも堀川光信にはほれていたはず。松尾などまだ子供あっかいされていたのだ。それだけに松尾はそうした異性への思いにまつわる複雑な感情を露骨に示したことはなかった。

しかしその結婚のニユ―スをかっての中学のクラスメートに偶然、道端で出会って聞いた時、その不愉快さを顔にあらわしたことがあった。

「高山アリサさんが、堀川さんと結婚式を上げるだって」と言ってジェラシーをむきだしにした松尾の表情に友人は驚いた。友人は狼狽して「何も君が嫉妬することもないよ」といつにない皮肉を言ってしまった。

優紀が柔道に夢中になったのはアリサに対する思慕の情を忘れるためもあった。

ニヒリズム克服同盟に入ったり柔道に夢中になったりしたことは彼の心にアリサのイメージか忘れられない、いらただしさも原因していた。ニヒリズム克服同盟が正式な名前なのだが、大山によると、通称はニヒリズム同盟とすると言って笑った。

何故なら、今の世の中は克服しようとする雰囲気でなく、なんとなくみんなあきらめている、まさに、ニヒリズムの病原菌が蔓延しているのに、それを予防することすらしない、ワクチンうったり、生活スタイルを変えて健康をたもとうとしているものは、個人にはけっこういるが、組織となると無防備になるところが目立つと笑う。要するに、大山独特の皮肉なのだ。



しかし松尾は、無意識のうちにアリサについての思慕の情を心の底にむしろ徐々に育てているような所もあった。

通称ニヒリズム克服同盟に深入りしなかったのも、松尾にはアリサが一度ニヒリズムという言葉に拒否反応を示した所を目撃し、そうしたことをひどく嫌うことを知っていたという一面もある。



そうこうしているうちに六月十日の生徒総会が近づいていた。

この生徒総会でどんなことがおこるのか、松尾は考えても見なかった。

松尾は城井高校に対しては結構、満足しているような所もあった。彼はある意味でまじめな高校生として、

きちんとした制服を着て校則を守る模範的な生徒であった。

確かにニヒリズム同盟に誘われるような所もあるが、 その不可解な夢の世界が漂うように思われた世界には足を踏みいれはしなかった。

しかし、松尾の知らない所でニ年生を中心に不穏な動きがあった。それを誰も知らず学園生活は静かに進んでいた。

制服をやめさして私服にするという原案が、ニ年生を中心とするグループによって構想が練られていた。


六月十日の生徒総会は荒れに荒れた。それまでの従順でおとなしい学園の雰囲気がまるでうそのようだった。

論客は五人ほどおり、 彼らは二年生のリーダーとしての資質を持っているようであり、人気も抜群だった。

学歴社会の競争の場が目の前の立ち現れた三年は指導権をこの三月十日の生徒総会で二年生に譲ったのであろう。

彼らがしゃべるとわれるような拍手がわいた。 計画的であったのか偶然そんな風に議事が進行していったのかわからなかったが、各クラスの学級委員長は、 この制服問題についてクラスを代表して意見を述べるように言われた。

松尾優紀は背が高く目立つということで、 なんとなく学級委員長になっていた。

確かに、彼ののっぽぶりはすくすくと育つ若い木の幹のようであり、それだけに細くその時は正確にはかったわけではないが177センチはあり、おそらくはもう一か月たてば178センチになり、二年になれば180センチを超えるだろうと、噂されるほど、高校に入ってからの伸びは友人たちにも目立つものだった。

松尾は、学級委員長など小学校五年の時一度やったきりあまり経験もないし

そうしたことを嫌っていたから、同じクラスになった岡野が彼を推薦した時、 非常に不愉快ですらあった。

しかしクラス一番背が高く目立ったということと、彼の絶やさない微笑も原因して、四月の当初あまり人間関係のできていない雰囲気の中で強引に選ばれてしまった。この微笑は彼のアニミズム的感覚から、すべてのものに挨拶を送るという子供の頃からの習性であったが、さすが高校生ともなると、それも目立つ彼のブランドになっていたのかもしれぬ。

担任が学級会などほとんど開かなかったということも関係して、松尾は今までクラスの中で委員長としてたいした仕事をしていなかった。ともかくも、 そうした状態であったから八百人近い生徒と何十人もの教師の前でマイクを使ってしゃべらなければならない羽目におちいってしまった時には、 大変緊張したのだった。

代表してしゃべるように言われても、 こんなことはクラスで話あわれていなかったし、彼自身、制服についてほとんど考えたこともなかったので、何をしゃべったら良いのか見当がつかなかった。 三年生から順番にしゃべりだしていた。

マイクを持った彼らは、私服にすることの必要性を熱つぽく演説した。

そのたびに拍手がわいた。短かく事務的にしゃべる者、 ユーモアをまじえてたくみに笑わしながら話を進める者、 絶叫調にしゃべる者、 長くだらだらと退屈に話をする者、 色々であったが、 それぞれが個性があってあきなかった。

そんな風にして、優紀の番が近くなってくると、優紀は覚悟を決めた。 最初の一年生は色の黒い顔の小さな男子で、「ねずみ」というあだ名をつけられていて、それを気にしていない風で、ひょうきんで、面白い奴だった。

「内の猫は私服ですよ。私服が好きで、制服は着ません」

「当たり前だ」という声が上がる。

「猫は学校なんかいかないんじゃないか」とマイクのそばの男子が怒鳴った。皆、笑った。

「猫をそう馬鹿にしちゃいけませんよ。最近は「永遠平和を願う猫の夢」なんて書く猫が出て、私ら人間より、平和を真剣に考えて、核兵器廃止を言っているくらいですからね」

優紀は驚いた。「永遠平和を願う夢」というタイトルは高山アリサから聞いた名前だからだ。彼女から、ネズミにもれることはあり得ないと思った。あとで、分かったことだが、「永遠平和」と「猫の夢」はその頃、けっこう売れていた本だったそうだ。ネズミはそれを両方読んでいたので、咄嗟の判断で二つをつけて、その場を沸かせたわけだ。高山アリサはこの二つの本を意識してつけたのだろうか。それとも、仮りの名前として、そういう名を出したのか、聞きたい気もしたが、優紀はなんとなく聞きにくい気がして、そのままにしていた。


どちらにしても、優紀は、 こうした多勢の前でしゃべることは苦手である。

彼は心臓が早鐘のようになるのを感じながら、 心の中で言うことを模索した。針金を伸ばしたように、緊張した。

松尾優紀はキリンのように、マイクの方へ走った。 「キリン」というあだ名は誰がつけたのだが分からないが、走る姿は似てなくもないと言われたことがある。ともかく、声援の中に、「キリン、がんばれ」という声が聞こえたことは間違いない。

松尾は自信がないけれど、しゃべり始めた。 しかし、 それは自分でも予想もしなかった形で進んだ。

それは実に雄弁であった。美しく音楽的響きを持っており一種の韻文の朗読を感じさせるものがあった。

自分にそんな才能があるなどということは天使を見るような驚きだった。松尾はその瞬間まで考えもしなかったことだった。



「みなさん、 一年B 組の松尾優紀です。 さきほど十分間ほどクラスで議論しました。それを私なりの意見を含めて述べたいと思っております。 みなさん、私達一年B 組はもちろん制服は反対です。即刻、 私服にすべきだと思います。 その理由ですが、 まず制服にする理由がないということです。

私達生徒に学校側が制服を強要する権利はないということです。 私達は確かに教育されている者です。 先生方に色々勉強を教えてもらっているのです。先生方のおっしやることで、正しいと思うことは私達もすなおに受けいれましよう。

しかし、制服問題に関しては、先生方の言っていることは間違いです。根拠が薄弱であり説得力に乏しいからです。


この点に関しては、私達は自由に服装を着るべきです。自由にデザインされた服装を我々は自由に着て、楽しむべきです。

確かに学習の場ですから学習にふさわしくない服装を着てくる場合も考えられます。その場合、 私達の力で服装チェックの交代制の係をつくるのです。議論し是正していくべきものは改めていくことが必要であります。

服装にしてもどれが学習の場所に着てくるのにふさわしいかを自主的に判断していく力をつけるということが教育の場にふさわしいことではないでしようか。

単純に規制すれば先生方にとっても僕達にとってもめんどうくさいことを議論する必要もなくなるでしよう。

しかし、 めんどうくさいからと言って、 話しあう場、 みんなで真剣に考える場をなくすというのは、まずいです。 民主主義の精神にも反します。 教育の現場としてもふさわしくないのではないでしようか。 こうした理由で私達一年B 組は私服を支持いたします」


彼のしゃべり方は一種独得の抑揚かあり、 マイクを通した声が美しかった。 実に良い演説だった。 われるような拍手であった。

こうして制服を中心とする紛争はひろがった。


この問題が解決しないかぎり、授業を無期限にポイコットするという案が生徒総会で可決されてしまった。

三年生を除いた一年・二年の生徒は、 毎日午前中は自習、 午後は体育館で集会ということになった。

教師が来ても誰も席につかず、席についている者も教科書を出さないので授業にならず、

生徒から服装問題について教師の個人的見解を追求する場面もあった。

ことに社会科の石井先生の時、 一年 B組では教師と生徒が奇妙な対決という形になっていた。

というのは、石井先生はそういう対決を予想して、授業の内容を「地球温暖化」に変えて、そのプリントを配った。生徒は習慣的に自分の席に座った者が殆どだったが、十人ぐらいの生徒がその場に立ったままだった。

「先生、今日は授業なしですよ」と誰かが言った。

「今日はね。大山さんが問題にしていた地球温暖化をやる。ほら、入学式で話してくれた、元保護者会長さんだよ。」

優紀は教室で「大山」の名前が出てきたのに、ちょっと不思議な感じを持った。

「これは最近の気象災害でも、君たちが感じていることだろう。

ま、まずプリントを読んでごらん。このまま地球温暖化が進めば、北極の氷が解け、わが尾野絵の町も海岸線に沿う広い道は水の底に沈む。」

「え、それじゃ商店街も海の底になってしまうの。俺の家、文房具屋だからな」

突然、誰かが「授業中止」と叫んだ。

「ああ、ストの最中だぞ」

先生は笑い、「お前たちね、ストなんかやっていると、この町だけでなく、気象も間違いなくおかしくなる。豪雨、猛烈台風、いのちにかかわるような暑さ。ほっとけないじゃないですか」

「じゃ、先生は路面電車を使わないで、なぜ車を使うのですか。あれは、CO2を出すのに、それに路面電車があるのに、わざわざ学校に来るのに車で来る。第一、この野絵の地区には車は入れないのに、乗る執念は何ですか」

優紀もこの質問にはどきりとした。父親はタクシー運転手をやっている。 野絵の地区を出た所に、会社が堅固な駐車場をつくっており、父親は毎日そこまで徒歩で通っているので、ほっと安心するような気持がした。

「うん、それは良い指摘だ。それは、私が登校する前に、介護している母親を病院に連れていっているという事情があるのでな、勘弁してくんな」と先生はちょっと悲しそうな顔をした。

生徒は石井の最後の「勘弁してくんな」が面白かったのか、気にいったのか、その言葉を繰り返すものもいる一方、笑いころげるものもいる一方、深刻な顔をしているものもいた。

「ストはどうなっちゃたのよ。優紀」と大声を出す者がいた。

名指しされた松尾優紀は「スト決行中の秘密の授業です」と答えた。

「そんなの、ありなの。」

「豪雨が来て、校舎がガタガタ揺れている時なら、そういうこともありえます」

「今日は曇って雨が降りそうだけど、豪雨なんてこないぜ。優紀君、しっかりしてくれよ」

「自然にまかせるのが一番良いと思います」


「生徒会の決議は有効なんだろ」

「なに、 生徒会の決議などあんなものは無効だよ。 一部の生徒が騒いで、それにお前達がのせられたんだよ。

そんなことがわからないのか。 生徒会というのは、 教師の指導という枠つきの自主管理機関なんだぞ。

それをお前達は、 教師の制止も聞かずに勝手に授業ポイコットなどというだいそれたことを決議してしまったんだ。

そんなものは無効なんだ。お前達は二年生の一部のグループにおどらされただけな」

「先生の本性が現われたぞ。皆、気をつけろ」



石井先生は一種の威圧感があったから、みんなちゅうちよした。しかし授業を始めればストやぶりになる。

実際そうしたクラスもいくつか出ているのである。学校側はそうしたクラスを軸に授業を再開しようとする。

松尾優紀は学級委員長であるし、ああした発言をしたのだから、当然ストやぶりについてはまずいと判断した。

岡野に相談すると彼も同意した。

「こうしたらどうだい? 席について授業をするのでなくて石井先生の今度の問題についての見解を正し、我々の意見も述べるという討論会をしたら」岡野は静かにそう言った。


まだクラスの十人ぐらいが席についていない状態であつたが、松尾は責任上みんなに呼びかけた。

彼自身、こんな立場に立っている学級委員長という仕事に嫌悪感を持 っていたのだが。

「おい、席について、石井先生と討論会をやろうよ。つまり制服か私服かということで石井先生と話しあうの、どうだい? おーい、席につけよ。松尾が大きな声で言った。石井先生は、ちょっと目を大きくしてぼそりと小さな声で言った。

「討論会ね、まあいいだろ、それも社会科の勉強だ。」


教壇の机の花瓶にいけてある百合の花が開け放された窓からそよ風が吹き、一瞬、微妙な揺れがあり、生徒の目も石井の声の中で際立つ花の美しさに心を奪われた者も何人かいた。優紀もその一人であり、心にはっとした美の瞬間を感じ取り、ふと窓の外を見た。灰色の雲がおおっており、今にも降りそうである。

みんな席についた。松尾にとっても今までやってもみなかった討論会など実にめんどうくさい感じもした。

でも学級委員長という係になっている以上、いやでもある程度みんなをリードしていく義務があると思われた。

ことに石井先生のように社会科の教師であり、自分なりの強い主張を持っている強い個性の教師が相手であるだけに気が重かった。

みんなが席につくと石井先生は、得意の弁舌をふるうといったような調子でしゃべりだした。

「討論会をしたい?  大変、けっこうなことだよ。しかしね。相手を見て、言ってほしいね。生徒同士でやるのはけっこうだよ。

しかしね。僕という教師と討論したいというのは良い度胸だ。おおいに、言いたまえ。

しかしね、僕を納得させる話をしてくれたまえ。こちらだって大切な社会科の授業をつぶして使うのだから。

だいたい君達は授業をボイコットするのを正常なことと思っているのかね。異常なことだよ。

思慮分別ある高校生のやることではない。

君達は教育を受ける義務と権利があるんだよ。君達が一方的に授業を ボイコットするということは、この義務と権利を放棄することになるんだ。これはどたい労働者のストライキとちがうよ。君達は労働者かい?そうじゃないだろ。

君達は労働者ではないんだ。君達は学生であり未成年者であり、いわば未熟な者として教育を受けなけりゃ

一人前の大人として、世の中に立つこともできんのだよ。その君達が授業をポイコットするというのはどういうことだよ。


そりゃ、学校側が君達にひどい仕打ちをしたとか基本的人権をおかすようなことをしたというのであるならば、


君達が一方的に感情的興奮におちいり、そうした行為に走るのもいたしかたないかもしれない。

しかし今回はどうだ。制服か私服かということだ。ストライキをするなら、もっと大きなことでやれよ。」

「大きなことって」と誰かが小声で言った。


そこまで、話が進んだ時、急に雨が降り出してきた。風がぴゆうと音をたてて吹いて、窓を揺らした。

窓側の生徒が窓をしめた。

しかし、なぜか一番前の窓は誰も閉めなかった。教師が閉めると思ったのだろう。

そのおかげで、校庭にたたきつけるような雨の音が聞こえた。そこは二階だったので、雨はその激しさを雨音だけで、知らせるだけだった。雨が中に入り込むのは、風が吹いた時だけである。

石井先生はその雨をじっと見て、自分の先ほどの弁舌をやめていた。それで、教室全体が雨の響きになり、その音がゴーという一種の滝のような迫力でそこにいる生徒の耳に侵入した。


しばらくの沈黙のあとに、石井は「豪雨だな。最近は変な気象災害が多い。

こういうことについても、我々は学ばないと、将来の人類は困ったことになるぞ。制服私服論争なんてのんきなことをやってる場合か」

その時、岡野が「学ぶだけでは駄目です。CO2削減に取り組まないと。」と言った。

「その通りだ。私一人がそうすれば、気象災害が食い止められるならば、多少の無理をしても車に乗らないで通勤する。しかし事は人類という巨大な枠でおきているのだ。

これは、国連で日夜激論が戦わされていることは新聞でもみることがあるだろう」

相変わらず雨はひどく、教師の声が優紀のような後ろの席まで届かないかすれた響きになることもあった。


すこしの間の沈黙のあと、石井は「城井高始まって以来、今まで制服でやってきたんだ。そういう伝統もあるし、

そういう校則は生徒手帳に書いてあるんだ。」

「今回のことは予行演習ですよ。民主主義の予行演習ですよ。国連にまで、我々の気象災害の不安の念を伝え、

全ての国が必死に取り組まないと、人類の存亡にかかると」と優紀は立ち上がって。そう言った。

石井先生は驚いたような顔をしたが、直ぐに穏やかな表情に戻った。

「それは分かるよ」

「制服の問題は民主主義の予行演習ですよ。本当は先生のおっしゃるように、我々の温暖化による気象災害

の恐怖を国連に伝え、多くの国が自国のエゴを丸出しせずに、人類の存亡をかけたこの地球温暖化で、

各国が足並みをそろえ、CO2を増やすことをストップさせることなんです。この雨の音がそう叫んでいるようです」

「雨が叫んでいるか。地球温暖化はもうストップすることは出来んよ。ゆるやかにするためにCO2削減するということだろうな。ブラジルのアマゾンが開拓されたら、大変なことになる。

ともかく君達の気持ちは分かった。あのような生徒総会で一部の扇動者に惑わされている君達一年生は、もっと冷静にならなきゃいかんよ。」

石井先生がここまで一気に言った。そこまで言うと彼の熱弁に屈服したかのように、おとなしく席についている生徒達をゆっくりながめまわし、ちょっと得意そうなポーズで笑みを浮かべた。その時、岡野がすくっと立って発言した。

「先生、ちょっと発言したいのですが、 よろしいですか?」

石井先生は、ちょっと厳しい表情で岡野をみつめたが、 「まあ、 一応、討論会だからな。いいだろ」と言った。

「一部の扇動者と言われるのには抵抗があります。先生は、民主的手続をとっていないとおっしゃいますが、

私は生徒総会という場で採決しているのだから、立派に

手続をとっていると思いますがね。むしろ、学校側の方が強圧的にそうした民主的手続を無視しているような気がします。

それから、もう一つ。制服か私服かということですけどね。

僕は制服を一方的に押しつけるのは、やはり基本的人権の侵害だという気がするんです」

岡野は冷静な口調で教室中によく響きわたるように言った。石井先生はやはり軽い徴笑を浮かべて言った。

「又、話を元に戻すのかい。そりやねえ、岡野君、ちがうよ。さっきから、言っているようにね、生徒総会というのは国会とちがうんだよ」

先生はふーとため息をついた。「これがどうして基本的人権の侵害になるのだろうか。裸になって学校に来いというのであれば、これは基本的人権の侵害にはなるが、ただ私達教師の指導しているのは校則を守れということなんだよ。」


岡野が発言している間、優紀はニヒリズム克服同盟のことを思い出していた。ニヒリズム克服同盟はどうも奇抜なことをやって、皆の賛同を得られれば物事は前進するという考えを持っているようだ。大山のソーラーカーによる、漫遊遍歴なんて、その例だ。それで、優紀はバッグの中に用意してきた私服を思いだした。

バッグを開け、いきなり制服を脱ぎ、ブルーのデニムジャケットだけ身につけた。そして立ち上がった。それは見事なくらい素早い動作だったので、皆があっけに取られて、優紀の私服を見た。発言に自信があったわけでなくむしろ不安の方が強かったのだが、岡野の発言がこのまま石井教論に一蹴されたような形になるのはがまんならなかった。


「あの生徒総会の採決は民主主義のルールを立派にふんでいると思います。

なにしろ先生方はあの場に全員おられたのですから。それから基本的人権のことですが、僕達は自由に服装を

選択する権利があると思うんです。学習の場としてあまりにふさわしくない服装をする場合は別ですが、

僕達はそんな愚かではありません。今の私の私服の方がどれだけ、教室を明るくすることか。


自分達の好みでそれぞれの個性にみあった服装を整え、友人どおしで批評しあう方が服装のセンスがみがかれ美的感受性が増すというものです。むしろ、こういう観点に立つならば教育現場として私服の方が好ましいといえるわけです。知識を吸収するのも大切な学習ですが、討論し、自分で考えるというのも勉強ではないでしょうか」

松尾優紀の弁舌は、さわやかであった。拍手もわいた。

松尾はここでも自分が美しく詩的に話をするのが不思議な気持ちだった。

石井先生はしばらく厳しい表情をして黙って何か考えごとをしているようだった。視線は、窓の外の六月の梅雨空を眺め、雨脚が少しゆるくなり、ただ雨の音が二階にまで少し心地よい響きに変化していることを不思議に感じているようなまなざしで窓の外をしばらく見つめていた。

「松尾の言っているのはね、生徒のレベルで言っていることで、つまり教育される側が無理に教育者の立場に立とうとし、実際はできずに結局、外見だけは教育の現場にふさわしいとかなんとかいうけれど結局、それは生徒のたわごとだよ。


生徒総会は生徒総会の守るべき範囲というものがあるのだよ。

つまり教師の指導を受けいれるというね。その指導を受けいれないで、勝手に採決したことは無効であることは明白だよ。

それに私服か制服かという議論はまるで原案にも対案という形でも事前に生徒会本部に届いていないのだから、

つまり、あの問題はあの時、降ってわいたように飛びだしてきて議論の的となったわけだ。

まあ議論までは良いとして採決して実行を学校側にせまるとしたら、 これは行きすぎだよ。

生徒総会には生徒総会という組織の権限の範囲内のことしかできないのだということを知ってほしいな。

株式会社の株主総会で国の法律が採決されてもそれは無効ということだよ。」

「先生さあ、」

吉村という男か急に立ちあがって「先生さあ、」と始めたものだから爆笑がわいた。

この男はどこかューモラスな所がある。 「えーとね。生徒のレベルでしか僕達は考えないというけれどね。

それはあたりまえのことじゃないですか。僕達は生徒なんだから、そうでしよう」

吉村は、 「ねえ」という風にみんなに同意を求めたので、又笑いがあちこちにわいた。

「先生の言っていること、おかしいよ。えーとね。 つまり僕の言いたいことはね、生徒が自分達の服装問題を真剣に考え生徒総会で話しあったわけでしよ。そして私服がいいと決定したんだ。それでもいいじゃないですか。

よその学校の服装について決めたわけじゃないし、僕達の敬愛するわが城井高の生徒諸氏の服装について決めたんですよ。僕達の法律を僕達の生徒総会で決めたんですよ。こんな立派な民主主義はないと思うな。先生はむしろ僕達をほめていいんじゃない?」

あちこちで拍手かわき、笑いと「いいそ」というやじが飛んだ。


六月の空は小止みになった雨雲が激しく空を移動していた。おもくるしいどんよりした空が足早に空の廊下を走っているようにも思われた。

ちょっと変な天気だな、 ついに梅雨が来たかなと松尾は思った。議論はあと四人ばかりの生徒と石井先生とのやりとりの際中にチャイムが鳴って打ち切りとなってしまった。



石井先生と生徒の話しあいは、結局、 平行線に終わった。 こんな風にして何日か過ぎ去った。

午前中は自習、午後は集会。その間、 毎日のように、長時間の職員会議が続けられているようだった。

そのあと結局、教師がおれて二学期より私服を認めるということになってしまった。


井上茂は、 松尾や山本を誘い元保護者会長大山の所へ行った。大山のユーラシア大陸遍歴の夢は平和が必要だからということと、車の性能をもう少し上げなければという理由で、かなり先になるという話を聞いた、それまでの空いた時間はその二つの問題に大山なりに尽力するのであろうが、余暇にまだやりたいことがあるらしかった。それが、ニヒリズム克服同盟だったようだ。


ひどい無精ひげをはやしていた大山は喜んで彼らを迎えた。すでに大山の家には、高校生風の男と女二人が来ていた。

これでニヒリズム克服同盟のメンバーがそろったわけだ。 彼らはビールで服装問題の解決を祝った。

「松尾君は、今回の事件では随分と活躍したそうじゃないか」

大山は満足そうな笑顔でそう言った。

「こいつの演説、すばらしかったですよ。 それに、どぎもを抜くパフォーマンスをやるところなんか、役者だね。大山さん!こいつは将来、 弁護士か代議士にでもなれますよ」

井上茂が笑った。彼自身も噂で聞いた優紀の私服のパフォーマンスをほめた。

「ところで松尾君、 君に頼みがあるんだ。そう、 これは実にたのみにくい頼みだがね。もっと会員をふやすように尽力してほしいんだな。ここにも山本杏衣君と藤村美恵子君がいる。しかし男は四人だ。 これではいけない。やはり男女同数でなければな。

誰か加入しそうな良い子はおらんかな。

今わしの発明している作品で組織を設立し、それを軸にユートピアをつくるのだ。

いいかね。尾野絵のユートピアをつくるのだ。 夢の町をつくるのだ。 まず手始めに、この尾野絵の町に。

山本君と藤村君も協力してくれるそうだ。な、松尾君は、 ハンサムで背も高い。 女の子にもてるだろ。 一人ぐらい調達してくるのわけないだろ」

大山は、 ちょっとものすごい形相になってそんなことを口ばしった。

大山の言動には、 どこか歯車がはずれているようなものを優紀は感じた。

「何をするんです」

「今、一番問題になっているひきこもり問題と高齢者問題。この町にもある。訪問をして、心のこもったプレゼントをグループでするのだよ。

プレゼントはみな手作りが原則。小さなものでいいんだ。そして、その輪を広げていくのだ」


「ええ、でも相手が喜びますか。第一、僕らは高校一年生。ひきこもりの人って、みなかなりの年配の人もいるという話ですよ」

松尾優紀がそう言った。 ビールを飲みかけていた大山がコップを口からはずすと、 ちょっと松尾を見つめて言った。

「うん、君、君は全くの常識人だね。新しいことを行うためには常識的なことを考えていたのでは何もできんよ。

空き家はいくつもある。そこを社交場にしたらどうかな。市役所との交渉はおれがやる。」

「そこで何をやるのですか」

「碁でも将棋でも、卓球でもいい、ゆくゆくは大きな空き家が手に入れば、農場をつくり、自給自足が出来ればいい」

「だって、大山さんは自由遍歴の旅に出ていくのでしょう。それはやめにしたのですか」

「やめにしてはいないさ。あれは、平和になるという条件が完璧になり、それなりの事務手続きがあって、許可がおりるという難関が控えているからな。それに、ソーラーカーの方もまだ完璧というわけでない。それを、今、点検している。それまで、手が空くから、ユートピアの方に足を向けたいのさ。」

「なんだか面白そうなことではあるが」

「人類愛だよ」と大山は豪傑笑いをした。

「それが実現できれば、この町もユートピアへの第一歩になりますね」

「愛というよりは友情だろうな。」

ユーラシア大陸への遍歴の旅はしばらく置いて、ユートビアの町をつくるための最初の若者を集めるという大山の発想は何か奇想天外な感じがした。


松尾優紀は久しぶりに高山アリサの寺院に行ってみようという気になった。七月に入ったある晴れた日だった。

松尾は高山アリサと堀川光信の結婚を喜んでいなかった。 しかし松尾優紀の高山アリサの思慕と高山寺院への尊敬の気持は変わらなかった。 松尾が久しぶりに七月の土曜の夜に出席すると、高山アリサが驚いたようなうれしそうな表情をして近づいてきた。

「あら、久しぶりね。元気?」

「ええ、元気です。」松尾はちょっと照れたように頭に手をやってかくようなまねをした。

「よくいらしたわね。しばらく来ないので、ちょっと心配していたのだけれど。あたしの方も結婚式だの主人の仕事への手伝いなど、

ちょっと忙しかったので松尾君におたよりすることもできなくてごめんなさいね」

アリサは、結婚してちょっとやせたような感じであったが幸福そうな美しい微笑は、以前と変わらなかった。

土曜の座禅研究会もわずか三ヶ月来ない間、大分メンバーの入れ替えがあったようだ。 もちろん顔見知りも何人かいる。

ジョンソンさんは、あいかわらず大きな身体を重そうにゆらして椅子にどさっとすわって、松尾の方を見てにつこりした。

「おや、 めずらしい人が来ましたね」彼は、小さな声でそう言った。

その日のジョンソンさんの話は有意義なものであったが、松尾は、 なぜかそうした美しい話が空しく聞こえるのであった。高山アリサは研究会の終わったあと松尾を奥の部屋に招待した。

彼女はお茶とケーキを持ってきてくれた。お茶を飲み、城井高のよもやま話に花が咲いた。彼女は。ヒアノをひいた。

べートーべンの 「ビアノソナタ・月光」である。

その日の月の光も窓をとおしてピアノの上に降りそそいだ。松尾はアリサにキスしたいという激しい欲望にとらわれた。

彼が彼女の背後に近寄ると彼女はピアノをひく手をやめてふりむき、松尾の方をやさしいまじめな表情でみつめた。

「アリサさん」松尾は心臓が高鳴るのを感じた。

「どうしたの?」高山はちょっと心配そう。


優紀は大山のことを話してみた。アリサはある程度、大山のことを知っていた。

「あの人のニヒリズム同盟って、信じられないわ。ニヒリズムとユートピアがどうむすびつくのかも分からいわ。でも、引きこもりやお年寄りを心配する話は良いと思うわ。でも、あなた方、まだ高校一年生よ。

年令を考えて欲しいわ。大学生に言うなら分かるけど。

でも全面的にあの人を信用することはできないわよ。何か人間不信めいた思想を心にかかえている人よ。確かにいい人だし、 ちょっとした迫力のある人だから、あなたが迷うのも無理はないわね。

でもニヒリズム同盟だなんて変なものをつくって青少年をたぶらかすなんてもってのほかだわ。

あたしから意見してやるわよ。 大山さんはいい事を言うようで、何かピントがおかしい。そう思いませんか。あなた方に必要なことは学習よ。古典などの本を読む読書よ。


ユートピアなんて、そんな簡単につくれるものじゃないわ。 長い人間の歴史が必要なのよ。

あたしが大山さんに話をしてあげますわ。あなたも一緒にいらっしやって。」


翌日の日曜日、 約束して高山アリサは松尾と一緒に大山の家をおとずれた。

大山は、高山アリサの突然の訪問に少々びっくりしていたようだが、満足げだった。

しかし高山の抗議を聞いているうちに、大山は不愉快そうな顔を露骨に見せるようになった。

「高山さん、 君はここに意見をしに来たのかね。君の青くさい理屈など聞きたくないね。 それは君、 女学生論議だよ。 世の中のことはもっと現実的に考えなくちや。ユートピアというのはね、君。多くの新規なアイデアがなくちゃ、誕生しないのだよ。

そんな何もだいそれたことを考えているわけではないよ。僕はただ組織をつくり、 その生産を土台にしてユートピアの町をつくるという構想だけだよ。 君がそれほど口をとんがらかして言うこともないよ。

君は高校生時代からお高い女の子だった。 理屈ばかり達者でもう少し柔軟にものを考えることができんのかね。

今は、 いたる所で企業がぼろ儲けをしている時代なんだ。反対の価値観を持っても、実行しないとね。

尾野絵のユートピアなんて奇想天外じゃないか。」

高山アリサは松尾が見たことがないほど厳しくこわい表情をしていた。 しかしそれは独得の美を持っていた。

「随分と勝手なお話ですこと。」



     8

松尾優紀は一週間岡山で柔道の合宿をした他は夏休みの間中、信州の実母のもとで過ごした。その間、読書と散歩、それから弟と妹と一緒に近くの川で咏ぐこと、 こんなことで毎日を過ごしたが、高山アリサのことを忘れたわけではなかった。その間に彼はたくさんの詩を書いた。実母のいる田舎は尾野絵以上に、自然にあふれていた。見知らぬ花を見つけ、スケッチし、夜は満天の星と月を見て自分の心の中に溢れてくる言葉を「生きている自然」というイメージで詩句にした。

詩を書くことで、彼の気持は楽になった。そして九月が始まった。私服の登校が始まったのだ。 そしてあいかわらずの柔道部の熱心な練習も始まった。松尾は高山アリサに会えないことを半分あきらめかけていた。 ところがアリサの方から彼に会いに来たのである。

それは城井高の文化祭の一般公開の時であった。十月下旬の秋たけなわの時である。やわらかい陽射しが畳の端のあたりまで射して、彼はその中で、日向ぼっこするような感じで、座って自分の番を待っていた。

畳の道場では柔道の型と練習試合をやっていた。アリサの姿に気がついたのは、彼が自分の番を待っている時だった。彼女が声をかけてきたわけではないが、観客の中にまじって徴笑している姿があった。ブルーの服装で、丸い型の薄いブルーのサングラスが豊かな黒髪と赤い唇に囲まれて、独特の美を畳の道場に放っていた。

彼は動揺した。そして次の試合で負けてしまった。彼女の見ている所できれいに投げられてしまったので、大変いやな感じだった。彼は彼女に話しかけて良いものかどうか迷っていた。そうこうするうちに彼女の姿が見えなくなった。彼はがっかりした。ひととおりのことが終わって、優紀は井上茂と山本杏衣と一緒に文化祭会場をぶらぶら歩いていた。その時、雲一つない青空そしてそよ風、まるで浄土のような校庭に、数学の教師と立話している高山アリサを見かけた。彼が内心ドキマギしていると、彼女が「松尾さん」と呼びかけた。

二人は文化祭の中にある模擬コーヒー店で再び話をすることになった。

「柔道どう、面白い」

「面白いですよ。今、習っているのは背負い投げと内またです。ぼくは背が高いから、背負いはやりにくいです。でも、内またが面白いですね。寝技も面白い」

そんな柔道の話をして、二人は高校を出た。

二人は高等学校の外に出ると、東門から、尾野絵の町の野絵の地区に入り、瀬戸内海を見下ろしながら、なだらかな斜面になっている入り組んだ路地をゆっくり歩き、野絵の中央の広場に来た。校庭ぐらいの広さの石畳の平地だった。周囲は樹木におおわれ、真中に大きな噴水があり、噴水の周囲は花壇になっていた。周りの樹木の下に、ある間隔をもって置かれているベンチの一つに二人は座った。そこからは、瀬戸内海の海がはるか向こうに、絵のように見える。

「もう会えないつもりだったけど、なんだか急に会いたくなって」とアリサは言った。


松尾はサングラスをはずした彼女をまじまじと見つめた。樹木の緑の梢がゆらゆらと揺れる、そのかすかな音が彼女の黒髪と細面のピンク色の頬を浮き彫りにして、彼女の目は自分を吸い込むようだ。何で、彼女はこんなに神秘的なのだろうか、と優紀は心の底で問う。

「堀川がニユーヨークに半年ほど行ってしまったでしょ。なんだか一人でいるせいか寂しくなるのよ。そうすると、あなたのことが思い出されてね。そうだ、座禅会に誘おうと思い、会いに来てしまったわ。不思議ね」

「僕はもう会えないかと思って。 でもいつもあなたのことを思っておりました」

松尾は胸ポケットから高山アリサの写真を取り出して彼女に見せた。

「ありがとう。でも、私はあなたを座禅会に誘いにきたのよ。この世界をささえているのは、永遠なる宇宙の生命の大慈悲心よ。それを少しでも知って、世の中に出て欲しいと思うわ。

夫の堀川はそういうことに無頓着で、実務に忙しい、あれを見ていると、年令の早い段階で、この宇宙を支えているのが何か、それを求める気持ちをつくる必要性を感じるわ。」

優紀はアリサの言葉の裏に、何か若い女の性の響きを感じた。

「堀川さんはアメリカにいらっしゃるとか」

「ええ、今は仕事でアメリカにいるけど。私が悪かったわ。

表向きはあなたを座禅会に誘いに来ているのだけれど、自分でもよくわからないの。

そうだ、もしかしたら、あなたのアンネ・祖母の話のことが気になるのかもしれないわ。きっとそうだわ。 その後、夢に現れないの。聞きたいわ。」

「ありますよ。平和の話ですよ」

「平和の話」アリサの目が輝いた。「どんな話」

「夢ですからね。とぎれとぎれの記憶なんで」

「それで、いいわよ」

「戦争が起きないようにするには、市民の力が必要だとか言っていた、それははっきり言っていたから、覚えていますけど、他はね、又、見ると思いますよ」

「それで充分よ。それが聞きたかったの。不思議な夢ね。だって、あたしが求めている言葉が、あなたの夢にあらわれるなんて」

しばらくの沈黙があった。黄金の神秘な沈黙だった。その沈黙の中から、アンネが隠れ家で日記を書いている姿が蜃気楼のように、優紀の目に映った。

「どうしたの?」

「アンネが見えたのです」

「特殊能力ね」彼女は全てが分かったとでもいうように「人にレッテルを貼るって、恐ろしい罪よ。ハンセン病の時もそうだった。ナチスのやったことは最悪ね」


松尾はアリサが小声で彼の耳に近づけて話をするのを、 かっての自分の指導者から女への変身という風に感じていた。

それでも自分が男になったのだろうかと考えた。

自分はまだ未熟だ。世の中についてまだ知らないことが山ほどある。


二人の背後にある太い幹の楓の梢が風に揺れた。そして幾枚かの楓の葉がひらひらと二人の前に落ちていく。

「楓の葉が落ちていくわね。まだそれほど紅葉していないのに」とアリサは何かを考えるように言い、ひと呼吸すると、さらに続けた。「ところでね。松尾さん。松尾さんの出た中学は荒れていました?」

優紀は驚いて、「え」と聞き返すように、彼女の顔を見た。

「どうしてですか ?ごく普通の中学で、荒れているということはありませんでしたけど。今、噂にあるような荒れた中学ではありませんでした。ごく普通の中学で、落ち着いていたと思いますけど」

松尾はどきりとした。何か秘密を自分に相談するような雰囲気を感じたからだ。彼女と年の差は六才。

たいした差ではないが、やはり、彼女は先輩以上の神秘な存在なのだ。

「ええ、自分でもだらしないと思っているのですけど、あたしこの頃、うつなの」と彼女は笑った。優紀には冗談のように聞こえた。

「そんな風に見えませんけど」

「荒れた学校って、噂で聞いていたけれど、あそこの中学生には一部なんですけど、 授業中、 ガムをかんだりおしゃべりしたりトランプしたりというぐあいなの。注意するとすごむのよ。全く、驚くわ。普通の生徒もそんな雰囲気を面白がっているみたいなのよ」

「剣道三段でも、駄目ですか」

彼女が剣道三段というのは噂で聞いた。が優紀はそのことを聞きたいという気持ちはなかった。たとえ彼女が剣客だったとしても、彼が彼女に魅かれているのはそんなことではない。むしろ、そんな所があったとしても、それをみじんも感じさせない不思議な女性の優しい深い魅力なのである。

「剣道三段?」彼女は苦笑した。「教師が生徒を力で押さえつけろというの。やはり、愛と慈悲心で彼らを導くのが私の義務なのよ」

「それにしても、噂にあるような荒れた中学ってあるんですね。僕も中学の時、随分、悪いことをしたけど、授業中そんな風に先生を無視して騒ぐことはなかったな。」

「一人、番長みたいなのがいて、なんだかその子が学校中のそうした傾向を持つ子をオルグしてめちゃくちゃにしているような所があるわ。 その番長をどの先生も指導しきれないでいるのよ。 そして彼はけっこう頭がいいの。自分は先生にしかられるような悪いことはあまりしないのね。彼の子分達が動いているのよ」

「アリサさん、突飛なことを言って、悪いんですけど、その番長に僕を会わしていただけません?」

「田蜜君に?」

「ええ、その田蜜っていう番長にぜひ会うチャンスを与えてくれませんか」

「会ってどうするの?」

「どうするって、高山先生を困らすやつの顔が見たいし、場合によっては意見してやるつもりです」

「まあ、 いさましいことを考えつくのね。 でも喧嘩になるからやめた方がいいわ」

「いえ、喧嘩はしません。もしするなら徹底的にやつつけます。でもその自信がないから喧嘩はしません。彼をちょっとたぶらかしてやろうと思うだけです」

「あなたの方がそのつもりでも、田蜜君は中々のつわものの非行少年よ。べテランの先生方ですら、抑えられないのよ。一人だけ怖い先生がいるけど、おとなしくしているのはその時だけみたい。高校生のあなたには無理じゃない?」

「そうは思いませんね。少年は先生のいうことはきかなくても、先輩の言うことはきくものですよ。 つまり田蜜君が僕を仲間と思ってくれれば、案外聞いてくれると思いますよ。僕はあくまでも仲間の中の先輩として言いますからね。教師の言うことを聞かないというのは田蜜君が教師を仲間と思っていないからですよ。」

「まあ、 いいわ。会わしてあげてもいいけど、 どこで会うのが一番いいかしらね。そうだわ、私のお寺にしましよう。」

「それは名案です」


一週間後、 日曜日の二時に三人で、高山寺院で

落ち合った。秋が深まり、寺の周囲の桜の木の葉は赤く色づいていた。もみじはまだ緑のものが多いが、いずれ美しい深紅の葉を見せるだろう。寺に入ると、枯山水がよく見える。色即是空空即是色という言葉が優紀の耳に響いた。座禅道場で何度か聞かされた言葉である。しかし優紀には、いい言葉であるという思いはあっても、その神秘の言葉の中身を開ける鍵がどこにあるのかさえ、見当がつかない。それがまた魅力でもあった。

寺院は大きなお寺で、座禅道場の前には、枯山水の砂の広い庭がひろがっていた。寺の裏手は墓地である。

三人は座禅道場の隣の畳の小部屋で対面した。

       



          9

床の間には漢字で仏教の言葉が書かれている掛け軸がある。優紀には読めないが、見事な筆さばきだけは分かる。花が活けてある。薄紫の菊が上の方に伸び、下に白い菊がうずくまるように、美しい花びらをさらしている。その二つの花の間に野ばらの赤い実が沢山まるで小さくしたミカンの群れのように、空間を埋めている。

三人の座る畳の部屋はすっかり静寂に包まれている。時々、小鳥の声が聞こえる。松尾は田蜜の顔を見ると、少年の顔を否定した凄みのある表情にどきりとして、枯山水の庭の方を見る。色即是空空即是色の声が再び耳に響いている。この言葉が聞こえる限り、自分の心は乱されることはないと、優紀は思った。

確かに、田蜜は松尾優紀に強い印象を与えた。

中学校をひっかきまわすだけあって、かなりのつらだましいをしていると優紀は思った。田蜜は背も一七五センチ近い。体格も良い。 もう立派に大人の身体だ。気も強そうである。そして服装は皮ジャンンスタイル。

「高山さんよ。 俺は座禅なんか嫌だぜ。いったい何の用だい? 俺は三日前の誕生日で、十五になったんだ。男になったということよ。それで、 こんなノッポを護衛に連れてきたりしたのかい。いやだねえ」と田蜜は言った。

松尾優紀は百八十センチの身長になっていた。 逆三角形の顔立ち。白い肌。ほっそりした身体つき。何か大きなごぼうをたてて、その上に顔が乗っかっている感じに、田蜜の目には映ったに違いない。

「松尾優紀さんっていうのよ。あなたとお話がしたいというので連れてきたの」

「おれと話をしたい。何を話するのさ。おれはむずかしい話はきらいだよ」

「いや、君とむずかしい話なんかするつもりなんかないよ。 ただ、中学校の番長の気分で、どんな風かなと思ってね。」

「別にたいしていい気分でもないよ」

高山アリサは二人を部屋にのこして別の部屋に出ていった。

「いい気分でもないのに、何で番長なんかになったんだい?」

「別になりたくってなったわけでもないし、 ただ、喧嘩がめっぽう強かっただけよ。強いからみんなおれの言うことを聞く。 それだけさ。だけどよ。そんなことを聞くために、俺をこんな所に呼びだしたってわけ?」

「こんな所って、 いい、所じゃないか。 高山アリサさんのお寺だぜ。 君は招待されたんだ。喜んでほしいよ」

「お寺なんておれの柄じゃないよ。高山さんの水着姿の写真でも見せてくれるなら、今日来たかいもあるんだがなあ。」

「おい、気安く高山さんなんていうなよ。 おれにとっても先生なんだ」

「あれは先生っていう風にはおれには思えんね。お姉様というか、お嬢さんというか、そんな所じゃないの?おれには先生なんていえないね。あんなに女くさくて先生づらしようたって、 どだい無理さ。まあ生徒指導部の教師みたいに敵とは思っていないがよ。ただ、剣道三段なんだってよ。本当かと、疑いたくなるけど、どうも本当らしい」と言って、彼は笑った。

優紀には剣道三段がどのくらい強いのかも見当がつかない。自分は柔道で初段を取るのに、頑張っても、あと一年はかかると思っていたから、なおさらだ。ただ、棒さえ持てば、かなりの強さになるのかなと、想像して、何故かおかしくなった。

「ふーん。じゃどうだい。 おれは君の敵かい、味方かい。」

「まあ中間だろうな。敵でも味方でもないというやつよ。君の態度しだいということでしようね。 ハ」

高山アリサが次の部屋から入ってきた。彼女がお盆に乗せた湯飲みにお茶を入れると、地味な花模様のついた湯飲みから、白い湯気が馥郁たる香気を放ちながら立ち上っていた。



「高山さんよ。なんでおれはこんな男とかかわりあわなくちゃいけないんだ」

高山は微笑して言った。 「松尾さんがあなたとお友達になりたいっていうのよ」

「ふうーん。しかし、 おれにはいつぱい友達がいるからよ。わざわざこんなノッボとつきあうこともないよ」

「まあ、 そんなことを言わないで、ゆっくりお話してって」

「まあよ。高山さんがそういうなら少しの時間、我慢するか」

高山は笑って再び部屋を出ていった。

「君は高山先生の言うことはよくきくんだね」

松尾は苦笑した。内心、この少年はおれと同じように高山先生にほれているかもしれないと思っていた。

「いいや、高山さんも先公の一人だからね。先公のいうことはききたくないね。しかし、 ここにいた高山さんは若い女に見えたんで、ついきいてしまったんだ。」

ハハハと彼は笑った。田蜜鉄男は中学生にしては豪快な笑い方をする少年である。そしてジロリと松尾の方をにらむようにして見る。



松尾優紀はデリケートで気の弱い所もあるからすぐに視線を避けたりするが、 すぐこんな中学生に負けまいと思って彼の方に、にらみかえしたりした。

「君の学校では授業中トランプをしたり将棋をしたりマンガを見ている生徒がいるんだって」

「いるよ。別にかまわんだろ」

「それって、授業妨害じゃないかな」

「そうだろうな、 それがどうかしたのかい」

田蜜はちょっと挑戦的に語調を強めた。

「いや、 そういうことをやめてもらいたいと思ってね。 まじめに勉強したいと思っている生徒が迷惑だろ」

「なに、先公みたいなことを言うやつだな。 しかし言っておくがね。 おれにそんな忠告したって、無駄だよ。 おれは授業がおもしろくないから自分のやりたいことをやるまでよ」

「それじや、犬や猫と同じじゃないか?」

「どうせ、 人間は動物だろ。お前だって犬や猫と変わらないことをやっているんじゃないの」

田蜜はちょっとおそろしい顔つきをして、すごむように松尾を見た。松尾優紀は徴笑した。余裕ある態度を見せることが必要だと思ったからだ。

「おれもよ、中学時代、色々悪いことをやった。けれど、まじめにやりたいと思っている生徒までまきこみはしなかったよ。そりや悪いことをしたい時はおおいにするのもいいかもしれないよ。結局、最後の責任は自分でとるんだから。 しかしなにも他の生徒に迷惑かけることをしなくたっていいと思うがね」

「悪いことをやったって、何をやったんだい。 たいしたことやってないんだろ。それで大きな口をたたくなよな。」

田蜜はちょっとなめらかな抑揚をつけて敵意のない調子になった。 松尾も気をよくして仲間意識を彼に植えつけることが大切と思って、言い続けた。

「おれがやった悪いことかい。色々あるな。その中でも一番の悪は教室であんみつを食べたことだな」と優紀は言った。

これは嘘である。あんみつは田蜜が好きという情報を得ていたから、話の材料に良いと思ったのである。


松尾は田蜜の顔を見た。 田蜜は奇妙な顔をしている。

「何だ、そのあんみつというのは。あんみつを家から持ってきたのか」

「自分で作ったのよ。内の死んだおばあちゃんがつくるのが上手でね。俺はそれを見ていて作れるのさ。俺の席は一番うしろだからな。教師が黒板に書いている時、食ったのよ」

この程度のことじゃ彼は驚かないし、仲間意識を持たないのじゃないのかと思った。松尾はニヒリスト克服同盟のことをふと思い出した。

ところが、田蜜はあんみつに反応したのだ。

「君はうらやましい奴だな。俺もあんみつ好きだけれど、今は食えなくなってしまった」

「何で」

「君と同じで、内の婆ちゃんがよくあんみつ食わしてくれたからな。ただ、内の婆ちゃんは自分でつくるのでなくて、店に連れて行って食べさしてくれたのよ」

「じゃ、今度、俺が作って食べさしてあげるよ」

「君がつくったあんみつはうまいのか」

「俺の場合はな、婆ちゃんが名人だったから、それを小さい頃から、見て、時には教えてもらった、だからうまいよ。それをあの野美公園でおごってやるよ。」

野美公園というのは大きな池の周囲に広がっているこの町の高台の公園である。瀬戸内海とその周囲の風景が一望の元に見渡せる見晴らしの良い公園である。春には桜、そのあとは、つつじそれから、アジサイそして夏は池に咲く蓮の花と、それに、美術館もある。ただ、野絵の地区とこの公園の間に路面電車が通っている。電車が通る時以外は小鳥の声が聞こえるくらいの静かな市民の憩いの公園である。

「あんみつか、食いたいな。」と田蜜は笑った。

「君はあんみつを一緒に食べる同志と思ったから、こういう誘いをしているのよ」

「君がつくったあんみつ、本当にうまいのか」

田蜜はそれまで、優紀のことを「お前」と呼んでいた。優紀が「君」を使っているのに、先輩に生意気な奴だと思っていた。だが、ここで彼が「君」を使ったことにより話の流れが変わったと思った。

「ま、食べてから、感想言ってくれ。野美公園に屋根のついた所があるよな。あそこのベンチで、食べれば、あんみつ屋で食べるのと同じ雰囲気を味わえる」

田蜜が奇妙な顔をしているので、松尾はなんだかおかしかった。

「それじゃ、 おれの言うことをきいてくれるかい」

田蜜は急にかたい表情になった。

「冗談じゃねえよ。 どうしておれが君の言うことをきかなけりやいけないんだよ」

松尾はしばらく田蜜の目をみつめた。 田蜜にはもう敵意はない。むしろ親しみのこもった目が一種の戯れのような感じで浮遊している。 しかしまだ表情はかたい。

「あんみつ。本当におごるのか」

「ああ、おごるよ。 じゃ、君は松山中学の番長なんだからさ、 学校中が静かに授業かできるようになるように君の仲間に言ってくれないか。それから教師に対する反抗もやめるように言ってほしいんだ。」

「ふーん。 そんなことならやってあげるよ」

「高山先生に聞いてそれがうまくいったようだったら、僕は君を電話で野美公園に呼びだしてあげるから、その時あんみつをおごるよ」

「うそはつかんだろうな」

「馬鹿なことはいうな。おれはうそはつかんよ。 そのかわり君の方も今言ったことを徹底してやってもらいたいね。 その成果を見るためにも、君を呼ぶのは一カ月後にするだろ」

「それで、あんみつはいつ」

「今度さ」

「そうだよ。 あたりまえだ。松山中の雰囲気が正常になったかどうかは一ヶ月ぐらい様子を見なくちゃ、わからんだろう」

「よし、 いいだろ。 しかし、 もしも君がうそをついたら、 おれは君に復しゅうするぜ」

田蜜はちょっと笑いながら言った。

「おい、あんみつぐらいで脅かすのか、おそろしい男だね。 まあ、 おれを信用して、 ともかくよ。 松山中学の仲間に授業中の態度と教師に対する態度とを改めるようにしろといえよ。」

「わかったよ。 特に高山先生に対する態度をきちんとしろと言いたいんでしよ。 わかってますよ。 あんたが高山さんにほれているというくらい」

松尾と田蜜は肝心の話をそのくらいにして、他の雑談をそのあと十分ぐらいかけて、別れた。 高山アリサは寺院の玄関にまで見送りにきた。

「先生!しばらくたったら、松山中はものすごく静かになりますよ。」

田蜜鉄男が笑った。

「へえ、 そうなってくれるとうれしいわ。どんな話を松尾さんとしたのか知らないけどあなたが静かになれは他の子も静かになるかもしれないわ」

禅寺の門の周囲がもみじの紅葉が見事だった。優紀が階段に足を置いて、ふと向こうをみると、瀬戸内海の海に夕日がまさに落ちようとしていた。永遠を象徴するように、海と空の溶け合う荘厳なひと時があたりを支配しようとしていた。

「綺麗ですね」と優紀は言った。

「ええ、夕日ももみじも綺麗ね。」とアリサは答えた。田蜜は沈黙していた。

優紀はふと、自分の母校の校旗に縫い込まれた織物の風景がここから見たものではないかと想像した。まさに永遠を意味する神秘な光景だと思った。


                【つづく】












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