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A
城内を探索するべく二階へと向かったアレックスは荒れに荒れたダイニングルームを見渡した。その規模、テーブルや椅子の数からレストランを彷彿とさせる姿にこの城には以前、多くの人間が出入りしていたのかもと思案を巡らせた。
厨房もまた酷い荒れようで、大きな冷蔵庫は抉れ潰れており、大きな爪痕がいくつも残っている。大きな生物が冷蔵庫を奪い合う様子が思い浮かんだアレックスは顔を歪めた。
ダイニングルームを出て二階の探索を続けるアレックスはある一室に入った所でポカンと口を開けた。
部屋全体が水槽になっている。薄暗い室内には水槽を照らすライトだけ。コポコポと水槽内のポンプの音だけが響く。
この水槽の中が色鮮やかな魚で溢れていればとても美しかったことだろう。水槽の水は真っ赤に染まり、大きな肉片が水槽の中で静かに揺らめいていた。ソレは既に水分を吸って肥大していたが、毛だらけで大きな口で鋭い牙を持った化物であることは明らかであった。そしてソレが冷蔵庫を奪い合った生物なのであろうことも。
これは骨が折れそうだ、とアレックスは静かに腰に差したナイフを抜いた。
「グルルル……」
背後からの呻き声にアレックスは思った。
――フィルの奴、死んでないと良いけど……。
「グォオオオオ!」
突進して来たソレを避けたアレックスは生きたソレを視界に入れて、以前にフィルに無理やり見せられた怪物のイラストを思い出した。だが、名前は忘れてしまった。というより、最初から覚える気が微塵も無かったからだ。
大きな化物の突進を受けた水槽の中が激しく揺れたが水槽自体が割れることもヒビが入ることも無かった。頑丈なもんだな、と頭の隅で感想を述べつつアレックスは化物の延髄に勢いよくナイフを突き刺した。叫び声をあげて暴れる化物の体毛を左手で掴み、突き刺したナイフを肉を抉るように捻る。
「…ッガ」
「……」
息が詰まった様な声をあげて化物がその場で倒れた。
化物の延髄からナイフを抜き取ったアレックスはナイフの刃に視線をやる。
「ん、大丈夫そうだな」
随分と硬い体だったとナイフの血を拭い腰に差す。あの強靭な体を力任せに刺すのはナイフに良くない。いざとなったら素手でやりあえるだろうかと考えつつアレックスは三階へと向かった。
*
三階へとやって来たアレックスは目当ての一つである部屋を見付けた事に目を輝かせたが中に入ってみてその荒れように肩を落とした。何処もかしこも化物が暴れた後だ。
やって来た場所は書庫。しかし、本はバラバラにページが散らばっているし、本棚もただの木片になってしまっている。散らばるページを拾って目を通してみても文字はすっかり擦り切れて読めたものじゃない。探索するアレックスの一番の目的は城主の部屋だった、誰でも一番大事な物は自分の部屋に置いておくもの……。城主の部屋さえ発見出来ればこの城の事を知れる何かがあるのではと思っていたが……。何処もこんな状態では期待も薄い。
読めそうな本を片っ端から手に取るも有益な情報は得られない。
――役に立ちそうにない、か。
ここは潔く諦めて上階を目指そうと腰を上げた時、微かに感じた気配にアレックスはナイフの柄を握った。さっきの化物とは違った……。足音を立てぬようゆっくりと扉の方へと移動するアレックス。感じた気配はさっきの化物とは違って、気配を殺すのが上手い……。静かに書庫の扉を開けた。
キィ、と扉が鳴る。相手の気配に動きがない。アレックスはゆっくりと廊下へと視線をやった。
「……」
アレックスの視界には犬が居た。それもこちらに尻を向けた犬が足元の臭いを嗅いでいる。おいおい、狂犬病とか勘弁してくれよ。とアレックスは心の中で呟き眉間に皺を寄せた。犬がこちらに気付いた様子は無い。後ろ手にカバンの中に手を突っ込み水の入ったボトルを取り出す。
犬が頭を上げた。
「おーやー?」
「……っ!」
――喋った!
こちらを振り返ったのはどこをどう見ても犬だ。大きさは中型、犬種はミックスで毛並みは悪く小汚い……。
「初めてのニオイのやつ! 見付けた見付けた見付けたぞー!」
その場でくるくると回った犬。その場から動けないでいるアレックスに何を思ったのか近付いて来る。小汚い犬なのに、コイツ、足音を立ててない……!
「来るなっ」
「!」
「近付くな……」
「なんでー? ねーねー、何処から来たの?」
ねーねー、と言いながら来るなと言ったのに近付いて来る犬。喋る事自体が既に異常だが、狂犬病だったら尚困る。アレックスはボトルの口を開けて中の水を犬にかけた。ばしゃ、と頭から水を被った犬は一瞬ポカンとしたがすぐに体を震わせて水を払う。
「はー、遊ぶ? 遊ぶの? 水遊びする?」
水は怖がらないのか、とアレックスはボトルの口を閉めてカバンに戻した。
喋る犬なんて気持ち悪いがここに来て初めて会話出来る相手……、犬が敵意を向けて来ないならここは友好的に話しかけるべきか。
「おい、犬。聞いても良いか」
「おいいぬ?」
「お前、犬だろ」
「ぼく? ぼく、イディオット!」
――え、こいつ、自分で自分のこと馬鹿(idiot)って言ってる。
「アルバートがねー、イディオットって呼んでくれたんだ! そしたらアノーマリも呼んでくれたんだ! だから、ぼくはイディオット!」
それ苛められてるんじゃないのか……。そうは思ったものの口に出せず黙り込むアレックスにイディオットと名乗った犬は首を傾げた。
「どうしたの?」
「そのアルバートとか、アノーマリって誰だ」
「アルバートはご飯くれる人間、アノーマリはネズミだよ!」
――うわ、何を言ってるのか全く分からない。
「でもねでもね、アルバート、ずっとご飯くれないんだー。何処かに行っちゃったのかな?」
「死んだんじゃないのか」
「死んだんじゃないのか、ってなに?」
「そんな哲学的なことを聞かれても……」
「哲学的なこと、ってなに?」
ダメだ、こいつマジでイディオット! 何を聞いても「What?」で返して来る!
俺はこの犬と会話を続けていて良いのか。とアレックスが頭を押さえた時、イディオットはいつの間にかアレックスの足元に居た。
「!」
「ふんふん、初めてのニオイ!」
――コイツ、馬鹿なのに出来る……!
俺に気付かれずこの間合いまで入ってくるなんて、コイツに殺意があったら俺の足は持っていかれていても可笑しくなかった。
アレックスは恐る恐るその場にしゃがみ、イディオットと視線を合わせる。イディオットはアレックスの目を見つめ返しぱちぱちと瞬きをした。
「俺の名前は、アレックスだ」
「アレックス!」
ここでイディオットに城主の部屋を教えてくれと言っても城主って何? と言われてしまうだろう。しかし、このままイディオットと別れて一人で城内を探索するのはキリがない。出来るかは置いといて道案内くらいさせよう。会話も一応は出来るのだから、得られるものが全く無いわけじゃない。
「実はここに俺の友達が居るんだ。一緒に探してくれないか?」
「探し物? 何を探してるの?」
「……、友達」
「友達、ってなに?」
――ああ、途中でその返事だって、察してたよ。
何を知っていて何を知らないのかがそもそも分からない。とりあえず頭が悪いがここで生き残っているだけあって強い犬なのであろうことは分かる。さて、どうするか。
こちらを見つめるイディオットと視線を合わせてからアレックスは自身のカバンの中に手を突っ込んだ。
「ビーフジャーキーやるから付いて来い」
「ビーフジャーキー、ってなに?」
「これだ」
その答えが返ってくると予想していたアレックスはイディオットの鼻先に手の平を広げてみせた。手の上にはビーフジャーキー。それを目でしっかりと確認する前にイディオットはパクンとアレックスの手の上に乗ったビーフジャーキーを食べた。
――うわ、こいつちゃんと確認もせずに食いやがった。
毒だったらどうするんだ。と思いつつも咀嚼するイディオットを見るアレックス。口の中のビーフジャーキーを飲み込んだイディオットは尻尾を振ってアレックスを見上げた。
「おいしい!」
「もっと欲しいか?」
「欲しい!」
「じゃあ、行くぞ!」
「行くぞ!」
立ち上がったアレックスの足元を尻尾を振ったイディオットが纏わり付く。歩き出したアレックスを追いかけてイディオットも歩き出す。よし、餌付けに成功したと付いて来るイディオットを見下ろして小さく笑みを浮かべた。
「ビーフジャーキー! ビーフジャーキー!」
「俺と一緒だと美味しい物いっぱい食べられるぞー」
「嬉しいー!」
――単純な奴。
あまり期待はしていないがこの階にどういう部屋があるのか聞いてみようと足元でハシャぐイディオットを見下ろした。
「イディ」
「……?」
「イディ? どうした?」
「イディ、ってなに?」
「お前のことだ、イディオットだからイディで良いだろ」
犬とはいえ、話をする相手をずっと馬鹿にして呼ぶのは好きじゃない。
「ぼく、イディ?」
「そう」
「ぼく、イディ!」
「そう、それでな。イディ」
「うんうん、なーに?」
「この階には書庫の他にどんな部屋があるんだ」
「このかいにはしょこのほかにどんなへやがあるんだ?」
「うん、もういい」
「うんうん」
ビーフジャーキー食べたい! とうるさいイディに腹が立ったのでビーフジャーキーを目一杯遠くに投げてやったら物凄い勢いで走ってナイスキャッチされた。
「おーいしーいっ!」
「……くっそ!」
――アイツ、マジで出来る……!