10月24日 ④
一部始終を思い出すと、無くした痛みにもう一度胸が震えた。辺りを見回せば、もう日は完全に落ちている。ほど近くにある街灯と月明かりだけが、アタシを照らすすべてだった。見上げていた星は、いつの間にやらその姿を増やして、透き通った夜空を輝きで彩っている。
普段なら気にも止めない世界。ちゃんと見たのは、忘れるほど遠い昔。自分が過ごしていた場所と神代原の違いを一つ見つけて、また胸が疼いた。きっと司は、もっといろいろな"違い"を見つけていたのだろう。彼にとって好ましいモノを。
風の冷たさを少し感じたけれど、動く気はなかった。だから、もう一度夜空を見上げて、名前も知らない星達のステージを眺めることにした。
「・・・・・・ここに居たのか。風邪引くぜ、月森さん」
そして、そんな言葉が風に乗って届けられても、アタシは微動だにしなかった。夜風と同じように、体を吹き抜けて、どこかへ飛んでゆく。今はもう、何もしたくなかった。
けれど、その声は同じ言葉をかけつつもだんだんとアタシの側へと近づいてくる。幾度目かの声かけの後、その人はアタシを見下ろしながら、もう一度その言葉を口にした。
「・・・・・・何か用?」
上から覗きこまれて、ようやくアタシは返事をする。煩わしげに、放って置いて欲しいと言葉に込めて。けれど、彼は手すりに腰掛けると、アタシと同じように天上を見上げた。
「いや、なんて言うか、その・・・・・・。悪かったな」
「別に、アンタのせいじゃないでしょ。告白したのもアタシだし、振られたのもアタシのせいだし」
"答え"は出てしまったけれど、あのままズルズルと行ったとして、良い方向に進むとは思えなかった。頭のどこかではそう思ってはいても、言葉とは裏腹にどうしても彼を責めるような口調になってしまう。その一言で会話は途切れ、暫くの間アタシ達は一緒に夜空を見上げた。何か言おうとしている彼の存在を意識からはずし、先ほどまでと同じように一人きりの気分で。
「俺、知ってたんだ。司から聞いてた」
「えっ?」
でも、そんな時間も高村君の一言で終わりを告げる。思わず聞き返したアタシと、彼の視線が合った。
「君と司の関係。司が君の件で傷心して、この町にやってきた事。・・・・・・君への、アイツの気持ち」
学校での勢いのある声と違う、落ち着いた静かな声。まっすぐな、揺れない瞳。その様子に心が粟立つ。一体、彼は何を告げようとしているのだろう。
「アイツさ、君のことが好きだったんだって。大切だったって言ってた。壊れてから、それに気がついたって。そう言ってたんだ」
「君の気持ちについては何も言ってなかった。君の変化とか、どうしてそうなったのかとかは、司には何もわからなかったって。でもさ、ここに来てからの君を見れば、わかる。向こうでの関係さえ知っていれば、それくらいわかるんだ」
だから、口を出した。二人が離れきってしまう前に。最後の一言は口には出さなかったけど、そう言っているようにアタシには聴こえた。
何でもわかりそうな癖に、ヒトの気持ちには疎いアタシの想い人。他人だけじゃなく、自分の気持ちにも鈍いなんて、本当に司らしい。
「"壊れた"かぁ。鈍い癖に、気持ちの整理だけは早いんだから。ホントにアイツは・・・・・・アタシこと、何にもわかっちゃいないんだから」
その繋がりを追っかけて来たアタシが、バカみたいじゃない。しかも、両想いだったなんて救われない。結局、悪いのはアタシ。全部自分で壊してしまった。
「あーあ。何でこんなになっちゃうかなぁ。何でかなぁ、アタシは・・・・・・」
それが限界だった。止まったはずの涙が流れ出し、もう一度アタシの頬を濡らす。先ほどまでとはまた違った涙が溢れ出す。傍らの少年の視線を避けるように、アタシは嗚咽を堪えて小さくなって泣き続けた。流れ出る涙は、重い後悔の色。苦くて切なくて、そしてやるせない色だった。
アタシの涙が止まるまで、高村君はじっと待ってくれていた。それから彼に促され、アタシは自分の部屋へ手を引かれて歩いてゆく。都会よりも、ずっと通りを行き交う人は数少ない。それでも時折すれ違う人たちは、アタシ達を見てどう思ったのだろう?
「・・・・・・ここが、アタシの家」
俯いたまま傍らの高村君に答えて、アタシは鍵を開ける。駅の近くの、神代原でも新しいマンション。そこの一室がアタシの家だった。玄関の傍らにあるスイッチをいじり、灯りを点ける。そのまま靴を脱ぎ捨てて中へと歩いてゆく。高村君はと言えば、神妙な顔で玄関で立ち尽くしていて、ちょっとだけおかしかった。
「他の都会から来た奴らみたいに、寮にしなかったんだな」
「まあ、ね。人とずっと一緒に生活するなんてアタシにはムリだし。・・・・・・何にもないけど、上がっていいわよ」
その言葉に彼は頷き、律儀に靴を揃えてからアタシに続く。玄関に併設されたキッチンを抜け、居間へと彼を先導する。高村君を窓際に座らせて、アタシは対面に腰掛ける。彼は興味深そうにきょろきょろと辺りを見回していた。
「そんなにアタシの部屋が気になる? まあ、高村君は女の子の部屋に入ったことなさそうよね」
「あー、うん。昔に幼なじみの部屋に行ったくらいかな。アイツの部屋はピンクだったけど、随分違うなって思ってさ」
「まあ、それはそうかも。この部屋何もないでしょ? アタシ、ごちゃごちゃしたの嫌いなのよね」
何もないと言うのは言葉通りだ。奥にある寝室と部屋を含め、一人暮らしには広すぎる空間を差し引いても、アタシの家には極端にモノが少ない。まだここに暮らし始めてそんなに日が経っていないせいもあるが、元々アレコレとインテリアに凝る方ではないし、そんなに趣味もないからだ。けれど、今はその空虚さが辛かった。
口調だけは普段のように戻ったけど、相変わらず心は悲鳴をあげていて。下手な役者のように、アタシは"日常"の演技をしていた。それから暫くぎこちない会話は続いたけど、それも途切れてしまう。音が、また途切れた。
――この状況には覚えがある。これで二人目、いや三人目だったっけ? 場所も相手も全然違ったけど、シチュエーションはよく似ていた。"その時"もアタシは振られていて、それで男の子の一人に泣きついて、どこかの埠頭とか、公園の一角とかで慰めてもらった。
アタシは、また同じ事を繰り返そうとしているんだろうか。そんな自分に絶望しながらも、頭のどこかで冷静に状況を整えている自分がたまらなくイヤだった。でも、止められない。今、この状況で一人きりになんてなれない。空っぽを抱えてひとりぼっちはイヤだった。たとえ、その後に新しい傷がつくとわかっていても。
視線を落とす。かつての出来事を思い出す。災難を抱え込んだと瞳の隅で語る少年達の顔が驚きに歪み、戸惑いに変わり、その表情が近づいてゆくうちにいびつな笑顔に変わってゆく様子がフラッシュバックする。きっと、高村君もそうなる。相手からか自分からかは違うけど、結果はいつも同じだったから。
テーブルの上にあったリモコンを操作する。居間の灯りが消えて、高村君の後ろにある窓からの月明かりだけが、照明の全てになる。足を組み替え、両手をつく。
「・・・・・・月森・・・・・・?」
いぶかしげな声を上げる高村君。その声には答えず、ゆっくりとテーブルの脇へと手を進める。四つん這いの姿勢で、彼の方を上目遣いで見つめながら。
「ねぇ、高村君」
「えっ?」
「アタシね、寂しいんだ。どうしようもないくらい」
少しずつ、距離を進めてゆく。彼はアタシがしようとしている事がわかってなさそうだったけど、月明かりに照らされた顔は堅く、緊張していた。
「心がじくじくって疼いて仕方がないの。何であの時って、考えが止まらないの」
高村君は何も言わない。アタシは少しずつ近づいてゆく。獲物をねらう、蛇のように。違うのは、自分を食わせようとしている所。
「アタシ、バカだから。いっつもどうしようもない事ばかりするバカだから」
「・・・・・・」
「だから、お願い。全部忘れさせてほしいの。せめて、今だけでも」
彼の崩した脚へ、手が触れる。それに乗り上がるようにして、アタシは高村君の体へと身を寄せる。アタシの手が、肩にかかる。顔と顔が、少しずつ近づいてゆく。そして、最後は相手から来るのを――。
「月森。お前は俺を信じてくれるか?」
「・・・・・・?・・・・・・」
アタシの肩に、手が置かれる。突き放すでもなく、抱き寄せるでもなく、その距離で留め置く為の手。その手の持ち主は、静かにアタシへと問いかけてきた。深みがあり、それでいて揺るがない意志を秘めた漆黒の瞳。それに見据えられて、アタシは停止する。
気づかなければ、アタシはどうにかしていたかもしれない。けれど、それに気づいてしまった瞬間、その瞳に縛られた。彼が何を決めたのか、聞きたくなってしまったから。
「高村君を・・・・・・信じる?」
「ああ。俺を、俺のやり方を、信じてくれるか?」
その語気に押されて、つい頷いてしまう。彼の言葉の意味を考えたわけではない。意味も分からず、勢いに飲まれたのだ。自分が作っていたものから不意に変わった空気に、予想外の言葉と表情に、アタシの心は宙に浮く。それを見計らったかのように、彼は立ち上がった。
「よし。なら、ここを出よう! こんな所に居ちゃ、ダメだ!」
力強い言葉。それに引きずられるようにして、アタシはもう一度、外の世界へと連れ出される。抗う事なんて、出来なかった。