#2 白の少女と黒の青年5
晟が少女を保護した経緯は、今から一時間ほど前、午後7時20分頃に遡る。
図書館を出て帰り道を歩いていた彼は、トンネルに差し掛かった辺りで何か嫌な予感を覚えていた。
そして、そのトンネルを駆けて出た直後のこと。彼は白い何かを目撃した。
ちらちらと何かが視界の端で動いたのをみて、晟は僅かに恐れを抱いた。
恐る恐るその白い物に近づいていって、その眼に入ったのは――寒さに震え、アスファルトの地面にる一人の少女だった。
白のワンピースに身を包む、色白の少女。髪の色も東洋人とは思えない程の薄い茶の髪で、眼はエメラルドのような緑色。しかし薄暗い中でも分かる程にその肌に血の気はなく真っ青で、がたがたと音を立てて震えていた。
これはまずい。見た瞬間すぐにそれを理解した彼は自分が着ていたオーバーコートを脱ぎ、彼女に掛けてその身体をさすった。
「おい。大丈夫か!?」
晟は声を掛けてみたが、彼女は声を出す余裕もないのかもしれない。ぱくぱくと口を開けるだけ。
彼女の身体は、酷く細い。こうやってさするだけで容易く折れそうな気がして、晟は少しまごついてしまった。
しかしその手から伝わるその体温の低さに、晟は焦りを覚えた。早く何処か、暖かい所に連れていかねば。
晟がそう判断した、その直後。
誰かの足音と、何か金属質のものを引きずる音が聞こえた。恐らく、引きずっているのは鉄パイプだろう。足音の主は鉄パイプを携え、どうやらこっちに近づいてくるようだった。
尋常じゃない。こんな冬にふさわしくない服装の少女に、明らかに威嚇の意味を込めて鉄パイプを引きずらせ、来ている何者かの存在。
ただならぬ事態だとはすぐに分かった。晟が聞き耳を立てて周囲を見回している最中、少女と目が合う。
その視線は酷くその音に怯えていて、こちらをじっと見ている。何か言いたげだ。
その時、少女の唇が動いたのを、晟は見た。
に げ て と。
晟はその言葉に少女を腕に抱え、立ち上がると、一気に駆け出した。
事情は知らない。しかし、このまま放っておけばこの少女に危害が及んでしまう。そう晟は考えた。
そんなことを見過ごせとは、晟は"あの男"に教育されていない。
追跡者もどうやら晟の存在に気づいたらしい。駆け出す晟の後ろから、足音が聞こえてくる。
――速い。このままでは追いつかれてしまう。
自分一人ではどうにかなるかもしれないが、彼女を両腕に抱えたこの状態では如何ともしがたい。
その時、晟は次の角を曲がった辺りに茂みがあることを思い出した。小さな茂みであるが、この少女一人ならば隠れさせることは可能だろう。
茂みに到着した晟は、自身のコートを着せた少女をその茂みの下に優しく置く。そして静かに、追跡者に聞こえないように、晟は少女に囁いた。
「……そこに隠れてろ。すぐ戻る」
追跡者がどれだけ強いかは晟は知らない。だが、いざとなれば念力で少女と共に逃げることも可能だろう。
どちらにせよ、そいつの顔は拝んでおくに越したことはない。
晟がついさっき来た道を戻ると、そこには、一人の男が立っていた。
男。背格好を見る限り、それには間違いない。目出し帽を被っているためその顔は分からないが、身長は175cm程で中肉。そして服装はスーツにコート。顔は分からないが、身体的特徴を見る限りではどこにでもいそうだ。
だが、その男が手に持った鉄パイプを構えた瞬間、晟は眼を見開いた。足の動き。鉄パイプの構え方。その立ち振る舞いは、明らかに剣道をやっている人間のそれだ。武器を構えさえすればこの場を凌げると勘違いしている人間のものではない。
男は二歩ほど後ろに下がり、間合いを取って攻撃の隙を伺っている様子だった。
この正体不明の男がかなりの強者であることは間違いはなさそうだ。
念力で取り押さえてやるべきか。そう考えた瞬間のことだった。
青い光と共に響く、耳を劈く様な音。咄嗟に両腕で自分の身体を庇ったのが、逆に足を引っ張った。
「ぐっ……!!」
左腕に走った痺れに、晟は顔を顰める。
まずい。こいつ、能力者だ。しかも電気を操る能力持ちらしい。それを把握せずに受けてしまった自分が馬鹿だった。
これでは、しばらく念力が使えない。その事実に焦りを隠せなかった晟に、次の瞬間容赦なく鉄パイプが振り下ろされた。
「チッ!」
強く踏み込み、勢いをつけた一撃。それをすんでの所で男の左へと移動し、躱したからよかったものの、あと少し遅かったらどうなっていたか分からない。そのまま晟は男の顔面を殴りつけようとしたが、男はそれをひらりと容易く躱した。
驚く晟の隙を狙い、男は上手く間合いを取って更に鉄パイプを振り下ろそうとする。避けることだけで精いっぱいの彼を、男は容赦しないつもりらしい。運よく上手く躱せてはいるが、どれもこれも当たったら骨が折れそうだ。
だが、回避するだけでは埒が明かない。骨の一本で済むのであれば、その代償を払うべきだろうか。そう思いつつ小さく溜息を吐き、晟がその金の双眸に男を見据えたその瞬間。
その暗闇に、けたたましい音が鳴り響く。どうやら携帯電話の着信音らしい。
そして、その音に驚いたのは、意外にも男の方だった。
何か酷く慌てるような、恐れるような様子で男はきょろきょろと辺りを見回すと、いきなり逃げ出した訳で。
「待てっ!!」
晟が追いかけようとする前に、男は携帯電話の着信音と共に猛ダッシュで消えてしまったのだ。
「……何なんだアイツ」
その発言は、呆然としたものを含んで晟の口から吐き出された。
まだ、手には痺れるような感覚が残っている。念動力は使えそうにない。それを把握してから、晟は先程少女を隠した場所へと向かった。
足音を立てたのが悪かったのか。少女のもとに向かったとき、彼女は茂みの中で丸まったまま、驚きと恐怖に染まった顔でこちらを見ていた。
そんな怯えなくてもとは思ったが、もし自分がやられていたら今度は彼女に危害が及んでいただろう。それを考えると、偶然ながらもあの男の携帯電話が鳴ってくれてよかったと思う。
危険が去った以上、ここに長居する理由もない。とりあえず、彼女を警察にでも連れていくべきか。そう思った晟だったが、彼はふと奇妙な違和感を覚えた。
そういえば、彼女。
一言も声を上げる様子がない。
まさかと思った彼は素足の彼女を担ぎ上げ、この島野医院にやって来たのだ。
*
「……と、いう訳でな」
晟が語った事の一部始終。それを聞いて夏澄は黙ったまま眉根を寄せた。
夏澄が午後7時半ごろに死体を見つけた一方で、まさかその現場からさほど遠くない場所で、晟がそんな目に遭っていようとは予想だにしていなかった。
「それで……えっと?」
夏澄は診療台の上に座る少女を見た。黙ったままの少女。ただ、寒さに震えたままこちらをじっと見ている。
夏澄は中腰になり、少女に視線を合わせると、彼女に話しかけた。
「お嬢さん、名前は?」
しかし、少女は夏澄の問いに黙ったまま。寒いせいで答えられないのだろうかと首を傾げる夏澄を見て、島野が口を開いた。
「……彼女、どうも失声症のようだ」
「シッセイショウ、ですか?」
「まあ俗世間で言われる"失語症"だ。……心因的なショックで言葉が出ないんだろう」
「あらー……」
夏澄は珍しく眠たげな眼を見開き、驚くしかなかった。これでは彼女の身元を判断する方法がない。
「……それで、紗綾ちゃんを今から警察に連れていくかどうかで晟君と話になってたのよ。それで、一応夏澄にも聞いてみた方がいいんじゃないか、って」
「……何だって?」
有紀の言葉。それに夏澄は驚きを隠せず、聞きなおした。
「サヤちゃん?」
「そうよ。この子の名前」
何故。有紀がこの子の名前を知っている。彼女は、喋れないはずなのに。
その事実に、夏澄は凍り付き、そして僅かに黙ってしまった。
まさか、有紀はこの少女――紗綾の知り合いなのか。
「……何で知ってるの」
驚きに染まった声のまま、夏澄は有紀に問う。
彼女はそれにも特に驚きもせず、平然とした様子だった。