#2 白の少女と黒の青年3
手が、温かい。そして、照れ臭さで顔も温かい。
食事を終えた後、歩いて帰路につくことにした二人。自分より背の高い有紀に手を引かれ、夏澄は歩いていた。
――そろそろ結婚考えない?
夏澄は、その言葉を思い出していた。
「返事は急がなくていいのよ」
彼の手を引きながら有紀はそう言ったが、当の夏澄本人の心はあまり穏やかとは言えなかった。
結婚。そして家庭を持つこと。それに、夏澄の心がざわついていたのだ。
夏澄は極めて家庭に縁のない人生を送ってきた。
彼自身はまだ35歳だが、既に両親は"いない"。
父は夏澄が子供の時に他界したし、母とは酷く不仲で今は絶縁状態だ。今彼女がどうしているかは知りたいとも思っていないし、思い出したくもないぐらい嫌いだ。兄弟も親類もいない。ほぼ天涯孤独と同じ。
そんな自分が、家庭を持つ。その事実に夏澄は嬉しいやら不安やら、多くの複雑な感情を抱いていたのだ。
有紀は夏澄の家庭の事情を既に知っている。その上で彼女は「夏澄はご両親とは違うんだから大丈夫よ」と言ってくれた。
そのこと自体は彼にとって嬉しい事だけれども、まだ不安は黒い塊として夏澄の心の隅に残っている。
「夏澄は私が幸せにしてあげるのー」
ほろ酔いのせいか、有紀は上機嫌でそう言う。
それ、むしろ僕が言うべき台詞だろうにと夏澄は思ったものの、同時に彼女らしいなとも感じた。
「ほら、そんなにふらふらすると危ないよ」
今度は夏澄が酔っている有紀の手を引く。その瞬間、彼女は満足げにふふと笑うと、彼にふらりと寄ってきた。
「うわっ!!」
突然寄りかかられ、夏澄は何とか踏ん張って、自分より大きい有紀の身体を支えた。有紀が近づいたせいで、アルコールの匂いが鼻の奥を突く。彼は普段から酒を一滴も飲まないので、それだけでも酔っ払いそうな気がした。
「ほら! 危ないって言ったじゃないか」
夏澄は何とか彼女を支え切ったが、まだその身体はぐにゃぐにゃしていて上手く支えられていない気もする。思わず夏澄は声を荒らげてしまったが、当の有紀は幸せそうに笑うだけ。
しかも腕にしっかりと抱き着いていて、どうしようもない。夏澄は眉根を寄せつつ、有紀を支えて歩きだした。
そんなときの、ことだった。
「……あれ?」
夏澄はふと遠くに、女性らしき人影を見た。尋常じゃない勢いで道路に走って出ていき、そして何処かへと走って消えたその女性。
夏澄はそれを見て、普通ではない何かを感じたのだ。
「どうしたの? 夏澄」
傍らにいた有紀も、彼の様子が変わったことに気が付いたらしい。不思議そうに問う彼女の声に、夏澄は苦笑いを浮かべた。
「……ちょっと、これは――」
視線を、女性がやって来た方角へと向ける。そこには一軒のマンションがあった。
数秒そちらの方角をじっと見つめてから、小さく溜息。
「ごめん。有紀。……また、事件に遭ったみたい」
「え……?」
「ゴメン! 多分、警察に話聞かれると思うから!」
きょとんとする有紀を他所に、夏澄はそのマンションへと足早に向かう。そして彼はどこに何があるのか分かったかのような足取りで、ある一室へと向かった。
「………………」
どうやら鍵は開いているらしい。先程の女性がこの場所で見たものに驚いて、開けっ放しにしたのかもしれない。
夏澄はポケットに入っていた布手袋をはめると、意を決してドアを開けた。
最初に見えたのは、物が散乱した廊下。なるべく現場を保存しておくためにゆっくり靴を脱ぎ、部屋へと入る。
廊下を曲がった先、リビングに居たこの部屋の主の姿。それを見て、夏澄は両手を合わせて拝んだ。
彼の視線の先には、既に事切れた女性が壁に寄りかかり、倒れていたのだ。見た感じ、年齢は30代ぐらいだろう。
彼女の座っている地面には、既に真っ赤な血溜まりが出来ていて、その顔は恐怖で目を見開いたまま凍り付いていた。
夏澄は溜息を一つ吐き、携帯電話から電話を掛けることにした。
連絡先は当然、110番だ。
「警察です。事件ですか? 事故ですか?」
「あー。殺人事件です。死体見つけちゃって」
極めて淡々とした口調で、辺りを見回しながら電話に出た警官に事情を説明する最中、夏澄はテーブルの上に、あるものを見つけた。
『ALICE』と書かれた紙の袋に入った、何か。恐らくサイズ的に薬だろう。紙袋は不透明なため、中身は見えない。
電話を切った直後、彼は直ぐにカメラを起動させてそれを写真に収めた。一応、遺体も含め事件現場の写真は、現場を保存させつつ写真に収めていく。
写真は外部メモリに保存しておき、そのメモリは身体検査にひっかからないように靴下のつま先に入れておく。
しばらくすると表からサイレンの音が近づいてきた。どうやら先程の通報を聞きつけて、警察がやって来たようだった。
*
その後、夏澄は死体の第一発見者として、その現場の管轄の警察署で事情聴取を受けることになった。
そこで夏澄を待っていたのは、所轄の刑事達のしかめっ面だったのだ。
彼の事情聴取には二人の刑事が立ち会ったのだが、どちらも強面。しかも身体も頑丈そうだ。現に首が太い。ラグビーでもやっていたのだろうかというほどにがっちりしていて、腕も丸太みたいだ。気の弱い人間だったら、彼等を見ただけで逃げ出すだろうと夏澄は思った。
「超能力犯罪対策課の刑事ィ?」
夏澄が警察手帳を見せた途端、岩のような顔で一人の刑事がいぶかし気な視線をこちらに見せて口を開いた。
「……ひょっとして私のこと、疑ってます?」
「疑うに決まってンだろ」
どうやら彼等は夏澄が迷いもなく事件現場を見つけたことに疑いを持っているようだった。
――ああ、理解の無い人に不運にも当たってしまったか。
夏澄はそれを酷く後悔した。なんとなく、その予感はあったから現場写真のデータは隠しておいたのだが。しかし、死体を見つけた以上通報は避けられなかっただろう。
「だから、それはですね……」
溜息一つ、仕方がないが説明をしないことには、自分の疑いは晴れない。
意を決して口を開いた時、勢いよく取り調べ室のドアが開いた。
「阿久津!!」
突如聞こえた、よく知った自分を呼ぶ声に夏澄は眼を見開いた。
「あれ。善田……?」
夏澄の視線の先には、一人の男がいた。恐らく夏澄と同い年ぐらいだろう。セルフレームの眼鏡を掛けたその男は夏澄の姿を見ると呆れたような表情を見せてから、彼に近寄った。
そして。
「こんの、阿呆!!」
すぱーん、とある種快い音を立てて、その善田と呼ばれた男は夏澄の頭に平手打ちをかましたのだ。
「ったぁー……!」
呆気に取られる二人の所轄の刑事。彼等を他所に、夏澄は叩かれた部分をさすりながら善田を睨み付けた。
「いきなり何すんの! 頭悪くなったらどうするのさ! 暴行罪で現行犯逮捕するよ!?」
夏澄は突然現れた善田と口論を始めた。……二人の所轄の刑事を完全に無視して。
「ぬかせ! こちとら用心もせずに現場にずかずか乗り込む阿呆の尻拭いをしてやってんだ! 一発ぐらい殴らせろ!」
「誰が阿呆なのさこのバカァッ!!」
「馬鹿っつったな!? この阿呆が!! 第一、頭は元々ぶっ飛んでんだからそれ以上壊れるもんか!!」
「あ! 今の発言酷い!! かなり酷い!! 傷付いた!! 泣くよ!?」
「勝手に傷付いとけ! そして勝手に泣いとけこの阿呆!!」
「……あのー……」
しばらくしてから、聞こえた所轄の刑事の声。それに夏澄ははっと気が付いた。
そういえば、刑事達がこの場所にいたのだっけ。
刑事達は呆れ気味の表情を浮かべ、善田を見ていた。
「……おたく、どちらさん?」
セルフレームの眼鏡の男、善田は溜息を吐いてから、懐から警察手帳を出して見せた。
「……申し遅れました。私、東京警視庁捜査一課5係の善田 冬弥と申します。この阿呆の保護者みたいなもんです」
阿呆の保護者。その言葉に夏澄は口をとんがらせて呟いた。
「……阿呆って言った奴が阿呆なんだぞー……」
次の瞬間、夏澄の頭に善田のグーが降る。
夏澄はその拳骨の痛みに悶絶するしかなかった。




