9
家に着くころには学校を出てから二時間も過ぎていた。回り道をしたおかげで同じ家へ向かう智大に会うことはなかったが、家の中に入れば彼がいるかもしれない。そう思うと足取りは自然と重くなった。
玄関に入ると、こもった空気が身体にまとわりついてくる。足元にはきれいに並べられた智大の靴があった。顔を合わせる前に部屋に閉じこもってしまおうと、一階にある自室へ移動していたとき。
自室の奥にある脱衣所から、激しく物が割れる音が響いてきた。
何事かと駆けつけると、クモの巣状にひび割れた鏡の前に智大が立っていた。小さな鏡の破片が洗面台に落ちる。
父親のオードトワレの瓶を投げつけたらしく、散った香水からむせるようなムスクの香りがした。
「お前、なにやってるんだよっ」
狂っているとしか思えない智大の行動に、声を荒げる。当の本人は、鏡に映る歪んだ自分の顔をぼうっと見ているだけだ。
「裕介が言ったんじゃないか、鏡を向けるなって」
智大が鏡面を撫でる。割れ目にひっかかったのか、血をひきずっていた。
相手が自分の言ったことを気にしていたことに、気まずさが増す。
「あ、のときは、動揺しててなに言ってるかわかんなかったんだよ。それに、鏡を割れなんて、ひとことも言ってない」
口から出るのは言い訳がましいことばかり。裕介はそれより酷い意味を持つことを言っていた自覚があった。
彼の顔をまっすぐ見ることができずに視線を外す。消えろと願っていたことが、罪悪感として胸に残っていた。
香水を含んだ空気が揺れる。下にひいてあるマットにキラキラと反射する欠片が散らばっていた。その上をためらいなく進み、智大は裕介に近づいてくる。
手を伸ばし、髪から頬へと優しく滑らせていく。
「俺たちはこんなにも違う。顔だって、裕介のほうが目は大きいし、知らないだろうけど顎の裏側にほくろがあるんだよ。まったく同じところなんてどこにもない」
今にも眼球を撫でまわしそうな相手の手つきに、顔を背ける。その態度が気に食わなかったのか、頬を両手で挟み無理やりに視線を合わせてきた。
この目だ。暗闇の中、眠る自分をただ見下ろしていたあのときと同じ。
「同じだって思いたかったのは裕介のほうじゃないのか?」
「違う!」
相手の手から逃れようともがいてはみるが、下顎ごと固定された手のひらは動かない。それとも、抵抗する自分の意思が弱いだけなのか。
智大の勢いにおされ、少しずつあとずさる。
「俺は、消えてしまいそうで怖かっただけだ。もとは一つなんだから、俺たちも一つになって、どっちかが消えてしまうんじゃないかって。お前を見てると境目がだんだんわからなくなってくるんだ」
弱々しく吐き出す声が自分のものだと信じられない。どうして泣きそうになっているのかもわからなかった。
奥に押し込めていた気持ちを言葉にしてしまうと、中にはなにも残らない。それを恐れていたのかもしれない。
智大が不気味な目で見つめてくるようになってから、恐怖は影となってつきまとった。彼がなにに惹かれて、そういう目で見てくるようになったのか。考えれば考えるほど怖くなって、しまいには消える、なんてありもしないことを考えるようになった。
優位に立っておけば、消えることはない。考えることはそんな浅はかなこと。
だから裕介は自分のほうが成績は上、という数字の結果にしがみついた。目に見えて優位なものはこれくらいしかなかった。
彼が人に慕われるようになり、頼られるようになってから、焦りは大きくなった。焦りから逃げたいがために相談せずに遠くの高校を受験したのに。この焦燥から逃がしてくれないのはどこの誰だ。
背中に壁が当たる。どこにも逃げ場はなかった。
「俺はね」
さっきまでの無表情が嘘のように、智大は柔らかく目を細める。頬を掴む手も心なしか優しくなった。
「消えたっていいんだ。裕介の中に入れるなら」
うっとりとした口調で頬を撫でる。流れていない涙でも拭うような親指の動きは、無性に泣きたくなるほど優しかった。
消えてもいいと言われると、胸のうちに寂寥感が広がる。実際に智大から言われれば傷つくなんて、ただのエゴにすぎない。
「鏡の向こう側にいるのが裕介なんじゃないかって、小さいころから何度も鏡の中に入ろうとしてたよ」
相手の吐息が唇に当たる。近くにいることに違和感さえ覚えなくなった。智大の手が頬から離れ、縫いとめるようにして指を絡めてくる。
「お前が嫌いなんだ。もう追いつめないでくれよ」
やっとのことで出した呟きも、相手には些細なことのように鼻で笑われた。カラッポになってしまった裕介には、睨みつけるような気力さえ残ってはいない。
「裕介が俺を嫌いなことも、俺が裕介を愛してることも、そう違いはないんだよ。同じ強さで想っていることに、変わりはないんだから」
彼は自分に愛していると言った。裕介が感じながらも聞きたくはなかった言葉。聞いてしまったら気づいてしまう。恐怖と嫌悪の本当の意味。同じ顔した智大に自分を透過して見てしまっていたこと。
なにより嫌いだったのは、自分だ。
「どうしてくれるんだ」
恨み言が口をつく。視界が歪んで智大の顔がぼやける。隙間なく重なった胸から伝わる鼓動は、同じ速さで刻まれていた。
裕介に、拒むか、拒まないか、なんていう二択などなかった。
「智大が憎いよ」
想いを消せないこと知っているくせに。
「それでいいんだよ、裕介」
許すように彼は言う。そして、唇に触れるか触れないかの距離で愛してると囁いた。
言葉一つで満たされた気分になる。憎しみの感情というよりそれは、もっと苦しく、もっと甘い、切ない感情だった。