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中学に入ってすぐだった。智大を避けはじめたのは。
ずっと同じ部屋で、布団も二つくっつけて寝ていた。甘ったれの兄は、よく布団にもぐりこんできた。
違和感を覚えたのはそんなときだった。いつものように布団に潜りこんでくるまでは良かったのだが、相手は裕介にしがみつき、勃起したものを身体にこすりつけてきたのだ。二人とも夢精の経験もすんでおり、勃起の意味は性教育や友達との会話の中で知っている。
得体の知れない感覚に、裕介は寝たふりをし続けるしかなかった。目を開けてしまいたい好奇心と、開けてしまったらどこまでも深く沈んでしまいそうな恐怖。その狭間で、早くこの地獄のような時間が過ぎればいいと思っていた。そして、切羽詰った声と共に智大の行為は終わった。
一夜だけのことなら忘れることもできた。しかし、間隔を置いてそれは続けられる。
あまりの怖さに、両親に頼みこんで自分の部屋をもらった。そして、意識的に彼のことを避けるようになっていったのだ。
それだけで終わるならば、智大の存在自体がトラウマになるはずはない。幼すぎて自慰のもつ意味をよく理解していなかったのだと、自分を納得させることもできたのに。
「あの、緒方……裕介くん」
思い出したくもなかった夢から救い上げた声は、一度も話したことのないようなクラスメイトのものだった。
伏せていた教室の机から頭を上げると、凡庸な顔をした男が窺うように見ている。裕介なのか智大なのか確かめるような言い方に腹が立った。
「なんだよ」
最悪な夢と声の二つで不機嫌の裕介は、相手の目すら見ずに吐き捨てるように言う。
「あ、いや、智大くん、どうしたのかと思ってさ。さっきトイレで、ずっと鏡を見てたから」
「鏡撫でたりしてたし、授業も出なかったみたいなんだ。なにかあったか知らないかなぁと思って」
いつの間にか取り囲む人が増え、みんな口々に智大の心配をしていた。高校でも人気者の兄は、授業に出なかっただけで噂になるらしい。それなのに自分は。
「知るかよ」
彼らの言っていたことを深く考えず、カバンを持って教室を出る。
真面目に教室にいるのは、もともと中原を待っていたからだった。彼女に謝りたかったのだが、朝のHRから今にはじまる帰りのHRにいたるまで教室に姿を現さなかった。
彼女がいなければ教室にいる必要がない。十分程度で終わるHRに出席するのも無駄なような気がして、帰途についた。
もうクラブに行こうなんて思えなかったし、他にいくあてもない。長時間かかる道のりをゆっくりと帰るだけである。
電車の中で流れる風景を眺めているようで、いつの間にか自分の顔を見つめていた。どんなに強く見つめても、智大のあの視線にはならない。
じりじりと灼けそうなまでの強いまなざし。そのくせ表情はなくて、なにを考えているのかわからないような顔をしていた。
昨夜と同じ視線は、過去にも感じている。
自分の部屋をもらってすぐのころ、人の気配を感じて薄く目を開けた。裕介の寝ている傍らに立っていたのは智大だった。なにをするでもなくじっと立ったままで、視線は身体の上を這う。
布団に押しつけた唇から絶え間なく吐息がもれ、掛け布団が湿っていたのを鮮明に覚えている。震えていたと思う。また眠れない日々が続くのかと思うと、布団を掴む指がぶるぶる震えた。だからその日はたぬき寝入りがばれてしまって、智大は部屋から出て行った。
寝ている間に視線を感じることは多くなった。けれども、三年生にあがるころにそれはなくなった。
いつしか怖さを嫌悪にすりかえていた。忘れようと努力して、結局は忘れられない。根底にある恐怖は今でもくすぶり続けている。
智大がなにを思ってあんな行為を続けていたのかは聞こうと思わない。聞きたいとも思わなかった。自分でも感づいてはいるが、はっきりと言葉にしてしまうともう後戻りはできない。