7
耳につく甲高い声が聞こえ振り向くと、リカが二人を指さしていた。
「リカ、もうオカしくなっちゃったぁ。ユウくんが二人に見えるー。きゃははぁ」
智大の空いている、もう片方の腕にしがみついたリカは、大胆にも背伸びをし顔を近づけた。
その瞬間、智大の表情が変わる。思いっきり腕を振りはらい、彼女を突き飛ばした。彼のすっと細められた瞳に、裕介にはない冷酷さを感じ背中がぞくりとする。
しかしそれすら面白くて、腹を震わせて笑った。ふしぎと勝ち誇った気分になって、リカを見下ろす。彼女は床に転がりながら笑っていた。
掴まれたままの腕をひっぱられる。智大は早足に店を出ようとしていた。
「なにすんだよっ、これからがいいところなんだよ!」
足を踏ん張ろうとしても、腕を振りほどこうとしても、彼の力が強くて思い通りにならない。
「俺はずっと待ってたんだ。逃がさないよ」
相手は前方を見据えたままで言う。渡り廊下でのことだろう。彼のことだから、図書館が閉館しても門の前で待っていたに違いない。
音楽で声は届かないはずなのに、智大の声だけは浮き出たように聞こえる。それだけではなく、周囲の囁き声も聞き分けられた。
そのことが怖くなった。自覚がなかっただけで、はた目から見たらヤク中に見えてしまうのかもしれない。異端として軽蔑の目で見られるのだけは嫌だった。
クラブを出ると、智大が周囲を見回した。誰かを探しているような動作に、窺うような視線を向ける。相手はなにも答えずに、すぐそばを通ろうとしたタクシーを止めて、裕介を押しこんだ。もう抵抗はしなかった。
タクシーの中でも家に着いてからも、智大は口を開かない。
いつしか興奮はさめ、身体が重くなっていた。吐き気はするのに、実際にえづくこともしない。どうしようもない不快感が身体全体をめぐっていた。
負担が大きいのか、足をひきずるようにして歩いてしまう。動くことがしんどかった。
「座ってて。水持ってくるから」
家のリビングに移動すると、ここまで支えていた智大はキッチンへ向かった。言われるがままダイニングテーブルの椅子に腰かける。
ドラッグの種類はわからないが、短時間の効き目のようである。もう興奮とは程遠いところまできていた。色んなことが一気に押し寄せてきて、気分は落ちこんでいく一方だ。
顔をあげるのも嫌でうつ伏せていると、テーブルから振動が伝わってきた。
「少しは楽になるだろうから、飲んで」
智大はいたわるような声音で囁いて促す。
いらない、と置かれたペットボトルを押しやるも、その手を止められた。
「飲もうとしないなら、飲ませるよ」
眠ってしまったら楽なような気がする。そんなことを考えていて、近づく影に気がつかなかった。
相手に髪を鷲づかみにされ頭を持ち上げられる。急なことにうめき声をあげる。薄目を開けた視界の中に、水を口に含んでいる相手がいた。
毒づこうにも気力はなく、髪を離され顎を掴まれるまで抵抗らしい抵抗はしなかった。
智大の顔にあてた焦点がぼやけたとき、頭の中の危険信号が点滅しはじめる。逃げなければいけないと思えば思うほど、身体は強張って動かなくなっていった。
柔らかな感触が唇に押しつけられる。強引に割って入ってきた舌が、生温かい水を喉へと押し込んでいった。お互いの顎を伝ってこぼれおちる水が、裕介のシャツの胸をぬらす。
逃げようともがくけれど、相手は離してくれない。どうにかしようと立ち上がろうとするが、体重をかけられて椅子ごと床に転がった。
それでも離れてくれず相手の歯があたり、いやな味が口に広がる。それを舐めとるような智大の舌の動きは、口移し以上のものが含まれていた。
唇の角度を変えるその瞬間を狙って突き飛ばす。
「やっ……め、ろっ!」
どこもかしこも熱くほてり、荒くなった息は止められない。
突き飛ばされた智大は血の滲んだ唇を拭った指先を見つめ、ぼんやりと呟いた。
「裕介にはわからないだろうな。中原さんから電話もらったときの気持ち」
「……中原?」
中原の名前が彼の口から出て、さっきまでの憤りが遠のいた。意識が彼女のほうへ逸れそうになると、智大は自らの携帯電話を床に叩きつける。まるで、中原からかかってきた携帯電話を忌み嫌っているように。
「俺のほうが裕介の近くにいるのに、なにも知らないってことは、すごく屈辱だった」
どこか陶酔している声に、わけもなく不安をかきたてられる。彼がふわりと場違いな微笑みを浮かべたとき、気味が悪くて鳥肌がたった。
「なぁ、裕介。どうして俺を避けるの? 昔はいつも一緒だったのに」
ゆっくりとした口調に合わせてじりじりと寄ってくる。
「近づくなよ……、鏡を向けるなっ、顔なんか見たくないんだ!」
ひどく焦っていて、自分でもなにを口走っているのかわからない。ただ、近づかれるのが嫌で尻をついたまま後ずさりした。
智大は無感動な瞳で見つめてくる。
覚えのある視線から、裕介は立ち上がり、逃げることしかできなかった。




