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鏡の前で、誰かを探していた

作者: 静原

人はいつから、

「自分で選んでいるつもり」になるのだろう。


誰かの期待に応え、

空気を読み、

波風を立てないように振る舞ううちに、

それはいつの間にか「性格」や「能力」と呼ばれる。


この物語は、

特別な成功者でも、

劇的な挫折者でもない、

一人の女性の人生を辿る。


静かで、

目立たず、

それでも確かに積み重ねてきた時間。


選び続けてきたはずの人生が、

ふと立ち止まったとき、

誰のものだったのか分からなくなる――


そんな感覚に、

覚えがある人へ。

午後三時。サロンに差し込む光は、若い頃よりも柔らかく感じられた。

影が長い。それは一日の終わりを告げる影であり、人生の後半を思わせる影でもあった。


彼女は鏡の前で、無意識に背筋を伸ばす。もう誰も評価しない。もう誰も叱らない。

それでも、身体は覚えている。


(……また、やっている)


誰かの目を探すように、自分の姿を確かめる癖。それは、もう何十年も前から続いている。


ふと、棚の奥に置いた古い写真が目に入る。色あせた家族写真。


その瞬間、時間が、静かに逆流し始めた。


幼いころの彼女は、いつも少し後ろに立っていた。

居間には、低い声と高い声が混ざっていた。父の咳払い。母のため息。兄姉たちの会話。彼女は、誰よりも小さく、誰よりも静かだった。


会話の中心は、いつも彼女の外側にある。

(今、私はどうしていればいい?)


声を出す前に、空気を読む。泣く前に、様子を見る。

相手の表情を読むことが、遊びより先に身についた。


褒められるのは、「手がかからないね」という言葉だった。

その言葉をもらうたび、胸の奥が少し軽くなった。

見捨てられていないという証明だった。


洗面所の鏡に映る自分に向かって、彼女はよく小さく笑ってみせた。

大人が安心する顔。「大丈夫ですよ」という顔。


その笑顔が、後に自分を守る武器になるとも、自分を縛る枷になるとも、まだ知らなかった。


エステの専門学校を選んだのも、「手に職があった方が安心だから」という理由だった。


大人になるにつれ、その癖は“能力”として認められ始める。


授業で習う手技より、お客の微かな表情の変化を読む方が得意だった。

「あなたにやってもらうと、落ち着くわ」


褒め言葉は、幼少期と同じ形で胸に届いた。(私は、間違っていなかった)


だが同時に、

(失敗したら、どう見られる?)(期待を裏切ったら?)

見られる恐怖の間で、彼女は揺れていた。


「もっと自信を持った方がいいよ」


同僚からの言葉が、逆に胸を締めつける。


(自信って、どうやって持つんだろう)


ずっと、誰かの基準で測られて生きてきた。

自分で自分を評価する方法が、分からない。


(周りの目を気にしなくなれたら、楽なのに)


そう思う一方で、恐怖もあった。

(気にしなくなったら、私は何者でもなくなるんじゃないか)



その同僚が「将来は自分の店を持ちたい」と語るとき、彼女は笑って頷くだけだった。

夢を口にすることは、自分の人生に責任を持つことのようで、怖かった。


同僚が夢を語る姿は眩しく、

同時に自分が自身の人生を選んでいないことを、

容赦なく照らされているようで、

目を逸らしたくなった。



ある日、閉店後のサロンで、彼女は一人、施術ベッドに腰を下ろしていた。


最後の客を送り出したあと、「ありがとうございました」と言った自分の声が、思ったよりも軽く、空に浮いた気がした。


売上表を閉じる。数字は悪くない。むしろ、同世代のスタッフより安定している。

(十分じゃん)(ここにいれば、困らない)

そう、頭では分かっていた。


だが、ロッカーの鏡に映った自分は、仕事終わりなのに、まだどこか緊張していた。


肩が、上がっている。口角が、ほんの少しだけ上がったまま。

(……誰も、もう見ていないのに)


そのとき、昼間の出来事が、遅れて胸に戻ってきた。

常連客が、ぽつりと言った言葉。


「あなた、独立しないの? ここにいるには、もったいない気がして」


その瞬間、彼女は笑って首を振った。

「いえいえ、そんな……」


反射だった。考えるより先に、“安心させる返事”が口をついて出た。


客はそれ以上、何も言わなかった。

ただ、少し残念そうに微笑んだだけだった。


その表情が、なぜか、胸に引っかかって離れなかった。


(私は、何を否定したんだろう)


夢?可能性?それとも――自分自身?


家に帰り、洗面所でメイクを落とす。


鏡の中の自分が、いつもの「大丈夫な顔」をしている。


(この顔で、 あと何年、過ごすんだろう)


不意に、同僚の言葉が重なった。


「〇〇さんって、何でもできるのに、自分の話、しないよね」


そのときは、笑って流した。

褒め言葉のようで、どこか責められている気がして。


(私の人生なのに)(私のはずなのに)


胸の奥が、じん、と熱くなる。

怖かった。


失敗したら、どう見られるか。うまくいかなかったら、どう思われるか。


でも、今のままでも、ずっと誰かの期待の中にいる。

それは、安全で、息が詰まる場所だった。


その夜、ノートを一冊、引っ張り出した。


誰にも見せない。評価もされない。失敗しても、怒られない。


白いページに、震える文字で書いた。


「自分の店を、やってみたい」


それだけだった。

計画も、覚悟も、まだ足りなかった。


ただ、その一文を書いた瞬間、胸の奥で、何かが静かに決まった。

(怖いけど)(逃げないでみよう)


翌朝、彼女は初めて、鏡の前で背筋を伸ばさなかった。

代わりに、小さく息を吐いた。

それは、誰かに見せるための姿勢ではなく、自分の人生に立つための、はじめての呼吸だった。



独立してサロンを開いた。

看板は小さく、通りから少し奥まっている。それでも、客は途切れなかった。


無理に売り込まない。否定しない。黙って、丁寧に触れる。


「ここに来ると、ホッとするの」

その言葉が、何よりの評価だった。


独立して8年、生活は成り立っていた。経営者としても、大きな失敗はなかった。


だが――母が亡くなり、続けて兄が亡くなった。

通夜の夜、誰もいなくなった実家で、彼女は一人、洗面所の前に立っていた。


洗面台の端に、使いかけのハンドクリームが残っている。

母がいつも、家事の合間に塗っていたものだった。

「ちゃんと手、守りなさいよ」

そう言いながら、自分の指先より先に、彼女の手に伸ばしてきたことを思い出す。


キャップを閉めようとして、ふと気づく。

もう、その言葉をかけてくる人はいない。


廊下の向こうの居間から、兄の声が聞こえてくる気がした。

「無理してないか?」それだけの、短い一言。

具体的な助言も、深い会話もなかった。

けれど、帰省するたび、必ず同じ調子で投げてきた言葉だった。


今は、その声が、どこにもない。


鏡の中の自分は、いつの間にか、母に似ていた。


彼女は無意識に姿勢を正していた。

(誰に?)

問いが、宙に浮く。


周りの目を気にする理由が消えたのに、癖だけが、体に残っている。


それが、何より怖かった。

(私は、誰のために頑張ってきたんだろう)


不安は、理由のない波のように押し寄せる。仕事はある。店もある。それでも、足元が崩れる感覚がした。


安心させたかった相手。認められたかった存在。

そのすべてが、突然、消えた。


理由のない“気遣い”だけが、取り残されていた。


年月が流れ、

あの頃の母の姿よりも年老いた彼女は

鏡に映る自分を見る。

幼い頃と同じように、少しだけ背筋を伸ばした姿。


違うのは、もう誰のためでもないということ。

(私は、“気にする癖”を、手放す必要はあったのだろうか)


その癖があったから、仕事を続けられた。

人から褒められた。ここまで来られた。


ただ――いつの間にか、自分の人生の舵を、他人の目に預けていただけだった。



彼女は、照明を落とす。サロンは、静かに夜を迎える。


あなたが今、選ぼうとしている道は、誰の目を意識した選択だろう。


その人がいなくなったあとも、その選択を、あなたは「自分のもの」として引き受けられるだろうか。


もし、誰にも見られていなかったとして。それでも、あなたは今の人生を選ぶだろうか。


答えは、書かれていない。それぞれの人生の中にしか、存在しないから。


彼女は、

「気にしなくなった」わけではありません。


他人の目を、完全に手放せたわけでもありません。


ただ、

それが自分の人生を支えてきたものなのか、

縛ってきたものなのかを、

初めて問い直しただけです。


人は、

誰かの期待の中でしか生きられない時期があり、

その期待に応えることで、

居場所や自信を手に入れることもあります。


だからこそ、

その視線が消えたあとに残るものは、

ときに、空白のように感じられます。


この物語は、 「正しい選択」を示すものではありません。


気にし続ける人生も、

気にしない人生も、

どちらが正しいかは決められないからです。


ただ一つ、 問いだけが残ります。


もし、

誰にも見られていなかったとしても、

それでもあなたは、

今の選択を引き受けられるだろうか。


答えは、 物語の外にあります。

あなた自身の時間の中で、

静かに見つけていくものだからです。

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