55. 逃げるわけがない
「花まつり?」
レティが記憶を失ってから数週間。レティは記憶のないことを受け入れ始めていた。とにかく皆と話をして、以前の自分と同じような生活に戻していこうとしていた。そんな日々の中で、殿下はほぼ毎日のようにやってきては、レティと話していた。レティが自分のことを話せない分、殿下は国の行事や自分たちの思い出について語っていた。
「行きたいわ! ……多分」
ちょうど行われているお祭りに、レティは興味を示す。記憶を失う前は、前日からワクワクしていたほど、レティは花まつりが好きだった。民の幸せな顔を見れるお祭りが大好きだった。
「じゃあ、お忍びでいこう」
殿下は笑う。そう言うと思って、黒髪のかつらまで用意してきていた。僕は部屋を出ているから、とお忍び用品を渡す。
そうして着替えて、屋敷を抜け出した。
「素敵……!」
花で飾られた山車が並び、町中は色とりどりに飾り付けされている。民族衣装を纏った少女が花籠を持って歩いていて、人々はそれをもらい、持ち歩く。
「おひとつどうぞ」
「ありがとう!」
例に漏れず、レティも花をもらった。紫色のルピナスを殿下の顔に近づける。
「殿下と同じ色ね!」
ニパァァと無邪気に笑った。
「きょ……」
去年も同じことを言っていたね。
そう伝えようとして、言葉を飲み込む。今のレティが、知っているわけもない。今のレティを傷つけたくない。
「?」
「なんでもないよ」
いつか贈った庶民風の服のスカートを靡かせて、踊るように街を歩く。殿下は繋いだ手を強く握りしめた。離したら、また消えてしまわないかと不安に思ったのだ。
「疲れましたの?」
そんな仄暗い気持ちなんて知らずに、レティはふわりと心配する。
殿下は、記憶を思い出して欲しかった。ずっと一緒にいた、あのレティに会いたかった。……それでも。
「レティ。僕とこのまま逃げてしまおう」
ずっと考えていた。
もしも、レティが生まれながらに国母でなかったとしたら。ただの平民の少女だったら。危険な目に遭わず、無茶もしなかったのではないだろうか。責任感で動いたりなんかしなくて、決まりなどで結婚相手が決まらずに、普通に好きな人を作って、誰よりも幸せに暮らせたのではないか。
「今の姿なら、誰も君がレティだなんてわからない」
国王の座に興味などなかった。レティさえいればそれでよかった。レティが幸せな姿を、隣で見られることが、一番の幸せだった。
レティはパチパチと瞬きをする。記憶を失った上に、そんなことを言われてしまえば戸惑うのも当然だ。
「……っ大馬鹿者!!」
バチン!
レティは怒鳴った。殿下の頬を平手打ちし、叱りつけた。あまりのことに、何を言っているのか、すぐに理解できなかっただけだった。
「未来の国王陛下が、そんなことを言ってはいけないわ!」
馬鹿なんて言われたことがない。生まれてこの方、叩かれたことだってなかった殿下は、頬を抑えて目を丸くする。
「記憶がないのは、苦しいわ。みんな優しくしてくれるけれど、その目は、記憶の中のレティシアを見ているから」
レティはずっと苦しかった。だから、屋敷から出ることができなかった。自分を愛していたという人たちに会う覚悟はできなかった。
「でも、逃げない。もう一度、一から頑張るの」
けれど記憶を失う前の自分を知るたびに、そんな気持ちは薄れていった。たとえ記憶が消えたとしても、皆と積み重ねてきた関係は消えない。自分は空白でも、彼らには思い出が残っている。
「だって、私が逃げたら、残された今まで優しくしてくれた人たちはどうなるの?」
レティがなぜ記憶を失ったのか、どうすれば記憶が戻るのか。レティの無事が伝えられ、面会が不可能だったその間、親衛隊員や国の主要人物たちはずっと調べていた。
レティが大好きで、記憶のないレティの苦しみを察した優秀な彼らは、結論を出した。
「私はレティシア・オベール。記憶はないけれど、貴方の婚約者で、未来の王妃」
かつらが脱げて、風に飛ばされる。
レティは仁王立ちで宣言した。
「何度記憶をなくそうとも、私は国母の道を選ぶわ」




