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53/60

53. 君がいない世界



「私に、婚約者様が?」


 帰ってきてから三日間、レティはずっと家の中にいた。部屋の窓際の椅子に座り、ぼぅっとしていて、心配したヤミーが庭に連れ出したりしていた。でもそんな庭でも、シルを撫でるか庭を眺めるか。模擬戦をしたり何かを破壊したりしないレティを、家族は不思議に思っていた。

 母と次兄は、レティが奇跡を起こしたのだと考察した。殿下は一度死んで生き返り、その代償としてレティは記憶を失ったのではないかと。

 事実、聖典の記述では神域と人の世の時間の流れは違うとされていた。


「……会って、みる?」

「その人は、私に記憶がなくても大丈夫なの?」

「わからないわ。でも、あなたがいなくなって一番酷く憔悴していた人よ」


 侯爵令嬢だった自分の婚約者が、王太子殿下だと聞いた時、レティの体がぴくりと反応した。今すぐ逢いたいような、顔を背けたいような。相反する想いがあった。


「会ってみるわ」


 短い時間で会うこと。隣室にいるから、何かあったらすぐ呼ぶこと。レティは応接間の大きな窓から、外を見る。風に吹かれて、庭の花々が美しく散っていた。

 三回のノックと共に、ガチャリとドアが開く。


「レティ?」


 そこにいたのは、艶のない黒髪に、濁った紫色の瞳の、深い隈のある男だった。王太子とはとても思えない。それでも、その所作は高貴なる人だった。

 その人は一歩、また一歩と近づいてくる。まるで足元の危うい場所かのように。確かめて。そうして、レティの頬に触れた。


「これは、また夢かい?」


 吐息を溢すように、掠れた声で囁く。


「あ、あの」


 その手の冷たさに、レティは驚いた。ガサガサで、細くて、大きな手だった。


「はは、もう勘弁してくれ。これで五十三回目だろ」


 殿下はずっと夢を見ていた。いつものように明るく、突然帰ってくる夢。静かにそっといつの間にか側に帰ってくる夢。自分の元へ走ってきてくれる夢。何度も何度も、狂ったように見ていた。

 

「その」

「うんざりなんだ。目が醒めて、絶望するのは」


 たとえ寝なくても、朝はやってくる。フッと意識を失ってしまえば、また夢を見る。でも夢は、いつか醒めてしまう。何度も死のうと思った。その度に、夢のレティは帰ってきた。期待と絶望の狭間で、殿下の精神は擦り切れた。


「殿下!」


 レティの口からするりと、その呼び方が出る。

 人は声から忘れるという。たった二ヶ月。それでも、夢では既に失われた色だった。


「……もう一度」


 ずっと聞いていたい音に、すがりつく。


「殿下?」


 レティは首を傾げながらも、言われた通りにもう一度呼ぶ。


「もういっかい」


 頬に添えられた手が、震えている。


「殿下」


 口元に触れる。おそらく、何度も呼んだのだと、レティはなんとなく理解していた。


「君、なのかい。レティ」

「わ、私は記憶がありませんの。でも、生身でここにいるレティシア・オベールですわ」


 貴方が恋焦がれているレティではないかもしれない。でも、きっとこの器は、そうなのだと思う。そんな答えだった。


「それでもいい。……ねぇ、レティシア。僕は、君がいない世界なんかに生きる意味はないんだよ」


 ずるずると崩れ落ちて、縋り付いて。殿下は、生まれて初めて泣いた。春の窓辺の陽だまりの中で、年幼い子供のように。レティはただ黙って、その後ろ髪を撫でていた。


「君だけが、僕の世界で色付いている」


 自分の婚約者。つまり恋人。未来の旦那様。

 そのはずなのになんだかしっくり来なくて、レティはただ撫でることしかできなかった。膝をついていては痛いだろうからとソファに移動すれば、殿下は膝の上で眠ってしまった。



「……恋って、何かしら」


 物音ひとつ立たなくなったのを心配して、母が隣室からやってくる。ひとりごとは、母に拾われてしまった。


「何事もないようでよかったわ……」


 母は安堵の息を吐く。殿下の憔悴具合では、もうどこにもいけなくしてしまおうとしても、おかしくはなかった。

 無事を確認したところで、内緒だとでもいうように口の前に指を置いて、お茶目に微笑む。


「明日にでも、昔話をしましょう」


 侯爵令息の英雄と貧乏な子爵令嬢の聖女が結婚するまでに、結婚してからも。恋がずっと側にいた。

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