51. レティと殿下
『等価交換……?』
『ああ。ラエティティア、あの天秤が見えるかい?』
神が指したところを凝視する。それは次第に形が見え始め、しばらくすると神と同等の大きさの秤が鎮座していた。
『クローヴィスの死は……おそらくこのくらいだね』
神が何か透明なものを乗せ、秤は大きく傾いた。ガシャン、と少し遅れて音がする。
『この天秤が釣り合うものを差し出しなさい』
神は静かにそう告げた。
『っ私の命…………はダメだわ。私は、殿下と一緒に生きてゆくのだもの』
何も考えずに出てきた言葉に、殿下の瞳を思い出す。レティはあの時、誰かのためなら命なんて惜しくないという気持ちの理不尽さを知ったのだ。そんなの、残された側の気持ちを知らないから言えるのだと。
『君にとって一番大事なものはなんだい、ラエティティア』
レティは目を閉じて考える。
『……私の、記憶を捧げるわ』
生きて戻って、生き返った殿下を罵って、そうして謝るのだと、レティは決めていた。
*
レティシアが許嫁の存在を知ったのは、五歳のときだった。
生まれた時から国母になると決められていて、そのための勉強もさせられてきた。だが、国母と王妃が同じなのだと、あまりよくわかっていなかった。レティは頭が可哀想だった。
けれど童話を読んでいた時、レティは気づいた。国母とは王妃であり、王妃とは王の妻なのだと。
『私は、だんなさまが決まっているの?』
父と母は答えに迷った。気づいていないのならば、このまま成長するのを待とうと思っていた。だが、叶わない恋をするよりはいいだろうと、素直に教えることにした。
『けーしょーけんが第一位の王子様……ふぅん』
レティは驚きも怒りもせず、納得した様子だった。その姿に、父の方が驚く。
『レィちゃん!? なんだかテンション低くない!? パパは嫌だよ寂しいよ嫁になんて出したくないんだよ!?』
『だっておとう様、私はきぞくですのよ?』
随分と肝の据わった五歳だった。誰よりも子供らしく、無垢で無邪気な女の子だったが、同時に上に立つ器を持った生粋の貴族だった。
『でも、あったことないわ』
『そりゃ会わせてないからね』
『どうして?』
『パパが気に食わないからだよ』
いくら王命とはいえ、十三も年の離れた第一王子に五歳の娘を会わせるなんて断固拒否だった。せめて娘が学園の中等部を卒業するまでは、と圧力をかけたほどだった。
『初めましてレティシア嬢』
しかし、ある日を境に勢力図がガラリと変わる。レティと同い年の第三王子が、他の兄を蹴落として継承権が第一位となったのだ。手に負えんと言わんばかりに王命で呼び出され、レティは殿下と再会する。
『……また会えた』
『この間のノアール様!』
『ううん。僕の本当の名前は、クロヴィスって言うんだ。だからクロヴィ……』
『っ殿下と、また遊べますの!?』
レティは嬉しかった。あの時、虚ろだった瞳が徐々に輝いていったことが忘れられなかった。張り付いた笑みが、あどけない顔に変わる瞬間が好きだった。
殿下は少しずつ、人間らしくなっていった。
頻繁にレティに会いにきて、たわいもない話をし帰って、すぐにまた会いにくる。言葉を交わすたびに、瞳が色づいていく。その姿が、なんだか可愛らしかった。
『……全部、全部レティのせいだ』
先々王の葬儀の時、殿下が突然蹲ったことがあった。結局何事もなかったが、殿下の雰囲気が変わったことを、レティは覚えている。
『僕は君をとても愛しているよ』
伝えたくてたまらないのだと言わんばかりの顔で、殿下はレティに愛を囁いた。
『レティ、手を繋ごう』
殿下は、レティの前でだけ、完璧王子の仮面を外していた。
『レティ。いいんだよ、レティ』
大事にしたいのだと、その手が、ぬくもりが、訴えていた。誰よりも、レティの感情を拾おうとした。
……何よりも大切な思い出が、はらはらと消えてゆく。神でさえ把握しきれないほどの膨大な記録は、殿下の死と釣り合うに値した。
*
爽やかな春風に吹かれて目が覚める。目の前で蝶々がひらひらと舞っている。起きて、伸びをして、辺りを見回す。
レティは広い平原で、一人立っていた。
「?」
────レティは、自分が何者なのかもわからなかった。




