49. 予想もできなかった
村へ向かう馬車の中で、殿下はレティの隣に座る。肩にもたれながら、頬をくすぐった。
「レティ、怒ろう。怒るのは自分を大事にしている証拠だよ」
思えば、レティが怒るのは他人のためや罪についてばかりだった。罪を憎んで人を憎まず、そんな主義だった。
「へ? 私怒っていましたわよ?」
「違うよ。王妃に侮辱されていただろう?」
レティは首を傾げる。その姿を見て、殿下は手で顔を覆った。あそこまで言われても、まだ通じないらしい。
「変なことを仰るとは思っていたけれど、私も侮辱されていましたの? 国民ではなく?」
「……本当に気づいていなかったのかい?」
「ええ、まったく。それは……後でまたガツンと言ってやらなければなりませんわ。侮辱は良くないもの!」
レティはブンブンと拳を振る。教えてもこれだった。殿下は深いため息を吐く。レティは「幸せが逃げますわよ」と言うが、誰のせいでという話だ。
そもそも、レティは警戒心が薄い。自分の危険というものに鈍い。それは圧倒的強者の宿命であり、また弱点でもあった。
「……どうか、自分を大切にしてほしい」
「大切にしてますわよ?」
残酷なまでに無自覚だった。
きっとレティは、自分が死ねば世界が救われるとしたら迷いなく捨ててしまう。殿下はレティが死ぬくらいなら、そんな世界は滅ぼしてしまうのに。
何度もぶつかって、何度も伝えてきた分、やるせなかった。それでも、諦めきれなかった。
「レティ」
無理なお願いだとはわかっていた。それでも、言うことを聞いて欲しかった。
殿下はレティに顔を近づける。
「ごめん」
そうしてそのまま、無防備な唇を奪った。
殿下は一方的に愛していても、口に接吻を落としたことは一度もなかった。まだこちらに堕ちていないのに穢したくなかった。
「ん? んぅ? んん??」
「足りない。全然、足りないんだ」
何度も重ねて、抱きしめて。伝わらない愛を、伝えたくて。レティは戸惑う。殿下はもういっそ、ずっと戸惑っていて欲しいと思っていた。
「お着きしました」
どれほどの時間が経ったのだろう。
その声で、殿下はやっとレティを解放した。レティは顔を真っ赤に染めて、口をキュッと結んでいた。
「本当に、寄っていくかい?」
「………………寄っていくわ」
おちょぼ口で拗ねたようにそう言う。殿下でも見たことのない顔だ。殿下の口角が上がる。
それでも、馬車から降りればいつものレティだ。
「遠くからだよ」
「ええ」
なだらかな丘の上で、困窮した村を見ていた。
「……もし民がこんな風になった時に、どうすればいいかわからなかったの」
そんなことはさせない。だが、今後何があるかはわからない。
『……ねぇ、痩せ細った民に、足を掴まれたことはある?』
誰を叱ればいいのか、誰を救えばいいのか、レティにはわからなかった。
男の子が、ふらふらとやってきていた。物乞いか、それとも腹を空かせて幻覚を見ているのか。レティは心配そうに男の子を見る。もう触れそうなくらい近くにきて初めて、殿下は男の子の目に生気が宿っていることに気づいた。
────思えば皆、油断していたのだ。
貧相な村で、女子供に老人ばかり。最高戦力とも言えるレティの隣に天才な殿下がいて。彼らを脅かすものなど、何もないと思っていた。
レティは押された衝撃と共に地面に倒れる。
「……で、殿下?」
男の子は呆然とし、殿下は苦痛と共に崩れ落ちる。
カラン、と血のついたナイフが足元に落ちた。殿下の白いシャツが真っ赤に染まってゆく。
「レティ、無事かぃ?」
苦しそうだった殿下が、フッと笑う。レティを見つめるその瞳から、光が消えてゆく。
「い……嫌。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ」
レティは叫んだ。何が起きたのかわからなかった。それでも、愛しい人が、自分を庇って死にゆくのだと、本能で理解していた。
いくら強くとも、殿下も人なのだ。腹を刺されれば、人は死ぬ。
「っ死なせない、絶対に、死なせない」
無傷なはずなのに、胸が激しく痛む。
レティは、殿下を許せなかった。




