48. 正義の裏
レティが拳を強く握る。一発触発なところだった。
「……ねぇ、痩せ細った民に、足を掴まれたことはある?」
表情を変えぬまま、王妃が呟く。
「私はあるわ」
控えめで儚い雰囲気は崩れ落ち、残るのは信念に動かされる修羅のみ。殿下は、その姿に既視感を覚えた。
「他国の民を狙って自国の民が助けられるなら、安いものでしょう」
王妃は頭がよかった。自分の策略の失敗を認め、覚悟を決めた。例え死が早まるとしても、凛とここに在る。
「ソフィア、まさか君が……」
「良い心で国を救うことなどできないのですよ、陛下」
人差し指で陛下の額を突き、彼女は席を立つ。そうしてレティの頬を顎を持ち、グッと顔を引き寄せて覗き込んだ。
「上に立つものは、悪を覚えなければならない。だって、横にいるのは、悪ばかりなのだから」
殿下の手が魔力を帯びたのを、レティは目線一つで静止する。王妃は鼻で笑った。
「でも覚えておいて。正義の裏は悪じゃない。また違った正義なのよ?」
他人の国の民を危険に晒したことが、悪でないという。なら、傷ついた民はどうすればいいと言うのか。レティには理解ができなかった。
だが、化けの皮を剥いで語っている時点で、一つだけわかっていた。
「……死にたいの?」
「責任を取る覚悟があるだけよ」
興が醒めたとでもいうように、王妃はパッとレティを離す。ポカンと馬鹿面のレティを見てくすくす笑う姿は幼子のようであり、また老練な魔女のようでもあった。
「レティシア様は恵まれている。けれど凡人は、大多数を助けるためには少数を見捨てなければならない」
恵まれていることは知っている。その恵まれた力を持っているが故に、レティは誰も見捨てないのだ。
だからといって、刺客や他国の人間を切り捨てていいはずもない。
「その博愛精神で、どれだけの人を取りこぼしてきたのかしら?」
レティは博愛精神なんて難しい言葉はわからない。だが、取りこぼしてきたことに、自覚がないわけではなかった。
「魔物災害の報告も受けたわ。随分と派手にやってくれて……もし重症者を見捨て、軽傷者の避難に徹していたなら、どれだけの人が怪我をせずに済んだでしょうね」
重症者にだって、助かってほしいと願う家族がいる。助けられる可能性があるのならば、見捨てる理由にはならない。レティはそう言いたかった。
「レティシア様も、陛下も、甘すぎるのよ」
王妃は冷めた瞳で見下ろした。ふいと視線をずらし、殿下と目を合わせる。
貴方がいるから、レティシア様は甘くいられるのでしょう。私の陛下のように。早く、正義も何もない私情の刃を振り下ろしなさいよ。
殿下には、そう伝わった。元よりそのつもりだと動こうとする殿下に、レティは首を横に振る。
「……殿下」
「レティ」
「殿下なら、お分かりなのでしょう。彼らを殺さず、弱みを握ったままの方がいいのだと」
怒りに身を任せないのならば、レティの言う通りだった。併合は簡単にできない。言葉も生活も違う二国間をまとめ上げ、新体制を作り上げるのは至難の業だ。力を獲すぎれば、周辺諸国との間も悪くなる。
殿下はそれをやってのけるつもりだった。レティを傷つける者を消し去らなければ、自分しか入れない部屋に閉じ込めてしまいそうだった。しかし、深く愛しているからこそ、そんなものはレティの幸福ではないことを理解していたから。
「言ってる側から……」
「私は甘くなんてないわ。カピティアの民に追い討ちをかけても、セリタスの民がカピティアに傷つけられるだけよ。自国の民を助けることの、何がいけないの?」
途方もなく長い間、仲介料や関税をもぎ取り、彼らの国力を徐々に奪っていった方が、よほど楽で安全な作戦だった。断頭台へは、いつでも送れる。
「ゆめゆめ、お忘れなきように」
公式では会談は穏やかに終わり、非公式で今回の一連の事件に関する署名がなされた。
レティは少し疲れているようで、あまりはしゃがなかった。何事もなく舞踏会に参加し、何事もなく帰りの馬車に乗った。こんなレティは初めてだった。
「……ねぇ殿下、帰りに村に寄り道してもいいかしら?」
だから殿下は、いいよとしか言えなかった。




