第8話 雨音と来訪者たちと、鈍感モノローグ
シトシト、ザー……。
窓の外では、朝から降り続く雨が、梅雨の訪れを告げていた。
旧校舎の廊下を叩く雨音が、やけに大きく響く。
湿気を含んだ空気が、部室の中にもじっとりと漂っていた。
こんな天気だと、気分も少し滅入ってくる。
俺、水澄 透は、いつものようにパイプ椅子に座り、文庫本に目を落としていた。
外は雨だし、今日の放課後は誰も来ないだろう。
静かに読書に集中できる。
そう思っていた。
コンコン……。
控えめなノックの音がして、少しだけ引き戸が開いた。
隙間から、濡れた傘を持った小柄な影が覗く。
「あ……先輩。こんにちは……」
現れたのは、後輩の朝霧 陽奈だった。
制服の肩が、少し雨に濡れている。
「やあ、朝霧さん。雨の中、よく来たな」
俺が声をかけると、陽奈ははにかむように笑って、おずおずと部室に入ってきた。
「えへへ……。ちょっと、寄りたくて……」
彼女はそう言うと、持っていた小さな紙袋を俺の前に差し出した。
「あの、これ……よかったら。クッキー、焼いてみたんです。ちょっと、形が、いびつになっちゃったんですけど……」
紙袋の中には、手作りらしきクッキーが数枚入っている。
確かに、形は少し不揃いだが、丁寧にラッピングされていた。
「おお、すごいな! わざわざありがとう」
俺が受け取ると、陽奈は嬉しそうに顔を綻ばせた。
最初の頃の怯えたような様子は、もうほとんど見られない。
この相談部が、彼女にとって少しは安心できる場所になっているのなら、嬉しいことだ。
「先輩、いつも、話聞いてくれるから……その、お礼、です」
「いやいや、礼なんていいのに。でも、ありがたくいただくよ」
俺がクッキーの袋を開けようとした、その時。
ガラ……。
今度は、ノックもなく、静かに引き戸が開いた。
そこに立っていたのは、月見里 栞だった。
彼女も、手に折り畳み傘を持っている。
長い黒髪が、湿気で少しだけウェーブがかっているように見えた。
「……こんにちは」
栞は、俺と、そして陽奈を一瞥して、静かに挨拶した。
その表情は、いつも通り読み取りにくい。
「月見里さん、こんにちは。雨、大丈夫だったか?」
「……平気」
栞は短く答えると、部室に入ってきた。
そして、陽奈の存在に気づいたのか、ほんの一瞬だけ、動きを止めたように見えた。
「……朝霧さん、も来てたのね」
「あ……はい。月見里、先輩……こんにちは」
陽奈は、少し緊張した面持ちで栞に挨拶した。
栞は、こくりと小さく頷くだけで、それ以上は何も言わない。
二人の間には、どこかぎこちない空気が流れている。
接点がないから、当然といえば当然なのだが。
栞は、自分の定位置になりつつある、少し離れたパイプ椅子に腰を下ろすと、鞄の中から一冊の本を取り出した。
……ではなく、小さなタッパーウェアのような容器だった。
「……これ」
栞は、無言でその容器を俺の前に差し出した。
「ん? これは?」
俺が尋ねると、栞は少し視線を逸らしながら、小さな声で答えた。
「……フルーツサンド。……作りすぎたから、よかったら」
容器の中には、綺麗にカットされたフルーツサンドが二切れ入っていた。
生クリームと、色とりどりのフルーツ。
見た目も美しい。
まさか、栞がこんなものを作るとは。
少し意外だった。
「え、いいのか? ありがとう。すごく美味しそうだ」
俺が受け取ると、栞はふいと顔を背けた。
その耳が、また少し赤くなっているように見える。
「……別に。……押し花の栞、まだ持ってるでしょう?」
「あ……ああ、うん。返すタイミングがなくて……」
「……それの、お礼」
彼女は、ぼそりと言った。
なるほど、そういうことか。
律儀なところもあるんだな。
手作りクッキーに、手作りフルーツサンド。
なんだか、今日はやけに差し入れが多いな。
そう思っていると。
バタン!!
三度、教室のドアが開いた。
今度は、これまでで一番乱暴な開け方だ。
そこに立っていたのは、案の定、姫宮 玲奈先輩だった。
肩で息を切らし、少し不機嫌そうな顔をしている。
高級そうなブランドの傘が、床に雨水を滴らせていた。
「もう……! なんなのよ、この天気は! せっかくセットした髪が台無しじゃない!」
玲奈先輩は、文句を言いながら部室に入ってきた。
そして、中にいる陽奈と栞の姿を認めると、ピタリと動きを止めた。
「……あら? あなたたちもいたの?」
その声には、驚きと、わずかな不快感のようなものが混じっているように聞こえた。
「あ……姫宮、先輩……こんにちは」
陽奈が、恐縮したように挨拶する。
栞は、黙って玲奈先輩を一瞥しただけだ。
「ふん……。随分と、賑やかになったものね、このボロ部室も」
玲奈先輩は、わざとらしくため息をつくと、俺の前の席に、当然のように腰を下ろした。
これで、俺を含めて四人。
この狭い部室には、少し人口密度が高すぎる気がする。
「……で? あなたたちは、こんな雨の中、わざわざ何の用かしら?」
玲奈先輩は、陽奈と栞に、尋問するような口調で尋ねた。
「あ、あの……私は、ちょっと、先輩に用があって……」
陽奈が、しどろもどろに答える。
「……別に。……ただ、来ただけ」
栞は、相変わらず淡々とした口調だ。
「ふぅん……」
玲奈先輩は、二人を値踏みするように眺めた後、ふと、机の上に置かれたクッキーとフルーツサンドに気づいた。
「……何かしら、これ?」
「あ、これは、朝霧さんと月見里さんからの差し入れで……」
俺が説明すると、玲奈先輩は、眉をひそめた。
「……手作り? まあ、ご苦労なことね」
鼻で笑うような言い方だが、その視線は、どこか羨ましそうにも見える……というのは、考えすぎか?
「……そうだわ」
玲奈先輩は、ポンと手を叩いた。
「私も、ちょうどいいものを持ってきたところよ」
そう言って、彼女は自分の鞄から、有名デパートのロゴが入った、いかにも高級そうな紙袋を取り出した。
「ほら、水澄くん。あなたにあげるわ。……別に、あなたのために買ってきたわけじゃないけど、たまたま、多く買いすぎただけだから、勘違いしないでよね!」
またしても、テンプレのようなツンデレ台詞と共に、紙袋が俺の前に置かれた。
中には、個包装されたマカロンがぎっしりと詰まっている。
色とりどりで、見るからに高級そうだ。
「はあ……ありがとうございます、先輩」
これで、差し入れが三種類。
手作りクッキー、手作りフルーツサンド、高級マカロン。
なんだか、すごいことになってきた。
机の上が、ちょっとしたパーティー会場のようだ。
俺の左右には、陽奈と栞。
正面には、玲奈先輩。
三人の女子生徒が、それぞれの理由で、この雨の日の放課後、お悩み相談部に集まっている。
しかも、全員が差し入れ持参。
……まあ、お悩み相談部なんだから、相談者が集まるのは当たり前か。
差し入れが多いのも、たまたま今日が重なっただけだろう。
うん、きっとそうだ。
俺は、一人、妙な納得の仕方をした。
鈍感?
いやいや、事実を客観的に捉えているだけだ。
しかし、俺のそんな呑気な思考とは裏腹に、部室の中には、どこかピリピリとした空気が漂い始めていた。
陽奈は、玲奈先輩の高級マカロンと、自分の手作りクッキーを見比べて、少ししょんぼりしている。
栞は、表情を変えずに本を読んでいるように見えるが、その視線は時折、俺と玲奈先輩の間を行き来しているようだ。
そして玲奈先輩は、女王様のようにふんぞり返りながらも、陽奈と栞の存在を明らかに意識して、牽制するような視線を送っている。
……なんだろう、この空気。
気のせいか?
いや、気のせいにしておこう。
面倒なことには、関わらないに限る。
俺は、とりあえず、目の前にある三種類の差し入れをどうするか、という現実的な問題に意識を向けることにした。
雨音だけが、やけに大きく聞こえる。
梅雨時の、奇妙な午後は、まだ始まったばかりだった。