第7話 不器用な報告と、女王様の鎧
「はい、どうぞ。二杯目です」
俺は、新しく淹れた安っぽい緑茶を、姫宮 玲奈先輩の前に置いた。
彼女は、ふんと鼻を鳴らしてそれを受け取ると、またしても眉間に皺を寄せながら、ちびちびと飲み始めた。
本当にまずいと思っているのか、それとも、ただそういうポーズを取っているだけなのか。
判別が難しい。
部室には、気まずいような、それでいて妙な緊張感が漂っている。
窓の外からは、運動部の掛け声や、吹奏楽部の練習する音が微かに聞こえてくる。
旧校舎のこの一室だけが、別世界のようだ。
「……それで、先輩。見学はもう、よろしいんですか?」
俺は、沈黙を破るように尋ねてみた。
彼女がここに来た目的は、見学のはずだ(と本人は言っている)。
「……別に、急いで帰る理由もないし」
玲奈先輩は、そっけなく答えた。
視線は窓の外に向けられたままだ。
その横顔からは、感情を読み取ることは難しい。
「そうですか……」
手持ち無沙汰になった俺は、机の上の文庫本に手を伸ばしかけた。
しかし、ここで読書を始めるのは、さすがに失礼だろうか。
相手は、一応先輩であり、もしかしたら悩みを抱えている(かもしれない)のだから。
「……あなた、暇なのね」
不意に、玲奈先輩が言った。
俺の動きを見ていたらしい。
「え? まあ、放課後は特に予定もないので……」
「ふぅん……。部活とか、していないの?」
「はい。これ(お悩み相談部)が、一応……」
俺が答えると、玲奈先輩は、信じられない、というような表情で俺を見た。
「……あなたみたいなのが、部長ねぇ……。世も末だわ」
相変わらず、失礼な物言いだ。
俺は苦笑いを浮かべるしかない。
「……先輩は、何か部活を?」
俺は尋ね返してみた。
彼女ほどの完璧超人なら、何か華々しい部活で活躍していてもおかしくない。
「……別に、あなたに関係ないでしょう?」
玲奈先輩は、ぴしゃりと言い放った。
壁を作るような、冷たい態度。
だが、その反応は、どこか不自然な気もした。
もしかしたら、彼女は部活に入っていないのかもしれない。
あるいは、何か、言いたくない理由があるのか。
「……失礼しました」
俺は素直に謝った。
これ以上、彼女のプライベートに踏み込むのはやめておこう。
再び、沈黙が訪れる。
玲奈先輩は、二杯目のお茶をゆっくりと飲み干すと、空になった紙コップを机の上に置いた。
そして、ふぅ、と小さなため息をついた。
それは、いつもの尊大な態度とは少し違う、素のため息のように聞こえた。
「……ねえ、水澄くん」
不意に、彼女は俺の名前を呼んだ。
さっきまでの「あなた」呼びから、少し変化している。
「は、はい」
俺は、少し緊張して返事をした。
「……もし……仮に、よ? 仮に、だけど……」
玲奈先輩は、妙に勿体ぶった口調で話し始めた。
視線は、机の上の一点をじっと見つめている。
「……自分の、思い通りにいかないことがあったら……あなたなら、どうする?」
「思い通りにいかないこと、ですか?」
俺は聞き返した。
ずいぶんと、漠然とした質問だ。
「ええ。例えば……そうね……。完璧にこなせると思っていたことが、できなかったり……。周りの期待に応えられなかったり……」
彼女の声は、徐々に熱を帯びていく。
それは、明らかに、彼女自身のことを語っているように聞こえた。
「……そういう時、どうやって……気持ちを切り替えればいいのかしら……?」
最後は、ほとんど問いかけの形になっていた。
その声は、微かに震えているようにも聞こえる。
やはり、彼女は何かを悩んでいるのだ。
完璧主義者の彼女が、何らかの壁にぶつかっているのかもしれない。
「……そうですね……」
俺は、慎重に言葉を選んだ。
「俺だったら……まあ、まず、落ち込みますけど……」
「……そうでしょうね。あなたみたいなのは」
すかさず、玲奈先輩のツッコミが入る。
相変わらずだ。
「……でも、落ち込んだ後は……どうして上手くいかなかったのか、原因を考えてみる、とか……ですかね。あとは、誰かに相談してみるとか……」
俺は、当たり障りのない答えを返した。
「……相談……」
玲奈先輩は、その言葉を繰り返した。
そして、ふん、と鼻を鳴らす。
「……くだらないわ。そんなこと、何の解決にもならないじゃない」
強がり、だろうか。
それとも、本心からそう思っているのか。
「そうでしょうか。人に話すことで、自分の考えが整理されたり、違う視点が見えてきたりすることもあると思いますけど」
「……綺麗事ばかりね、あなたは」
玲奈先輩は、吐き捨てるように言った。
だが、その表情は、どこか揺れているように見えた。
彼女の強固な鎧が、少しだけ、軋んでいるのかもしれない。
「……例えば」
俺は、さらに言葉を続けた。
「何か、失敗してしまったとして……それを、正直に話すだけでも、少しは気持ちが楽になるんじゃないでしょうか。隠している方が、ずっと苦しいと思います」
俺の言葉に、玲奈先輩は、はっとしたように顔を上げた。
その瞳が、大きく見開かれている。
何か、図星を突かれたような反応だった。
「……な、何を……偉そうに……」
彼女は、どもりながら反論しようとしたが、言葉が続かない。
その顔は、みるみるうちに赤くなっていく。
俺は、確信した。
彼女は、何か失敗を隠しているのだ。
そして、そのことを誰にも言えずに、一人で抱え込んでいる。
それが、彼女の悩みの核心なのではないだろうか。
「……もしかして、先輩。何か、やっちゃいました?」
俺は、少し意地悪く、核心を突いてみた。
「なっ……! べ、別に、何も……! わ、私が、失敗なんてするわけないでしょう!?」
玲奈先輩は、激しく動揺しながら否定した。
だが、その慌てぶりは、逆に肯定しているようなものだ。
「そうですか? なら、いいんですけど……」
俺は、肩を竦めてみせた。
これ以上、無理に聞き出すのはやめておこう。
彼女のプライドを、これ以上傷つける必要はない。
玲奈先輩は、ぜえぜえと肩で息をしながら、俺を睨みつけている。
その瞳には、怒りと、羞恥と、そして、ほんの少しの……助けを求めるような色が混じっているように見えた。
「……もう、帰るわ!」
彼女は、吐き捨てるように言うと、勢いよく椅子から立ち上がった。
そして、逃げるように部室の出口へと向かう。
「あ、先輩」
俺は、呼び止めた。
「な、なによ!?」
玲奈先輩は、振り返りざまに、警戒心を露わにして俺を睨む。
「……お茶、ごちそうさまでした、くらい言ってもいいんじゃないですか?」
俺は、わざと笑顔で言ってみた。
「なっ……! あ、あんなまずいお茶……!」
玲奈先輩は、顔を真っ赤にして何か言い返そうとしたが、結局、何も言えずに、バタン! と乱暴にドアを閉めて出て行ってしまった。
廊下を、ハイヒール(校則違反では?)の音が、カツカツと遠ざかっていく。
「……嵐のような人だな」
俺は、一人残された部室で、苦笑いしながら呟いた。
結局、彼女の悩みの具体的な内容は分からなかった。
だが、何か、彼女の中で変化のきっかけくらいは作れたのかもしれない。
そうだといいのだが。
数日後。
俺がいつものように部室で本を読んでいると、またしても、勢いよくドアが開いた。
現れたのは、もちろん、姫宮 玲奈先輩だ。
今日の彼女は、いつもよりもさらに不機嫌そうな顔をしている。
「……水澄くん」
低い声で、彼女は俺を呼んだ。
「はい、なんでしょうか?」
「……これ」
玲奈先輩は、無言で、小さな紙袋を俺の前の机に置いた。
中には、何かの焼き菓子のようなものが入っているように見える。
「……なんですか、これ?」
「……べ、別に、あなたのために買ってきたわけじゃないんだからね! たまたま、通りかかったお店で、美味しそうだったから……! その……お茶のお礼、じゃないんだから!」
早口で、まくし立てるように彼女は言った。
顔は、そっぽを向いているが、耳まで真っ赤になっている。
……分かりやすいツンデレだ。
「はあ……ありがとうございます」
俺は、とりあえず礼を言っておいた。
「……それで? 何か御用ですか?」
「……別に」
玲奈先輩は、またそっけなく答えると、いつもの指定席(?)である向かいの椅子に腰を下ろした。
「……ただ……報告、しておこうと思って」
「報告?」
「……この間の……あれよ」
彼女は、もごもごと口ごもる。
「……バイト先で……ちょっと、ミスしちゃったんだけど……」
小さな声で、彼女は白状した。
やはり、俺の推測は当たっていたらしい。
完璧超人の彼女も、バイトでミスをするのか。
少し、親近感が湧く。
「……で、どうしたんですか?」
「……ちゃんと……報告、したわよ……。店長に」
玲奈先輩は、俯きながら、ぽつりと言った。
「……そしたら……怒られるかと思ったけど……『正直に言ってくれてありがとう』って……。まあ、当然よね! この私が、正直に報告してあげたんだから!」
後半は、いつもの尊大な口調に戻っていたが、その声には、どこか安堵の色が滲んでいるように聞こえた。
彼女なりに、勇気を出して行動したのだろう。
そして、それが良い結果に繋がった。
これもまた、彼女の「小さな成長」と言えるのかもしれない。
「……そうですか。それは、よかったですね」
俺が言うと、玲奈先輩は、ふん、と鼻を鳴らした。
「……別に、あなたのおかげじゃないんだからね! 勘違いしないでよね!」
そう言いながらも、その表情は、心なしか晴れやかに見えた。
彼女の纏っていた重い鎧が、少しだけ、軽くなったのかもしれない。
この調子で、少しずつ素直になっていってくれればいいのだが。
まあ、一筋縄ではいかないだろうな。
俺は、目の前の女王様の不器用な成長を、もう少し見守ってみることにした。
もちろん、適度な距離を保ちながら。