第6話 女王様の来訪と、不機嫌なティータイム
季節は初夏を迎え、日差しは日増しに強くなっていた。
窓を開けていても、旧校舎の三階にあるこの部室には、むわりとした熱気が籠るようになってきた。
そろそろ梅雨入りも近いのかもしれない。
そんな湿気を含んだ空気が漂う放課後。
俺は、相変わらずパイプ椅子に座って文庫本を開いていた。
最近、この『お悩み相談部』には、ぽつりぽつりと来訪者がある。
最初の相談者だった後輩の陽奈は、まだ少しぎこちないながらも、時折顔を見せては、他愛ない話をしていくようになった。
挨拶も、以前よりはスムーズにできるようになったらしい。
同級生の栞も、週に一度くらいのペースで現れては、静かに本を読んで過ごしていく。
彼女が借りていたファンタジー小説は、まだ読み終えていないのか、あるいは、やはり物語に入り込めていないのか。
そのあたりは、まだよく分からない。
押し花の栞も、いまだ返せずにいる。
まあ、二人とも、以前よりは少しだけ表情が和らいだような気もするし、この場所が多少なりとも彼女たちの心の拠り所になっているのなら、それはそれでいいのかもしれない。
……などと、少しだけ部長らしいことを考えていた、その時だった。
バァン!
とんでもない勢いで、教室の引き戸が開け放たれた。
まるで、道場の門破りでも現れたかのような乱暴さだ。
驚いて顔を上げると、入口には仁王立ちする女子生徒の姿があった。
ウェーブのかかった華やかな茶髪に、ぱっちりとした大きな瞳。
気の強そうな、しかし整った顔立ち。
そして、何より目を引くのは、その抜群のスタイルと、他の生徒とは明らかに違うオーラだ。
彼女は、俺たちの高校の制服を着てはいるが、その着こなしはどこか洗練されていて、まるでモデルか女優のようだった。
確か、三年生のはずだ。
名前は……姫宮 玲奈。
学園内でも有名な、いわゆる『高嶺の花』。
容姿端麗、成績優秀、運動神経も抜群。
おまけに実家は大金持ちだとかいう噂もある。
まさに完璧超人。
そんな彼女が、なぜこんな古びた旧校舎の、しかも『お悩み相談部』なんていう怪しげな場所に?
「……あなたが、ここの責任者かしら?」
玲奈先輩は、部室の中を睥睨するように見回した後、俺に向かって尊大な口調で尋ねた。
その声は、鈴を転がすように美しいが、どこか人を寄せ付けない冷たさがある。
「え……まあ、一応、部長、ですけど……」
俺は、その圧倒的なオーラに気圧されながらも、なんとか答えた。
先輩に対しては、敬語を使うべきだろう。
「ふぅん……。あなたが、水澄 透、ね」
玲奈先輩は、俺の名前を知っているらしい。
まあ、彼女ほどの有名人なら、下級生の名前くらい把握していてもおかしくはないのかもしれない。
「何か……御用でしょうか?」
俺は恐る恐る尋ねた。
まさか、こんな場所が気に食わないから潰しに来た、とかではないだろうな。
「別に、用なんてないわ。ただ……少し、見学に来ただけよ」
玲奈先輩は、ふんと鼻を鳴らして言った。
そして、優雅な足取りで部室の中に入ってくると、俺の座っている長机の向かい側の椅子に、どかりと腰を下ろした。
その仕草一つとっても、そこらの生徒とは格が違う感じがする。
「見学……ですか?」
俺は訝しげに聞き返した。
こんな、見るべきものもないようなボロ教室を?
「ええ、そうよ。最近、妙な噂を耳にしたものだから。旧校舎に、怪しげな部活ができたってね」
玲奈先輩は、挑むような視線で俺を見据える。
「怪しげって……まあ、否定はしませんけど」
俺は苦笑いを浮かべるしかない。
「それで? 一体、ここで何をしているのかしら? 『お悩み相談』なんて、おままごとみたいな看板を掲げて」
彼女の言葉には、明確な侮蔑の色が含まれていた。
どうやら、この相談部の活動を、かなり馬鹿にしているらしい。
「……まあ、文字通り、生徒の悩みを聞いたり……してますけど」
俺は、少しむっとしながらも、正直に答えた。
「悩み、ねぇ……。くだらないわ。悩みなんて、自分で解決すればいいものでしょう? 他人に頼るなんて、弱者のすることよ」
玲奈先輩は、言い切った。
強い、というか、傲慢な物言いだ。
だが、彼女ほどの人間なら、本当にそう思っているのかもしれない。
自分で何でもできてしまうから、他人の弱さや悩みが理解できない、とか。
「……そうかもしれませんけど、誰かに話を聞いてもらうだけで、少し楽になることもあると思いますよ」
俺は、ささやかな反論を試みた。
陽奈や栞の例もある。
「ふん、綺麗事ね」
玲奈先輩は、鼻で笑った。
そして、組んでいた足を組み替え、肘をついて俺の顔をじっと見つめてきた。
その距離の近さに、俺は少しどきりとする。
整った顔立ちが、間近にある。
甘い、高級そうな香水の匂いが、ふわりと漂ってきた。
「……それで? どんなくだらない悩みを抱えた子羊たちが、ここに迷い込んでくるのかしら?」
彼女は、面白がるような口調で尋ねた。
まるで、珍しい動物でも観察するかのような視線だ。
「……それは、プライバシーに関わることなので、言えません」
俺は、きっぱりと断った。
いくら先輩とはいえ、相談者の秘密を漏らすわけにはいかない。
「あら、律儀なのね。つまらない男」
玲奈先輩は、つまらなそうに唇を尖らせた。
その仕草は、少しだけ年相応の女の子らしさを感じさせたが、すぐにいつもの尊大な表情に戻る。
「……まあ、いいわ。別に、他人の悩みなんて興味ないし」
彼女はそう言うと、ふと、机の隅に置いてあった電気ケトルとティーバッグの箱に目を留めた。
「……何かしら、これは? こんな安っぽいお茶、誰が飲むの?」
失礼な言い方だが、まあ、事実だ。
スーパーで買った安物のティーバッグだ。
「……一応、相談に来た人に出したり……俺が飲んだりしてますけど」
俺が答えると、玲奈先輩は、信じられないものを見るような目で俺を見た。
「あなた、こんなものを飲んでいるの? 味覚、大丈夫?」
「……別に、普通に飲めますよ」
「信じられないわ……。まあ、いいわ。喉が渇いたから、私もいただくことにするわ」
「えっ?」
俺は耳を疑った。
安っぽいお茶だと馬鹿にしていたのに、飲むのか?
「な、なによ? 文句あるの? 先輩がお茶を所望しているのよ?」
玲奈先輩は、少し頬を赤らめながら、睨みつけてきた。
なんだか、よく分からない人だ。
ツンデレ、というやつだろうか?
いや、デレ要素は今のところ皆無だが。
「い、いえ、どうぞ……。今、お湯を沸かしますから」
俺は慌てて立ち上がり、電気ケトルに水を入れてスイッチを入れた。
ジー、という音と共に、湯が沸き始める。
その間、玲奈先輩は、ふんぞり返ったまま、窓の外を眺めていた。
その横顔は、やはり綺麗だが、どこか不機嫌そうに見える。
やがて湯が沸き、俺は紙コップにティーバッグを入れてお湯を注いだ。
そして、玲奈先輩の前に、そっと差し出す。
「はい、どうぞ」
玲奈先輩は、ちらりと紙コップを一瞥すると、鼻を鳴らした。
「……仕方ないから、いただいてあげるわ」
そう言って、彼女は紙コップを手に取った。
しかし、すぐに飲むわけではなく、眉間に皺を寄せている。
「……何かしら、この安っぽい香りは……」
文句を言いながらも、彼女はそっとお茶を一口飲んだ。
そして、さらに深く眉間に皺を寄せた。
「……まずい」
はっきりと、そう言った。
「そ、そうですか……すみません」
俺は、とりあえず謝っておいた。
まあ、高級な舌を持つ彼女には、この安茶は合わないのだろう。
「……でもまあ、飲めないこともないわね。……もう一杯、もらえるかしら?」
「ええっ!?」
俺は、今度こそ素で驚きの声を上げてしまった。
まずいと言ったばかりなのに、おかわりを要求するのか?
この先輩、本当に意味が分からない。
「な、なによ? 何か問題でもあるの?」
玲奈先輩は、また顔を赤らめて俺を睨む。
その瞳は、少し潤んでいるようにも見える。
もしかして、彼女は……。
俺は、一つの可能性に行き当たった。
この先輩、もしかして、何か悩みがあってここに来たのではないだろうか?
でも、そのプライドの高さから、素直に「相談がある」とは言えずに、見学だとか、お茶が飲みたいだとか、回りくどい言い方をしているのでは?
そうだとしたら、この尊大な態度も、不機嫌そうな表情も、全ては彼女なりの照れ隠し、あるいは弱さを隠すための鎧なのかもしれない。
そう考えると、目の前の完璧超人に見える先輩が、少しだけ、人間らしく思えてきた。
「いえ、問題ないです。すぐ淹れますね」
俺は、内心の推測を顔に出さないように努めながら、新しい紙コップを用意した。
彼女が何を悩んでいるのかは、まだ分からない。
そして、それを聞き出すのは、かなり骨が折れそうだ。
でも、もし本当に助けを求めているのなら、無下にするわけにはいかないだろう。
俺が新しいお茶を淹れる間、玲奈先輩は、黙って窓の外を眺めていた。
その横顔に、ふと、寂しさのようなものがよぎったように見えたのは、気のせいだろうか。
この高慢な女王様が抱える悩みとは、一体何なのだろうか。
俺の、新たな、そしておそらく最も厄介な相談相手との関係は、こうして始まったのだった。