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第5話 図書室の微光と、小さな問いかけ

 月見里 栞が相談部を訪れた翌日の放課後。

 俺は一人、旧校舎の部室で、机の上に置かれた小さな押し花の栞を眺めていた。

 紫色のスミレ。

 栞が落としていったものだ。

 これをどうするべきか。

 クラスで直接返すのが一番手っだろうが、彼女の性格を考えると、人前で渡されるのは嫌がるかもしれない。

 かといって、また彼女がこの部室に来る保証もない。「気が向いたら」と言っていただけだ。


「……まあ、次に会った時にでも渡すか」


 俺はそう結論付け、栞を自分の文庫本にそっと挟み込んだ。

 今日も相談者は来ないだろう。

 そう高を括って、自分の読書に集中しようとした、その時だった。


 ガラ……。


 昨日よりも、さらに静かな音を立てて、引き戸が開いた。

 まさか、と思いつつ顔を上げると、やはりそこに立っていたのは栞だった。

 昨日と同じ、表情の読めない顔で、彼女は俺をじっと見ている。


「……月見里さん。どうしたんだ、今日は」


 俺は少し驚きながらも声をかけた。

 まさか、二日連続で来るとは思っていなかった。


「……別に」


 栞は短く答え、昨日と同じように静かに部室に入ってきた。

 そして、まっすぐ俺の前の席……ではなく、昨日座った、少し離れたパイプ椅子に腰を下ろした。

 今日も何か相談があるのだろうか。

 それとも、ただ単に、他に居場所がないとか?


「……あのさ、これ」


 俺はタイミングを見計らって、栞から預かっていた押し花の栞を取り出した。


「昨日、ここに落ちてたんだけど……月見里さんのじゃないか?」


 栞は、俺が差し出した栞を一瞥した。

 ほんのわずかに、その瞳が揺れたように見えた。


「……そう」


 彼女は短く肯定すると、俺の手から栞を受け取った。

 その指先が、微かに触れた。

 ひんやりとした感触だった。


「……ありがとう」


 小さな声で、彼女は礼を言った。

 昨日、「くだらない悩み」と言っていた時とは違う、素直な響きがそこにはあった。


「どういたしまして。……それで、今日は何か?」


 俺は尋ねた。

 栞は、手の中の栞をじっと見つめたまま、しばらく黙っていた。

 窓の外では、初夏の強い日差しが、校庭の緑を鮮やかに照らしている。

 部室の中だけが、どこか時間の流れから取り残されたように静かだった。


「……少し、考えてみた」


 やがて、栞はぽつりと言った。


「何を?」


「……先輩が言ったこと」


 先輩、と彼女は俺を呼んだ。

 クラスメイトのはずだが、まあ、この『相談部』という場においては、俺が設立者ということにされているであり、一応、部長という肩書もある。

 彼女なりに、立場を意識したのだろうか。


「俺が言ったことって……気分転換の話か?」

「……そう」


 栞は頷いた。


「……本以外の、興味のあること……」


 彼女は、言葉を探すように、ゆっくりと続けた。


「……たぶん、ない。でも……」

「でも?」

「……新しい本を、探してみようと思った」

「新しい本?」


 俺は聞き返した。

 読めなくなったと言っていたのに、新しい本を探す?


「……今まで、読んだことのないジャンル。あるいは、全く知らない作家の本。もしかしたら……何か、変わるかもしれないから」


 彼女の声には、まだ迷いが含まれているようだったが、同時に、ほんの少しの期待のようなものも感じられた。

 昨日、ただ「聞いてもらいたかっただけ」と言っていた彼女が、自分から何かを変えようとしている。

 それは、大きな変化かもしれない。


「……そっか。それは、いい考えかもしれないな」


 俺は頷いた。


「何か、手伝えることはあるか? 例えば、おすすめの本を紹介するとか……」

「……それは、いい」


 栞は、俺の提案をぴしゃりと断った。

 相変わらず、人に頼るのは苦手らしい。


「……自分で、探す」

「そうか。分かった」


 俺は苦笑いを浮かべた。

 まあ、彼女らしいと言えば、彼女らしい。


「……じゃあ、俺はここで本でも読んでるから。何かあったら、また声をかけてくれ」


 俺はそう言って、自分の文庫本に視線を戻そうとした。

 しかし、栞は立ち上がらなかった。

 まだ、何か言いたげに、俺のことを見ている。


「……どうした?」


 俺が尋ねると、栞は少し躊躇うように視線を揺らした後、意を決したように口を開いた。


「……図書館、一緒に行ってもらえない?」

「えっ……?」


 俺は、思わず聞き返した。

 図書館に、一緒に?

 さっき、「自分で探す」と言ったばかりなのに?


「……一人だと、たぶん……途中で、やめてしまうから」


 栞は、小さな声で理由を説明した。

 俯いた彼女の耳が、ほんのりと赤くなっているように見えた。

 人に頼るのが苦手な彼女にとって、これは相当な勇気が必要な申し出だったのだろう。


「……分かった。行こうか、図書館」


 俺は、少し驚きながらも、快諾した。

 彼女が自分から助けを求めてきたのだ。

 断る理由はない。


「……ありがとう」


 栞は、また小さな声で礼を言った。

 俺たちは、無言で部室を出て、図書館へと向かった。

 放課後の図書館は、思ったよりも生徒が少なく、静まり返っていた。

 高い天井まで続く書架には、膨大な数の本が整然と並べられている。

 ひんやりとした空気と、古い紙の匂いが漂っていた。


 栞は、図書館に入ると、少しだけ足を止め、深呼吸をしたように見えた。

 そして、ゆっくりと書架の間を歩き始めた。

 俺は、少し離れた場所から、黙って彼女の後をついていく。


 彼女は、特定のジャンルを目指すわけでもなく、ただ、気の向くままに書架から書架へと移動していく。

 時折、足を止めて本の背表紙を眺めたり、数冊を手に取ってパラパラとめくったりしている。

 しかし、すぐに本を書架に戻してしまう。

 まだ、「これだ」と思える本には出会えていないようだ。

 その表情は、相変わらず硬い。

 本を探すという行為自体が、今の彼女にとっては苦痛なのかもしれない。


 しばらく、そんな時間が続いた。

 俺は、ただ黙って彼女を見守っていた。

 下手に声をかけるべきではないだろうと思ったからだ。


 ふと、栞がある書架の前で足を止めた。

 そこは、比較的新しい小説が並べられているコーナーだった。

 彼女は、一冊の本を手に取り、じっとその表紙を見つめている。

 鮮やかなイラストが描かれた、ファンタジー小説のようだ。

 今まで彼女が読んでいたような、少し硬質な雰囲気の本とは違う、どちらかというとライトな印象を受ける。


 栞は、その本を手に取ったまま、動かない。

 数分が経過しただろうか。

 俺が、そろそろ声をかけようかと思った、その時。

 栞は、ゆっくりと顔を上げ、俺の方を見た。

 そして。


「……水澄、先輩」


 彼女は、俺を呼んだ。


「うん?」

「……この本……どこに、あったか……覚えてる?」


 彼女は、手に持ったファンタジー小説を俺に見せながら、尋ねた。

 その声は、まだ少し硬かったが、確かに俺に向けられた問いかけだった。

 それは、彼女が誰かに、自分の外の世界に、助けを求めた瞬間だったのかもしれない。


「え? ああ、その本なら……さっき、あそこの棚にあったやつだな」


 俺は、少し驚きながらも、栞が本を手に取った場所を指さして答えた。


「……そう」


 栞は、俺が指さした方向を一瞥すると、小さく頷いた。

 そして、再び手元の本に視線を落とす。

 その横顔は、ほんの少しだけ、和らいで見えたような気がした。


「……ありがとう」


 また、小さな感謝の言葉。

 でも、それは、さっきまでのものとは、少し違う響きを持っていた。

 彼女の中で、何かが、本当に小さな何かが、変わり始めているのかもしれない。


 結局、その日、栞はそのファンタジー小説を借りることにしたようだ。

 図書館のカウンターで手続きをする彼女の後ろ姿は、まだどこか頼りなげだったけれど、来た時のような頑なな雰囲気は、少し薄れていた。


 図書館を出ると、西日が長く影を伸ばしていた。

 俺たちは、特に言葉を交わすこともなく、校門へと向かう。


「……じゃあ、また」


 校門の前で、俺がそう言うと、栞は小さく頷いた。

 そして、何かを言いかけたように口を開きかけたが、結局何も言わず、そのまま去っていった。

 その背中を見送りながら、俺は今日の出来事を反芻していた。

 彼女の小さな問いかけ。

 それは、大きな変化の、始まりなのかもしれない。

 そして、手に取ったファンタジー小説が、彼女の世界に再び彩りをもたらすことを、俺は密かに願っていた。


 押し花の栞は、まだ俺の文庫本に挟まったままだ。

 これを返すのは、もう少し先になりそうだ。

 そんな気がした。

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