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第4話 静寂の来訪者と、本の栞

 あの日、陽奈が初めて相談に訪れてから、数日が過ぎた。

 窓の外では、盛りを過ぎた桜の花びらが風に舞い、代わりに若々しい新緑が目に眩しい季節へと移り変わろうとしている。

 旧校舎の三階にある『お悩み相談部』の部室は、今日も相変わらず静かだった。


「…………」


 俺は、パイプ椅子に腰掛け、読みかけの文庫本に目を落としていた。

 あの日以来、陽奈はまだこの部室に顔を見せていない。

 まあ、毎日来るような場所でもないだろうし、そもそも彼女の悩みが少しでも軽くなっていれば、それに越したことはない。

 それに、俺としても、静かに本を読む時間を邪魔されないのは好都合だ。

 このまま、誰も来ない平和な日々が続けばいい。

 そう思っていた。


 ガラッ……。


 静かに、しかしはっきりと、古びた引き戸が開く音がした。

 俺は、反射的に顔を上げる。

 まさか、陽奈が来たのだろうか?

 いや、彼女なら、もっと遠慮がちに、おずおずとドアを開けるはずだ。


 そこに立っていたのは、予想外の人物だった。

 すらりとした長身に、落ち着いた雰囲気。

 長い黒髪が印象的な、同じクラスの女子生徒。


「……月見里さん?」


 思わず、名前を口にしていた。

 月見里(やまなし) (しおり)

 クラスでも、いつも一人で静かに本を読んでいる、少しミステリアスな印象の女子だ。

 成績は優秀で、特に国語の成績はずば抜けていると聞いたことがある。

 だが、必要最低限のことしか話さず、誰かと親しくしている様子もあまり見かけない。

 俺とも、クラスメイトという以外、ほとんど接点はなかった。

 そんな彼女が、なぜこんな場所に?


 栞は、表情一つ変えずに俺を見ると、静かに部室の中へと足を踏み入れた。

 そして、壁に掛けられた『お悩み相談部』の看板を一瞥する。


「……ここが、例の場所?」


 低い、落ち着いた声で彼女は尋ねた。

 その声には、感情のようなものはほとんど感じられない。


「例の場所って……まあ、そうだけど。月見里さんが、何か用?」


 俺は戸惑いながらも尋ね返した。

 まさか、彼女のようなタイプが、悩みを相談しに来るとは到底思えなかったからだ。


 栞は、俺の問いには直接答えず、ゆっくりと室内を見回した。

 古びた長机、パイプ椅子、隅に積まれたダンボール箱。

 そして、俺が読みかけで机の上に置いていた文庫本に、ふと視線を留めた。


「……その本、『星屑のアルペジオ』」


 彼女は、本のタイトルを呟いた。


「え? ああ、うん。知ってるのか?」

「……少し前に読んだ。なかなか面白いSFだった」


 淡々とした口調だが、その言葉に嘘はないように感じられた。

 まさか、月見里さんと本の趣味が合うとは。

 少し意外だった。


「そうなんだ。俺も、結構好きでさ。この作者の他の作品も……」


 思わず、会話が続きそうになったが、栞はふいと視線を逸らし、再び俺に向き直った。


「……相談、受けてくれる?」


 単刀直入な言葉だった。

 やはり、彼女も相談があってここに来たらしい。

 クラスでも孤高を保っているように見える彼女にも、悩みがあるということか。


「え、ああ……もちろんだ。そのための『相談部』だからな。まあ、俺で役に立つか分からないけど」


 俺は少し動揺しながらも、頷いた。

 最初の相談者だった陽奈とは、全く違うタイプの来訪者に、どう対応すればいいのか、まだ掴めないでいる。


「……あっちの椅子、使っても?」


 栞は、俺から少し離れた場所にあるパイプ椅子を指さした。


「ああ、どうぞ」


 俺が促すと、栞は静かにその椅子へと歩み寄り、腰を下ろした。

 背筋をぴんと伸ばし、膝の上にきちんと両手を揃えている。

 その姿は、まるで面接か何かを受けに来たかのようだ。


「それで……どんな相談かな?」


 俺は、当たり障りのなく尋ねた。

 陽奈の時のように、いきなり核心を突いて失敗しないように、少し慎重になる。


 栞は、しばらくの間、黙って自分の指先を見つめていた。

 長いまつ毛が、白い頬に影を落としている。

 何を考えているのか、その表情からは読み取れない。

 やがて、彼女はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳は、どこか遠くを見ているような、不思議な色をしていた。


「……本が、読めなくなった」


 ぽつり、と彼女は呟いた。


「え……?」


 俺は、聞き間違いかと思った。

 本が読めなくなった?

 いつも教室で、あるいは移動中でも、文庫本を手放さない彼女が?


「本が、読めない……って、どういうことだ?」


 俺は聞き返した。


「……文字は、追える。内容は、理解できる。でも……以前のように、物語の世界に入り込めない。感情が、動かない」


 栞は、淡々とした口調で説明した。

 しかし、その声には、わずかに苦悩のような響きが感じられた。


「……いつから?」

「……分からない。気づいたら、そうなっていた。ここ数週間……ううん、もっと前からかもしれない」


 彼女は、記憶を辿るように、視線を宙に彷徨わせた。

 読書家である彼女にとって、本の世界に入り込めないというのは、相当な苦痛だろう。

 それは、想像に難くない。


「何か、きっかけになるようなことはあったのか? 例えば、すごくショックな出来事とか……」


 俺は、可能性を探るように尋ねた。


 栞は、少しの間、黙って考え込んでいた。

 そして、小さく首を横に振った。


「……特に、思い当たらない。普段通りの、平凡な毎日だったはず」

「そうか……」


 俺は腕を組んだ。

 これは、なかなか難しい問題かもしれない。

 精神的なものなのか、それとも何か別の要因があるのか。

 医者でもカウンセラーでもない俺に、何ができるというのだろうか。


「……どんなジャンルの本を読んでも、同じ感じなのか?」


 俺は、さらに質問を重ねた。


「……試してみた。SF、ミステリー、ファンタジー、純文学……。昔は好きだったはずのジャンルも、今はただ、文字の羅列にしか感じられない」


 栞の声が、わずかに沈んだ。

 彼女にとって、本がどれほど大切な存在だったのかが窺える。


「……困ったな」


 俺は、思わず本音を漏らしてしまった。

 栞は、そんな俺の顔をじっと見つめている。

 その瞳は、何かを期待しているようでもあり、あるいは、諦めているようでもあった。


「……別に、解決してほしいわけじゃない」


 不意に、栞は言った。


「え?」

「ただ……誰かに、聞いてほしかっただけなのかもしれない。こんな、くだらない悩み」


 自嘲するような、微かな笑みが彼女の口元に浮かんだ。


「くだらなくなんかないだろ」


 俺は、少し強い口調で否定した。


「月見里さんにとって、本を読むことがどれだけ大事なことか……俺には、少し分かる気がするから」


 俺自身も、読書が好きだ。

 もし、自分が同じ状況になったら、と想像すると、ぞっとする。


 俺の言葉に、栞は少し驚いたように目を見開いた。

 そして、すぐにいつもの無表情に戻ったが、その瞳の奥に、何かが揺らめいたように見えた。


「……そう」


 彼女は、短く答えた。

 それ以上の言葉は続かなかったが、さっきまでの張り詰めたような空気は、少しだけ和らいだ気がした。


「……何か、気分転換になるようなことをしてみるのはどうだ? 例えば、本以外のことで、何か好きなこととか、興味のあることとか」


 俺は、ありきたりな提案をしてみた。


 栞は、しばらく黙って考えていたが、やがて、小さく首を横に振った。


「……特に、ない」

「そ、そうか……」


 なかなか手強い。

 彼女の世界は、どうやら本を中心に回っているらしい。


「……じゃあ、逆に、全く興味のないことをやってみるとか?」

「例えば?」

「うーん……スポーツとか? 体を動かすと、気分が変わるかもしれない」


 俺が言うと、栞は心底嫌そうな顔をして、即座に首を横に振った。


「……運動は、苦手」


 だろうな、とは思った。

 彼女が運動している姿は、全く想像できない。


「……じゃあ、音楽とか、映画とかは?」

「……人並みには。でも、積極的に聞いたり見たりはしない」

「……そうか」


 打つ手なしか。

 俺は、内心でため息をついた。

 この静かな相談者も、陽奈とは違う意味で、なかなか手強い相手のようだ。


 窓の外では、風が新緑の葉を揺らし、さらさらと音を立てている。

 時計を見ると、そろそろ下校時刻が近づいていた。


「……ごめん、あまり役に立てなくて」


 俺は、正直に謝った。


「……いい」


 栞は短く答えた。

 そして、すっと立ち上がる。


「もう、行く」

「あ、ああ……」


 俺が何か言う前に、彼女はさっさと出口に向かう。

 その背中は、来た時と同じように、どこか近寄りがたい雰囲気を纏っていた。


「……もし、また何かあったら、いつでも」


 俺は、半分義務感から、そう声をかけた。

 栞は、ドアに手をかけたまま、わずかに振り返った。

 表情は変わらない。


「……気が向いたら」


 そう言い残し、彼女は静かに教室を出て行った。

 再び、部室には俺一人になった。


「……ふぅ」


 俺は、大きく息を吐き出した。

 なんだか、どっと疲れた気がする。

 陽奈の時とは違う種類の疲労感だ。

 彼女の抱える問題の根は、思ったよりも深いのかもしれない。


 机の上に置かれた、栞がさっきまで見ていた俺の文庫本。

『星屑のアルペジオ』。

 その表紙を眺めながら、俺は彼女の言葉を反芻していた。

 本が、読めない。

 その悩みを、俺はどう受け止めればいいのだろうか。


 ふと、本の間に、何かが挟まっているのに気がついた。

 それは、押し花で作られた、手作りの栞だった。

 紫色の、小さなスミレの花。

 栞が、さっき本を見ていた時に、うっかり落としていったのだろうか。

 それとも……。


 俺は、その可憐な栞をそっと手に取った。

 彼女のミステリアスな雰囲気とは少し違う、繊細な美しさ。

 これが、彼女の心の奥底にあるものなのだろうか。

 まだ、何も分からない。

 ただ、この小さな栞が、何かを変えるきっかけになるのかもしれない。

 そんな予感が、胸の奥で微かに芽生えていた。





※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ご連絡


あらすじとかキャッチコピーとかタグとかわすれてたぁぁぁぁぁぁ(´;ω;`)

というわけで付けました。


用意してあったのに入れ忘れるなんて痛恨すぎる・・・。

しかも大事な連載初日に。


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