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第3話 小さな声と、第一歩

「……あの……」


 陽奈が、何かを言いかけた。

 潤んだ瞳で、俺をじっと見つめている。

 その表情には、戸惑いと、ほんの少しの安堵のようなものが浮かんでいた。

 俺は、彼女の次の言葉を待った。

 旧校舎の教室には、俺と彼女以外、誰もいない。

 窓の外から聞こえる、微かな風の音だけが、沈黙を埋めていた。


「水澄、せんぱい……」


 陽奈は、小さな声で俺の名前を呼んだ。

 さっきまでの震えは、少し収まっているようだ。


「うん?」

「その……話、聞いてもらって……なんだか、少し……楽に、なった、気がします」


 途切れ途切れだが、彼女は自分の気持ちを言葉にしてくれた。

 俺は、少し驚いた。

 ただ話を聞いて、ハンカチを貸しただけだ。

 具体的なアドバイスは何一つしていない。

 それでも、彼女にとっては少しだけ救いになったのだろうか。


「そっか。それなら、よかった」


 俺は素直にそう答えた。

 役に立てたのかどうかは分からないが、彼女の表情がさっきより和らいで見えるのは確かだ。


「でも……やっぱり、明日からどうしたらいいか……」


 陽奈は再び俯き、消え入りそうな声で呟いた。

 そうだよな。

 話を聞いてもらっただけで、問題が解決するわけじゃない。

 人と話すのが苦手、挨拶ができない。

 それは、日々の学校生活において、かなり大きな壁だろう。


「……具体的に、どんな時に困るんだ? 挨拶っていうのは、朝とか?」


 俺は尋ねてみた。


「は、はい……。朝、教室に入るときとか……クラスの子に会ったときとか……。声、出そうと思っても、喉が……きゅってなって……」


 陽奈は自分の喉元を抑えながら説明する。

 想像以上に、深刻な悩みなのかもしれない。


「それで、結局、何も言えなくて……。変な子だって、思われてるんじゃ……って……」


 声が、また涙で潤み始めている。

 いかんいかん、また泣かせてしまう。


「……なるほどな」


 俺は腕を組み、少し考えるふりをした。

 実際には、何の妙案も浮かんでいない。

 だが、ここで黙り込んでは、彼女をさらに不安にさせてしまうだろう。


「……じゃあさ、試しに、今ここで練習してみるか?」


 俺は、ほとんど思いつきで提案した。


「えっ……?」


 陽奈は、きょとんとした顔で俺を見た。

 その表情は、「何を言っているんですか?」と問いかけているようだ。


「いや、ほら、挨拶の練習。俺がクラスメイト役とか、やるからさ」


 我ながら、突拍子もない提案だと思う。

 だが、他に何も思いつかなかったのだ。


「で、でも……そんな……」


 陽奈は、もじもじと体を揺らし、視線を左右に彷徨わせる。

 明らかに戸惑っている。

 まあ、そうだろうな。

 初対面の先輩、しかも男子に、いきなり挨拶の練習をしようと言われたのだから。


「無理にとは言わないけどさ。……一人で悩んでるよりは、何かやってみた方が、少しは気が紛れるかもしれないだろ?」


 俺は付け加えた。

 これは、半分本心だった。

 具体的な解決策にはならなくても、行動することで何かが変わるきっかけになるかもしれない。


 陽奈は、しばらくの間、俯いて何かを考えているようだった。

 指先でスカートの皺を伸ばしたり、また握りしめたりを繰り返している。

 やがて、意を決したように、顔を上げた。


「……じゃあ……お願いします……」


 小さな、しかし、はっきりとした声だった。

 その瞳には、不安と同時に、わずかな決意のような色が見える。


「よし、じゃあやってみようか」


 俺は椅子から立ち上がり、少し離れた場所に立った。


「じゃあ、俺が今、教室に入ってきたクラスメイトだと思って。朝の挨拶をしてみてくれ」


 俺は、できるだけ自然な感じで、陽奈の方へ歩み寄る演技をした。

 陽奈は、ごくりと唾を飲み込み、緊張した面持ちで俺を見つめている。

 口を、わずかに開いたり閉じたりしている。

 声を出そうとしているのが分かる。


「……」


 しかし、声にならない。

 喉が、また「きゅっ」となっているのだろうか。

 彼女の表情が、苦痛に歪む。


「……無理、です……やっぱり……」


 陽奈は、か細い声でそう言うと、また俯いてしまった。

 肩が小さく震えている。


「……そっか」


 俺は無理強いするのをやめ、彼女の隣に歩み寄った。


「まあ、いきなりは難しいよな。ごめん、変なこと言って」

「い、いえ……わたしの、せいですから……」

「陽奈のせいじゃないだろ。苦手なことなんだから、すぐにできなくて当たり前だ」


 俺は、できるだけ優しい口調で言った。

 彼女を責めるつもりは全くない。


「……でも……」

「焦らなくていいんだって。……じゃあ、まずは、相手の目を見て、小さく頷くだけでもいいんじゃないか?」


 俺は別の提案をしてみた。

 声が出せないなら、まずは態度で示すことから始める、というのはどうだろうか。


「頷く……だけ、ですか?」

「そう。おはよう、って言われたら、相手の目を見て、こくり、って。それだけでも、『あ、ちゃんと聞いてくれてるんだな』って相手には伝わると思うぞ」


 俺は実際にやってみせて、こくりと頷いてみせた。

 陽奈は、じっと俺の動きを見ている。


「……それなら……できる、かも……しれません」


 少しだけ、希望が見えたような声だった。


「だろ? まずはそこから始めてみたらどうかな。声は、出せる時に出せばいいんだ」

「……はい」


 陽奈は、小さく頷いた。

 さっきまでの絶望的な表情は、少し薄れている。


「よし、じゃあ、もう一回やってみるか? 今度は、俺が『おはよう』って言うから、陽奈は俺の目を見て、頷き返してみてくれ」

「……はい」


 俺は再び少し離れ、陽奈の方へ歩み寄る。


「朝霧さん、おはよう」


 俺は、できるだけ自然な笑顔で声をかけた。

 陽奈は、びくりと肩を震わせたが、今度は俯かなかった。

 しっかりと俺の目を見て……そして、小さく、こくりと頷いた。

 ほんのわずかな動きだったが、確かに彼女は反応を示した。


「……できたじゃないか!」


 俺は思わず、少し大きな声を出してしまった。

 陽奈は、驚いたように目を見開いたが、すぐに、はにかむような、照れたような、複雑な表情を浮かべた。

 そして、ほんの少しだけ、口角が上がったように見えた。


「……できました……」


 彼女は、自分でも信じられない、といった様子で呟いた。


「ああ、ちゃんとできた。すごいじゃないか」


 俺は素直に称賛の言葉を口にした。

 本当に、小さな一歩だ。

 でも、彼女にとっては、大きな大きな一歩だったのかもしれない。


「……ありがとうございます……先輩……」


 陽奈は、潤んだ瞳で俺を見つめ、そう言った。

 その頬は、さっきよりも赤く染まっているように見える。

 ……いや、これもきっと、気のせいではないのだろう。

 達成感と、安堵と、そして、俺への……いや、考えすぎか。


「どういたしまして。まあ、俺は何もしてないけどな」


 俺は照れ隠しに、そっけなく答えた。

 時刻を見ると、もうかなり時間が経っていた。

 そろそろ下校時刻も近い。


「……今日は、もうこのくらいにしておくか?」


 俺が言うと、陽奈は少し残念そうな顔をしたが、こくりと頷いた。


「はい……。あの、本当に、ありがとうございました」


 彼女は椅子から立ち上がり、深々と頭を下げた。


「いや、だから、礼を言われるようなことは……。まあ、何かあったら、またいつでも来ればいい」


 俺は、半分本気、半分投げやりに言った。

 正直、また相談に乗れる自信はないが、見捨てるのも寝覚めが悪い。


「はいっ……!」


 陽奈は、ぱあっと顔を輝かせ、力強く頷いた。

 その反応に、俺は少し面食らった。

 そんなに嬉しかったのだろうか。


「じゃあ、俺はこれで……。鍵、閉めていくから」

「あ、はい。失礼します」


 陽奈は、もう一度頭を下げると、教室の出口へと向かった。

 そして、ドアに手をかけたところで、ふと足を止め、振り返った。

 俺は、彼女が何か言い忘れたことでもあるのかと思い、首を傾げる。


 彼女は、俺の目をじっと見つめ、数秒間、何かを躊躇うように口元をもごもごと動かした。

 そして。


「……あ……あの……さよ、なら……」


 消え入りそうな、しかし、はっきりとした声で、彼女はそう言った。

 言い終わると同時に、顔を真っ赤にして、勢いよくドアを開けて飛び出していった。

 バタン、と閉まったドアの向こうから、慌てたような足音が遠ざかっていくのが聞こえる。


 俺は、しばらくの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。

 今のは……挨拶、だよな?

 別れの挨拶。

 さっきまで、挨拶ができないと悩んでいた彼女が、最後に、自分から挨拶をしてくれた。


「……はは」


 思わず、乾いた笑いが漏れた。

 なんだか、すごいものを見てしまったような気がする。

 彼女の、本当に小さな、でも、確かな一歩。


「……まあ、悪くない、か?」


 俺は、がらんとした教室で、一人呟いた。

 不本意に始まったこの『お悩み相談部』も、もしかしたら、ほんの少しは誰かの役に立つのかもしれない。

 そんなことを考えながら、俺は窓の外に目をやった。

 西日が差し込み、床に長い影を作っている。

 桜の蕾が、夕陽を受けて淡いピンク色に染まっていた。

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