第21話 夏の夕立と、打ち明けられた秘密
終業式も終わり、明日からはいよいよ待ちに待った夏休み。
そんな浮かれた気分の生徒たちが足早に帰路につく中、俺は一人、お悩み相談部の部室へと向かっていた。
夏休み前の最後の活動日(というほど、大した活動はしていないが)、そして、先日の大掃除で出たゴミの最終確認のためだ。
旧校舎の三階、いつもの空き教室の前まで来ると、そこにはすでに人影があった。
陽奈、栞、そして玲奈先輩。三人が、どうやら俺を待っていたかのように、ドアの前に立っていた。
「あ、先輩! お疲れ様です!」
陽奈が、ぱっと笑顔を向けてくる。
「あら、水澄くん。ずいぶん遅かったじゃない」
玲奈先輩は、少し不機嫌そうだ。
栞は、黙ってこくりと頷いた。
「悪い悪い。ちょっと先生に捕まっててな。みんなも、まだ残ってたのか」
俺は、ポケットから古びた鍵を取り出しながら言った。
「はい! なんとなく、まだ帰りたくなくて」と陽奈。
「……少し、用事があったから」と栞。
「別に。あなたたちがちゃんと戸締りするか、見届けに来ただけよ」と玲奈先輩。
三者三様の理由(?)らしい。
俺は鍵を開け、ドアを押した。
「まあ、とりあえず入れよ。ゴミの確認だけして、すぐに閉めるから」
四人でぞろぞろと部室に入る。中は、大掃除の後だけあって、比較的片付いている……ように見えるが、やはりどことなく埃っぽい。
他愛ない話をしながら、最後の片付けをしていると、不意に、控えめなノックの音が聞こえた。
コンコン。
顔を見合わせる俺たち。
こんな時間に、誰だろうか。
俺が「どうぞ」と声をかけると、ドアがゆっくりと開き、一人の女子生徒が顔を覗かせた。
見慣れない顔だ。おそらく、一年生だろうか。
少し緊張した面持ちで、部室の中を窺っている。
「あの……ここって、お悩み相談部、ですか?」
か細い声で、彼女は尋ねた。
「ああ、そうだけど。どうかした?」
俺が答えると、彼女は意を決したように一歩中に入ってきた。
「あの……相談、したいことが、あって。友達に、ここのこと聞いて……」
どうやら、相談部の噂が、少しずつ広まっているらしい。
拓也あたりが言いふらしているのだろうか……。
「どうぞ、座って」
俺はパイプ椅子を勧めた。
彼女は「ありがとうございます」と小さな声で言って、おずおずと腰を下ろした。
陽奈が、さっとお茶を淹れて差し出す。その動きも、ずいぶん慣れたものだ。
「それで、どんな相談かな?」
俺が尋ねると、彼女は俯いて、しばらくの間、言葉を探しているようだった。
やがて、絞り出すような声で、話し始めた。
「……あの……友達と、同じ人を、好きになっちゃった、かもしれなくて……」
その言葉に、部室の空気が、一瞬、凍りついたような気がした。
特に、陽奈と栞の表情が、微かに強張ったように見える。
……気のせいか?
相談者の女子生徒――仮にAさんとしよう――は、続けた。
仲の良い友達グループの中に、気になる男子がいること。
最近、その男子と話す機会が増え、惹かれ始めていること。
しかし、どうやらグループ内の親友も、同じ男子に好意を寄せているらしいこと。
親友との関係も壊したくないし、かといって、この気持ちを諦めることもできなくて、どうしたらいいか分からない、と。
高校生にとっては、非常に切実で、そして複雑な悩みだ。
話を聞き終えた陽奈は、まるで自分のことのように、目に涙を浮かべていた。
「わ、分かります……! すごく、辛いですよね……! 友情も、恋も、どっちも大切なのに……!」
完全に感情移入している。アドバイスというより、共感の嵐だ。
一方、栞は、冷静な表情でAさんを見つめていた。
「……その親友は、あなたが彼を好きかもしれないことを、知っているの?」
核心を突くような質問だ。
Aさんは、小さく首を横に振る。
「……多分、気づいてない、と……思います」
「……相手の男子生徒は? 彼が、あなたと親友の、どちらに関心があるか、何かサインはあった?」
栞の質問は、さらに続く。客観的に状況を整理しようとしているようだ。
そこへ、玲奈先輩が割って入った。
「ぐずぐず悩んでいる時間が無駄よ!」
ばっさり、と一刀両断。
「友情か、恋愛か、どちらかを選べないなんて、優柔不斷なだけじゃない。自分の気持ちに正直になって、さっさとはっきりさせなさい! それで友情が壊れるなら、それまでの関係だったということよ!」
玲奈先輩らしい、厳しくも、ある意味では真理を突いた意見だ。
三者三様のアドバイス(?)に、相談者のAさんは、完全に混乱している様子だった。
「え、えっと……」と、困惑した表情で俺の方を見てくる。
助けを求めるような視線。
「まあまあ、落ち着いて」
俺は、Aさんをなだめるように言った。
そして、陽奈、栞、玲奈先輩に向き直る。
「みんなの言うことも、それぞれ一理あると思うけど、最終的にどうするか決めるのは、彼女自身だろ? 今は、色々な意見を聞いて、彼女が自分の気持ちを整理する時間が必要なんじゃないか?」
俺がそう言うと、三人は、少しバツが悪そうな顔をして、黙り込んだ。
俺は、改めてAさんに向き直った。
「……すぐに答えを出す必要はないと思うよ。陽奈の言うように、今はすごく辛いだろうし、栞さんの言うように、状況を冷静に見ることも大事だし、玲奈先輩の言うように、自分の気持ちに正直になることも大切だ。……色々な意見を参考に、君自身が、後悔しない道を選べるといいな」
俺にできるのは、やはり、こんな当たり障りのない言葉をかけることくらいだった。
Aさんは、しばらくの間、俯いて何かを考えていたが、やがて顔を上げた。
その表情は、まだ晴れやかとは言えないが、来た時よりは少しだけ、すっきりしているように見えた。
「……ありがとうございます。……色々な意見が聞けて、少し、頭が整理できた気がします。……もう少し、考えてみます」
彼女は、そう言って、深々と頭を下げて部室を出て行った。
後に残されたのは、少しだけ気まずいような、それでいて、何か大きな課題に取り組んだ後のような、奇妙な空気だった。
「……私たち、ちゃんと相談に乗れてたのかな……」
陽奈が、不安そうに呟く。
「……人によって、考え方は違うから」
栞が、静かに応じる。
「ふん。あんなことで悩むなんて、まだまだ子供ね」
玲奈先輩は、相変わらずだ。
俺は、そんな三人の様子を見ながら、ため息をついた。
相談に乗る、ということは、本当に難しい。
一つの答えがあるわけではないし、良かれと思ったアドバイスが、相手を傷つけることだってある。
それでも、こうして、誰かの悩みに向き合おうとすること。
それ自体に、意味があるのかもしれない。
ただ……。
今回の相談内容、特に「友達と同じ人を好きになる」というテーマは、この部室にいるメンバーたちの間にも、何か微妙な影を落としたような気がしないでもなかった。
陽奈と栞の、一瞬見せた硬い表情。
それは、考えすぎだろうか……。
窓の外では、遠くで雷鳴が聞こえ始めた。
夏の夕立が来るのかもしれない。
相談部の、そして俺たちの夏休みは、静かに、しかし確実に、始まろうとしていた。
そして、それは、新たな波乱の幕開けでもあるのかもしれない、と。
そんな予感が、胸の奥を微かに掠めた。