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第2話 震える声と、最初の相談者

 目の前に立つ、小柄な一年生の女子生徒。

 彼女は俯いたまま、スカートの裾をぎゅっと握りしめている。

 長い前髪が顔にかかり、表情は窺い知れない。

 ただ、その佇まいからは、強い緊張と不安が伝わってきた。


「えっと……とりあえず、座ったらどうかな?」


 俺は努めて穏やかな声で促した。

 まさか本当に相談者が来るとは思っていなかったが、来てしまった以上、追い返すわけにもいかない。

 拓也のやつ、余計なことをしてくれたものだ。

 内心で悪態をつきながらも、俺はパイプ椅子の一つを示す。


 彼女は、びくりと肩を震わせた。

 まるで、急に話しかけられたことに驚いたように。

 ゆっくりと顔を上げ、俺の顔を窺うように見つめてくる。

 大きな瞳は潤んでいて、今にも泣き出してしまいそうだ。


「あ……はい……」


 消え入りそうな声で返事をすると、彼女はロボットのようにぎこちない動きで、俺が示した椅子へと向かった。

 そして、ちょこんと腰掛ける。

 座ってもなお、落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。


 さて、どうしたものか。

 俺は人生で一度も、誰かの悩み相談に乗った経験などない。

 そもそも、自分の悩みすら持て余しているというのに。

 だが、目の前の彼女は、明らかに助けを求めているように見える。


「……俺は、ここの部長をやってる、水澄 透。二年生だ」


 まずは自己紹介からだろうか。

 俺は当たり障りのない情報だけを口にした。


「もしよかったら、君の名前も教えてもらえるかな?」


 彼女は再びびくりと体を震わせ、小さな声で名乗った。


「あ……朝霧(あさぎり)……陽奈(ひな)……です。一年、です」


 朝霧 陽奈。

 それが彼女の名前らしい。

 俺は頷き、できるだけ優しい表情を作ることを心がけた。


「朝霧さん、だな。よろしく」

「は、はい……よろ、しく、お願いします……」


 どもりながらも、なんとか挨拶を返してくれた。

 少しだけ、場の空気が和らいだような気がする。

 いや、気のせいかもしれない。

 依然として、彼女の周囲には重苦しいオーラが漂っている。


「それで……相談したいこと、というのは?」


 俺は単刀直入に切り出した。

 下手に遠回しな言い方をしても、彼女を余計に緊張させるだけかもしれないと思ったからだ。

 しかし、その質問は逆効果だったらしい。

 陽奈は再び俯いてしまい、口を固く閉ざしてしまった。

 指先が白くなるほど、スカートを強く握りしめている。


 まずい、核心を突きすぎたか。

 俺は内心で舌打ちした。

 どうやら、聞き上手には程遠いらしい。


「……いや、急がなくてもいいんだ。話せるようになるまで、ゆっくりで構わないから」


 慌ててフォローを入れる。

 だが、陽奈は俯いたまま、ぴくりとも動かない。

 沈黙が、埃っぽい空気に重くのしかかる。

 窓の外では、風に吹かれた桜の枝が、カタカタと窓ガラスを叩いていた。


 どうしよう。

 このまま黙っていても埒が明かない。

 何か、彼女が話しやすくなるようなきっかけはないだろうか。

 たとえば……そうだ。


「……お茶、でも飲むか?」


 俺は思いつきで提案してみた。

 幸い、拓也が「備品」と称して、電気ケトルとインスタントのお茶セットを隅のダンボールに入れておいてくれたのだ。

 まさか、初日から使うことになるとは思わなかったが。


 俺の言葉に、陽奈はわずかに顔を上げた。

 その瞳には、困惑と、ほんの少しの期待のような色が浮かんでいるように見えた。


「あ……えっと……」

「まあ、待っててくれ。すぐに準備するから」


 俺はそう言って立ち上がり、ダンボール箱へと向かった。

 中から電気ケトルと人数分の紙コップ、緑茶のティーバッグを取り出す。

 幸い、旧校舎とはいえ、水道とコンセントは生きているらしい。

 手早くケトルに水を入れ、スイッチを入れる。

 ジー、という静かな音を立てて、ケトルが湯を沸かし始めた。


 その間、陽奈はただ黙って、俺の動きを目で追っていた。

 相変わらず表情は硬いが、先ほどまでの張り詰めたような緊張感は、少しだけ和らいでいるように見える。

 お茶の効果だろうか。

 だとしたら、拓也の用意周到さも、たまには役に立つものだ。


 やがて湯が沸き、俺は二つの紙コップにティーバッグを入れ、お湯を注いだ。

 ふわりと緑茶の香りが立ち上る。


「はい、どうぞ。熱いから気をつけて」


 俺は一つを陽奈の前の机に置き、もう一つを自分の席に持っていった。

 陽奈は、恐る恐る、といった様子で紙コップに手を伸ばす。

 両手で包むようにして持ち上げると、湯気の立つ緑茶をじっと見つめた。


「……ありがとうございます」


 ぽつり、と呟かれた感謝の言葉。

 それは、今日初めて聞いた、彼女のしっかりとした声だったかもしれない。


「どういたしまして」


 俺は答え、自分の緑茶を一口飲んだ。

 まあ、味は普通だ。

 可もなく不可もなく。

 だが、このぎこちない空気を和らげるには、十分な役割を果たしてくれているようだ。


 陽奈も、小さな唇でそっと緑茶を啜る。

 ふぅ、と小さな息を吐き、少しだけ顔を上げた。

 まだ不安げな表情は変わらないが、先ほどよりも落ち着いて見える。


「……それで、えっと……」


 俺は再び口火を切るタイミングを窺う。

 今度は、もう少し慎重に言葉を選ばなければ。


「もし、話せるようならでいいんだけど……どんなことで悩んでいるのか、少しだけ教えてもらえないかな? もちろん、無理にとは言わないけど」


 俺はできるだけ優しい声色を意識した。

 陽奈は、手に持った紙コップをじっと見つめている。

 数秒の沈黙。

 諦めて、話題を変えようかと思った、その時。


「……あの……」


 陽奈が、震える声で話し始めた。


「わたし……人と、うまく話せなくて……」


 それは、絞り出すような、か細い声だった。

 だが、確かに彼女自身の言葉だった。


「人と、うまく話せない?」


 俺は繰り返した。

 なるほど、それが彼女の悩みか。

 確かに、今日ここに来てからの彼女の様子を見ていると、それは十分に伝わってくる。


「はい……。クラスでも、なかなか友達ができなくて……。挨拶、とかも……うまくできなくて……」


 言いながら、陽奈の目には再び涙が滲んできた。

 ぽろぽろと、大粒の涙が頬を伝い落ちる。

 慌てて手の甲でそれを拭うが、涙は後から後から溢れてくるようだ。


「……っ、ごめ、なさ……」


 しゃくり上げながら、彼女は謝罪の言葉を口にした。

 俺は、どう反応すればいいのか分からず、少し戸惑った。

 まさか、初対面の相手にいきなり泣かれるとは思わなかった。


「いや、謝る必要はないよ。……そっか、それで悩んでたんだな」


 俺はポケットからハンカチを取り出し、そっと彼女に差し出した。

 ごく普通の、無地のハンカチだ。


「よかったら、使ってくれ」


 陽奈は、差し出されたハンカチと俺の顔を交互に見比べ、躊躇うように手を伸ばした。

 そして、小さな声で「ありがとうございます……」と言うと、ハンカチを受け取り、そっと涙を拭った。


 ハンカチを受け取ったその瞬間、陽奈の頬がほんのりと赤く染まったように見えたのは、気のせいだろうか。

 いや、きっと気のせいだ。

 ただ、泣いてしまったことへの羞恥心だろう。


「……大丈夫か?」


 俺は声をかける。

 陽奈は、小さく頷いた。


「少し、落ち着いた?」

「……はい」


 まだ声は震えているが、先ほどよりはしっかりとした返事だった。

 彼女の悩みの一端が見えてきた。

 人と話すのが苦手で、新しい環境に馴染めずにいる、ということか。

 それは、確かに辛いだろう。


「そっか……。話してくれて、ありがとう」


 俺は言った。

 正直、何の解決策も思い浮かばない。

 だが、まずは彼女が勇気を出して悩みを打ち明けてくれたことに対して、感謝を伝えるべきだと思った。


 俺の言葉に、陽奈は驚いたように顔を上げた。

 潤んだ瞳で、俺をじっと見つめている。

 その表情には、戸惑いと……ほんの少し、安堵のようなものが浮かんでいるように見えた。


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