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第19話 夏の静寂と、栞と、未だ開かぬページ

 夏休みまであと数日。

 連日の猛暑と間近に迫った長期休暇への期待感で、学校全体がどこか浮ついた空気に包まれていた。

 授業もどこか上の空といった感じの生徒が多い。

 そんな中、放課後のお悩み相談部部室は別世界のように静かだった。


 今日の部室には俺と月見里 栞の二人だけだった。

 陽奈はクラスの友達と夏休みの計画を立てるとかで先に帰り、玲奈先輩は三者面談の続きか何かで今日は来ないらしい。

 蝉の声だけが開け放たれた窓から容赦なく侵入してくる。


 栞はいつものように窓際の席に座っていた。

 手元にはハードカバーの本が開かれている。

 しかしどうにも様子がおかしい。

 ページをめくる手が何度も止まっている。

 時折、小さく苛立ったようなため息をつき、眉間に皺を寄せている。

 普段の静かに読書に没頭している彼女とは明らかに違う。


 俺は自分の本を読みながらも彼女の様子が気になって仕方なかった。

 以前「本が読めない」と相談に来てから、少しずつ変化の兆しは見えていたはずだ。

 図書館で新しい本を探したり、ほんの少しだけ他人との関わりを持とうとしたり。

 それでも根本的な悩みは解決していなかったのだろうか。


「月見里さん」


 俺は意を決して声をかけた。


「どうかしたのか? なんだか集中できてないみたいだけど」


 俺の言葉に栞はびくりと肩を震わせ顔を上げた。

 その黒い瞳には焦りと苦悩のような色が浮かんでいる。

 彼女はしばらく黙っていたが、やがて観念したように小さな声で話し始めた。


「……やっぱりだめみたい」

「だめって本のことか?」


 栞はこくりと頷いた。

 そして手にしていた本をパタンと閉じた。


「……前よりもひどくなってる気がする」

「ひどく?」


 以前もそんなことを言っていた気がする。


「前はただ、物語に入り込めない、感情が動かないってだけだった。でも今は」


 彼女は言葉を選びながら苦しそうに続けた。


「……文字を目で追うこと自体が苦しい。頭の中に全然言葉が入ってこない。……まるで知らない外国語を読んでいるみたいに」


 その声はか細く震えている。

 彼女にとって本が読めないということがどれほどの苦痛か。

 その一端が痛いほど伝わってくる。


「どうしてだろうな」


 俺は何か気の利いた言葉をかけようとしたが結局、そんな月並みな相槌しか出てこなかった。


「……分からない」


 栞は力なく首を振った。


「でも最近特にひどい。テストが終わって少し落ち着けるかと思ったのに」

「テストの後から?」

「……そうかもしれない。あのみんなで勉強したり。陽奈さんとのこともあったし」


 彼女は陽奈に消しゴムを貸したことや、あるいはその前の恋愛小説での一件を思い出しているのだろうか。


「……なんだかずっと、心がざわざわしてて。……静かな気持ちになれない」


 なるほど。

 テスト期間やその前後での人間関係の変化。

 内向的な彼女にとってそれは大きな刺激であり、ストレスにもなっていたのかもしれない。

 普段、本の世界に没頭することで保っていた心の平穏が乱されている。

 それが読書への拒否反応として表れているということだろうか。


「……自分でもおかしいって分かってる。たかが本が読めないくらいでこんなに悩むなんて」


 栞は自嘲するように呟いた。

 その瞳には涙が滲んでいる。


「くだらなくないって前にも言っただろ」


 俺は静かに、しかしきっぱりと言った。


「月見里さんにとってそれがどれだけ大事なことか。俺には想像することしかできないけど、辛いのはすごく伝わるよ」


 俺の言葉に栞ははっとしたように顔を上げた。

 その瞳がわずかに潤んでいるように見えた。


「……でもどうしたらいいのか分からない」


 弱々しい声だった。

 普段の彼女からは想像もできないような。


 俺はしばらく黙って考えた。

 そして以前彼女に提案したことをもう一度口にしてみることにした。


「もしかしたらさ」


 俺はゆっくりと言葉を選びながら言った。


「本当に今は、無理に読もうとしなくてもいいのかもしれないぞ」

「……でも」


 栞が何か言いかけたのを俺は手で制した。


「焦る気持ちは分かる。でも焦れば焦るほど苦しくなるだけじゃないか? 『読めない』って思うことが、さらに読むのを難しくしてるみたいな」

「……悪循環ってこと?」

「そうかもしれない。だからいっそ、しばらく本から離れてみたらどうだ? 夏休みも始まることだし」

「……本から離れる」


 栞はその言葉を信じられないといった表情で繰り返した。

 彼女にとってそれは自分のアイデンティティの一部を捨てるような感覚なのかもしれない。


「怖いのは分かる。でももしかしたらそれが一番の近道かもしれない。本を読むことだけが全てじゃないだろ?」


 俺は続けた。


「最近の月見里さん、少しずつだけど変わってきてるじゃないか。人と話したり、誰かに親切にしたり。そういう本以外の世界に目を向けてみるのも、悪くないんじゃないか?」


 俺の言葉に栞は複雑な表情で黙り込んだ。

 俯いて何かを必死に考えているようだ。

 長い沈黙が、蝉の声だけが響く部室に流れた。


 やがて彼女はゆっくりと顔を上げた。

 その瞳にはまだ迷いの色が濃く残っている。

 でもほんの少しだけ、何かが吹き切れたようなそんな気配も感じられた。


「……人と関わるのは、やっぱり難しい」


 彼女はぽつりと言った。


「そうだな。俺も得意じゃない」


 俺は正直に答えた。


「……でも」


 栞は続けた。


「……水澄くんの言うこと。……少しだけ考えてみる」


 その言葉はまだか細かったけれど、以前とは違う確かな響きを持っていた。

 彼女の中で何かが動き出そうとしている。

 そう感じさせるには十分だった。


「焦らなくていい。ゆっくりでいいからさ」


 俺はそう言って小さく微笑んだ。


 栞はこくりと頷くと、閉じた本をそっと鞄にしまった。

 そして立ち上がり、窓の外に目をやった。

 夏の強い日差しが彼女の横顔を照らしている。

 その表情はまだ硬かったけれど、ほんのわずかに未来を見据えるようなそんな力が宿っているように見えた。


 本が読めないという悩みはまだ解決していない。

 でも彼女はその悩みと向き合うための新しい一歩を踏み出そうとしているのかもしれない。

 俺はそんな栞の背中をただ静かに見守っていた。

 夏の終わりの静寂の中で、何かが変わる予感が確かにそこにはあった。

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