第13話 湯気の向こうの内心と、梅雨空の日常
梅雨空が続く。
今日は朝から霧雨が降ったり止んだりしていて、空はどんよりと白い。
湿度はいやというほど高く、旧校舎の廊下を歩くだけで、肌がじっとりと汗ばむ。
お悩み相談部の部室も例外ではなく、窓を開けていても空気の流れはほとんど感じられなかった。
今日の部室は、比較的賑やかだった。
と言っても、いるのはいつもの顔ぶれなのだが。
窓際の定位置には月見里 栞。
俺の斜め前には朝霧 陽奈。
そして正面には姫宮 玲奈先輩。
「もう……この湿気、どうにかならないのかしら」
玲奈先輩が、優雅な手つきで自分の額の汗をハンカチで拭いながら、不機嫌そうに呟いた。
彼女は今日も、何かのレポートか書類作成に取り組んでいる。
完璧に見える彼女にも、地道な作業が必要な時があるらしい。
「本当に、蒸し暑いですね……」
陽奈が同意するように言った。
彼女は、今日は勉強道具ではなく、小さなスケッチブックを広げている。
何か絵でも描いているのだろうか。
栞は……相変わらず、黙って本を読んでいる。
今日は、少し厚めのハードカバーの本だ。
タイトルは……見えない。
彼女と陽奈の間には、やはり見えない壁があるようで、二人が言葉を交わす気配はない。
「……水澄くん。お茶、お願いできるかしら」
玲奈先輩が、俺に声をかけた。
もはや、完全に俺の仕事として認識されている。
「はいはい」
俺が立ち上がると、陽奈も「あ、私もお願いします!」と言い、栞も、本から顔を上げずに小さく手を挙げた。
全員分か。
やれやれ。
俺が電気ケトルに水を入れ、スイッチを入れる。
紙コップとティーバッグを用意していると、玲奈先輩がすっと立ち上がった。
「……私が淹れるわ。あなたは座っていなさい」
「え? いや、俺がやりますよ」
「いいから。たまには、私が淹れた美味しいお茶を飲ませてあげるわ。感謝なさい」
玲奈先輩は、有無を言わせぬ口調で言うと、俺からティーバッグの箱を取り上げた。
そして、慣れた……というよりは、少し大雑把な手つきで、紙コップにティーバッグを放り込んでいく。
まあ、手際が良いと言えなくもないが。
湯が沸くと、玲奈先輩は、ためらうことなく熱湯を紙コップに注いだ。
バシャッ、と少しお湯が跳ねたが、彼女は気にする様子もない。
(……随分と、雑な淹れ方だな)
俺は内心でそう思ったが、口には出さない。
淹れてくれるだけ、ありがたいと思わなければ。
玲奈先輩は、自分の分を含めた三つの紙コップを、それぞれの席に配っていく。
陽奈は「ありがとうございます!」と恐縮しきりだ。
栞は、黙って受け取り、静かに一口飲んだ。
その表情は、やはり読めない。
玲奈先輩は、自分の席に戻ると、ふんぞり返って自分の淹れたお茶を飲んでいる。
「まあ、安物にしては、私の腕でそこそこの味になったわね」などと、自画自賛しているが、誰も聞いていない。
しばらくして、俺も自分の分を淹れようと、再びケトルでお湯を沸かした。
すると、今度は、窓際の栞が、すっと立ち上がった。
「……手伝う」
彼女は、小さな声でそう言うと、俺の隣に来て、新しい紙コップを用意し始めた。
その手つきは、玲奈先輩とは対照的に、非常に丁寧で、どこか儀式的ですらあった。
ティーバッグをそっと置き、沸いたお湯を、静かに、円を描くように注いでいく。
(……ずいぶん、丁寧だな。時間がかかりそうだ)
俺は、またしても内心で思った。
お茶の淹れ方一つにも、性格が出るものらしい。
栞は、俺の分の紙コップを、両手でそっと差し出してきた。
「……どうぞ」
「あ、ああ……ありがとう」
俺は礼を言って受け取った。
ふわりと、緑茶の良い香りが立つ。
確かに、玲奈先輩が淹れた時よりも、香りが良いような気がする。
栞は、自分の分も同じように丁寧に淹れると、静かに自分の席に戻っていった。
その一連の動作を、正面の玲奈先輩が、じっと観察していた。
そして、栞が席に着くと、ふん、と鼻を鳴らした。
「……まどろっこしいわね。お茶くらい、もっと手早く淹れられないのかしら」
玲奈先輩の、明らかに栞に向けられた独り言(にしては声が大きいが)。
栞は、ぴくりと肩を震わせたが、何も言い返さずに、自分の淹れたお茶を静かに飲み始めた。
しかし、その口元は、心なしか不満げに結ばれているように見えた。
(あー……また、微妙な空気に……)
俺は、内心で頭を抱えた。
お茶の淹れ方一つで、こうも険悪なムードになるものか。
まあ、この二人の相性が良くないのは、なんとなく分かる気がするが。
正反対のタイプ、という感じだ。
陽奈は、そんな二人の様子を、オロオロと窺っている。
彼女にとっては、針の筵だろう。
可哀想に。
俺は、この場の空気を変えようと、無理やり明るい声を出した。
「さーて、俺もレポート、少し進めるかなー」
鞄からノートとファイルを取り出し、机の上に広げる。
しかし、集中できるはずもなかった。
右からは栞の静かな圧力、正面からは玲奈先輩の不機嫌なオーラ、そして左からは陽奈の困惑した視線を感じる。
……ここは、本当に『お悩み相談部』なのだろうか。
むしろ、悩みが増える場所になっているような気がしないでもない。
少なくとも、俺の悩みは増えている。
窓の外では、いつの間にか雨足が強まっていた。
ザーザーと、激しい雨音が、部室の奇妙な静寂と対照的に響き渡る。
まるで、この不安定な日常が、いつか決壊してしまうことを暗示しているかのように。
俺は、ただ、早くこの梅雨が終わることを願うしかなかった。
もちろん、天気の話だ。