第12話 束の間の晴れ間と、二人きりの静寂
本日二話目
梅雨の中休み、というのだろうか。
昨日までの激しい雨が嘘のように上がり、空には久しぶりに青空が広がっていた。
とはいえ、空気は相変わらず湿気をたっぷりと含んでいて、少し動くと汗ばむほどだ。
窓を開け放ったお悩み相談部の部室には、むわりとした生暖かい風と、校庭から聞こえる生徒たちの賑やかな声が流れ込んでくる。
今日の部室も、いつものメンバーがそれぞれの定位置についていた。
窓際の栞、俺の斜め前の陽奈、そして正面の玲奈先輩。
俺は中央で、読みかけの文庫本の続きを読む。
昨日までの雨音が嘘のように静かで、なんだか拍子抜けするくらいだ。
「あ、あの……先輩」
不意に、陽奈が遠慮がちに声をかけてきた。
彼女は、困ったような顔で数学の教科書とノートを交互に見ている。
「この問題……どうしても解き方が分からなくて……。もし、よかったら、少しだけ教えてもらえませんか?」
「ん? ああ、いいぞ」
俺は本を閉じ、陽奈のノートを覗き込んだ。
ふむ、確かに少し複雑な応用問題だ。
俺が解説を始めると、陽奈は真剣な表情で耳を傾けている。
時折、こくりと頷いたり、小さな声で質問したりする。
最初の頃に比べると、ずいぶんと積極的にコミュニケーションを取れるようになったものだ。
その様子を、正面の玲奈先輩が、レポートから顔を上げて、じっと見ていた。
その視線には、どこか面白くなさそうな色が混じっているように見えるのは……まあ、気のせいだろう。
栞は、相変わらず窓際で本を読んでいる。
ように見えるが、そのページをめくる手が、一瞬止まったような気がした。
「……なるほど! 分かりました! ありがとうございます、先輩!」
しばらくして、陽奈がぱあっと顔を輝かせた。
どうやら、疑問は解決したらしい。
「どういたしまして。頑張れよ」
「はいっ!」
陽奈は嬉しそうに頷くと、再び問題に取り組み始めた。
その時、不意に彼女が「あっ」と小さな声を上げた。
「どうした?」
「えっと……消しゴム、教室に忘れてきちゃったみたいで……。すみません、ちょっと取ってきます!」
陽奈はそう言うと、慌てたように席を立ち、部室を出て行った。
廊下を駆けていく足音が聞こえる。
「……やれやれ、そそっかしいな」
俺が苦笑いしていると、今度は正面の玲奈先輩が、すっと立ち上がった。
「……水澄くん。ちょっと、資料室に行ってくるわ。レポートに必要な文献、忘れてきちゃったから」
「え? ああ、はい。いってらっしゃい」
俺が言うと、玲奈先輩は「すぐ戻るわ」と言い残し、優雅な足取りで部室を出て行った。
こちらも、忘れ物か。
珍しいこともあるものだ。
……ん?
ということは……。
俺は、ふと気づいた。
今、この部室に残っているのは、俺と……窓際の栞だけだ。
二人きり。
こんな状況は、初めてかもしれない。
急に、妙な沈黙が訪れた。
さっきまで陽奈や玲奈先輩がいた時の、表面張力のような緊張感とは違う、もっと静かで、どこか張り詰めたような空気。
栞は、依然として本に視線を落としたままだ。
長い黒髪が、さらりと頬にかかっている。
その横顔は、相変わらず何を考えているのか読み取れない。
俺は、なんとなく手持ち無沙汰になり、読みかけの本に手を伸ばした。
しかし、どうにも集中できない。
二人きりの静寂が、妙に意識されてしまう。
(……何か、話した方がいいのか?)
いや、でも、何を話せばいい?
本の感想でも聞くか?
でも、彼女が今読んでいる本が、あの恋愛小説だったら……また、気まずい空気になるかもしれない。
前回借りたファンタジー小説の話なら……いや、そもそも読み終えているのかどうかも分からない。
俺が一人で悶々としていると、不意に、栞が顔を上げた。
そして、じっと俺の方を見つめてきた。
その黒い瞳は、どこか吸い込まれそうな深さを持っている。
「……どうかした?」
俺は、少しどきりとしつつ、尋ねた。
「……別に」
栞は短く答えた。
そして、すぐに視線を本に戻してしまう。
……なんだ、今の間は。
何か言いたいことでもあったのだろうか。
それとも、ただ、俺が挙動不審だったから気になっただけか。
再び、沈黙。
窓の外からは、楽しそうな生徒たちの声が聞こえてくるのに、この部室の中だけが、別の時間が流れているようだ。
湿った風が吹き込み、栞の髪を小さく揺らす。
その瞬間、彼女がつけているのか、あるいは本の栞から香るのか、微かに甘く、爽やかなフローラル系の香りが漂ってきたような気がした。
以前、彼女の落とし物の栞を拾った時にも感じた、あの香りだ。
俺が、その香りの正体について考えを巡らせていると。
ガラッ。
引き戸が開く音がして、陽奈が息を切らして戻ってきた。
「はぁ……はぁ……先輩、お待たせしました!」
彼女は、額の汗を拭いながら、自分の席に戻る。
「おお、おかえり。見つかったか?」
「はい! ちゃんと机の中にありました!」
陽奈が笑顔で答える。
彼女が戻ってきたことで、部室の空気は少しだけ、いつもの日常に戻ったような気がした。
しかし、俺と栞の間に流れた、あの数分間の奇妙な静寂は、妙に印象に残っていた。
さらに数分後、玲奈先輩も戻ってきた。
手には、数冊の分厚い本を抱えている。
「ふぅ……重かったわ」
玲奈先輩は、少し疲れた様子で自分の席に座ると、抱えてきた本を机に置いた。
そして、俺に向かって、
「水澄くん、お茶、もう一杯もらえるかしら? 喉が渇いたわ」
と、いつもの調子で命令する。
「はいはい……」
俺が立ち上がると、陽奈も「あ、じゃあ、私もお願いします!」と遠慮がちに言った。
栞は……相変わらず無言だ。
「月見里さんは、いらないか?」
俺が念のため尋ねると、栞は本から顔を上げずに、小さく首を横に振った。
まあ、そうだろうな。
俺は、三つの紙コップを用意し、電気ケトルでお湯を沸かし始めた。
その間、玲奈先輩は、レポート作成に戻り、陽奈は数学の問題に再び取り組み始めている。
さっきまでの、俺と栞の二人きりの時間は、まるで幻だったかのように、いつもの相談部の風景がそこにはあった。
だが、確かに、何かが少しずつ変化している。
彼女たちの定位置。
それぞれの過ごし方。
そして、時折見せる、微妙な表情や態度の変化。
俺の知らないところで、水面下では複雑な感情が交錯しているのかもしれない。
まあ、俺には関係ないことだ。
……と、思いたい。
俺は、ただ、この梅雨が早く明けて、もっとカラッとした日常が戻ってくることを願うばかりだ。
もちろん、それは天気の話であって、人間関係の話ではない。
断じて。
俺は、沸いたお湯を紙コップに注ぎながら、そんなことを考えていた。
緑茶の香りが、湿った空気にふわりと広がった。
★があればもっと強くなれる!?