第10話 鉢合わせと、恋愛小説と、不穏な沈黙
数日降り続いた雨が嘘のように上がり、久しぶりに太陽が顔を出した放課後。
梅雨の晴れ間特有の、蒸し暑い空気が校舎に満ちている。
旧校舎の三階、お悩み相談部の部室の窓は開け放たれ、湿った風が緩やかに吹き込んでいた。
「……それで、この間のテスト、なんとか赤点は回避できたんです!」
俺の目の前で、後輩の朝霧 陽奈が、少し興奮した様子で話している。
手には、答案用紙らしきものが握られていた。
「おお、それはよかったじゃないか。頑張ったんだな」
俺が相槌を打つと、陽奈は「えへへ……先輩に、前に勉強教えてもらったおかげです」と、はにかみながら言った。
そんな大したことはしていないはずだが、彼女なりに努力した結果なのだろう。
最初の頃に比べると、表情もずいぶんと明るくなった。
こうして、他愛ない会話ができるようになっただけでも、大きな進歩だ。
和やかな空気が流れていた、その時だった。
ガラ……。
静かに、引き戸が開く音がした。
反射的にそちらを見ると、月見里 栞が立っていた。
いつものように、表情はあまり変わらないが、その手には一冊の文庫本が握られている。
今日は、図書館で借りたファンタジー小説ではないようだ。
淡いピンク色の表紙に、どこか少女漫画チックなイラストが描かれている。
「……こんにちは」
栞は、俺と陽奈を一瞥して、短く挨拶した。
「月見里さん、こんにちは」
俺が返すと、陽奈も少し緊張した面持ちで、「や、月見里先輩……こんにちは」と挨拶した。
栞は、陽奈に視線を向け、こくりと小さく頷いた。
やはり、二人の間にはまだ距離がある。
栞は、そのまま自分の定位置である、少し離れた椅子に向かおうとした。
その時、ふと、陽奈の視線が栞の持つ文庫本に注がれていることに、俺は気づいた。
陽奈は、まるで金縛りにあったかのように、栞の手元を凝視している。
その表情は、驚きと、困惑と、そして……何か別の、読み取れない感情が混じり合っているように見えた。
栞も、陽奈の視線に気づいたのだろうか。
足を止め、わずかに眉をひそめた。
そして、自分が持っている文庫本に視線を落とす。
その本のタイトルは、『君といた季節の終わりに』。
いかにも、な感じの恋愛小説だ。
栞が、こんなストレートな恋愛小説を読むとは、少し意外だった。
「……何か?」
栞が、低い声で陽奈に尋ねた。
その声には、わずかに警戒心のようなものが含まれている。
「あ……い、いえ……! ご、ごめんなさい……!」
陽奈は、はっと我に返ったように、慌てて視線を逸らし、ぶんぶんと首を横に振った。
その顔は、みるみるうちに青ざめていく。
まるで、見てはいけないものを見てしまったかのような反応だ。
「……そう」
栞は、それ以上何も言わず、自分の席へと向かった。
そして、椅子に腰を下ろすと、持っていた恋愛小説を開き、読み始めた。
しかし、その視線は、どこか落ち着かない様子で、ページの上を滑っているように見える。
部室の中には、重苦しい沈黙が支配していた。
さっきまでの和やかな空気は、一瞬にして消え去ってしまった。
陽奈は、俯いたまま、指先をきつく握りしめている。
肩が、小刻みに震えているようだ。
栞は、本に視線を落としたまま、ぴくりとも動かない。
ただ、その横顔は、いつも以上に硬く、近寄りがたい雰囲気を醸し出している。
……なんだ? 一体、何が起こったんだ?
俺は、目の前で繰り広げられている無言のドラマを、全く理解できずにいた。
陽奈は、なぜあんなに動揺していたのだろうか?
栞が持っていた恋愛小説が、何か特別な意味を持っていたのか?
それとも、栞が恋愛小説を読んでいること自体が、陽奈にとって衝撃だったとか?
分からない。
さっぱり分からない。
だが、この場の空気は、明らかに異常だ。
まるで、薄い氷の上を歩いているような、危うい緊張感。
陽奈と栞の間には、目に見えない壁のようなものが、さらに厚く、高く聳え立ったように感じられた。
俺は、何か言葉をかけようかと思った。
この重苦しい沈黙を、どうにかして破らなければならない。
しかし、何を言えばいいのか、全く見当がつかない。
下手に口を開けば、さらに状況を悪化させてしまうかもしれない。
結局、俺は何も言えなかった。
ただ、黙って、俯く陽奈と、本を読む(ふりをしている?)栞を、交互に見ることしかできなかった。
窓の外では、梅雨の晴れ間の太陽が、容赦なく強い日差しを投げかけている。
だが、この部室の中だけは、まるで真冬のように冷え切った空気が漂っていた。
時計の針が、やけにゆっくりと進むように感じる。
チクタク、チクタク……。
秒針の音だけが、気まずい沈黙の中で、不気味に響いていた。
これから、この関係は、どうなっていくのだろうか。
穏やかだったはずの相談部に、静かな嵐が近づいている。
そんな、不穏な予感だけが、胸の中に広がっていった。
勘違いだらけの日常は、新たな局面を迎えようとしていた。
それは、彼女たちの小さな一歩が、思わぬ方向へと交差し始めた瞬間だったのかもしれない。