第1話 押し付けられた相談部と、花曇りの空
新学期の喧騒が少しずつ落ち着き始めた、四月のある日の放課後。
窓の外には、まだ満開には早い桜の蕾が、薄曇りの空の下で開花の時を待っていた。
俺、水澄 透は、やけに重い足取りで旧校舎へと続く渡り廊下を歩いていた。
目的地は、三階の突き当りにある空き教室。
今日からそこが、俺の新たな活動場所になるらしい。
らしい、というのは、実に不本意な経緯で決まったからだ。
「よお、透。ちゃんと来たか」
背後から呑気な声がかかる。
振り返るまでもない。
この状況を作り出した張本人、俺の友人である高坂 拓也だ。
肩を竦めて振り返ると、拓也はニヤニヤしながら近づいてきた。
「……お前のせいだからな、これは」
俺は低い声で言った。
「人聞きの悪いこと言うなよ。俺のおかげだろ? 部室まで用意してやったんだぞ」
「頼んでないし、そもそも俺は入りたいなんて一言も……」
「まあまあ、固いこと言うなって。ほら、着いたぞ。ここだ、ここ」
拓也はそう言って、古びた教室の引き戸をガラリと開けた。
埃っぽい匂いと、微かに黴の匂いが混じって鼻をつく。
教室の中には、使い古された長机が一つと、パイプ椅子が数脚。
隅には、誰が置いたのか、用途不明のダンボール箱が積まれている。
お世辞にも快適とは言えない空間だ。
「……本当にここなのか? 物置じゃないのか?」
「失礼なやつだな。ちゃんと掃除もしておいたんだぞ? まあ、俺がやったわけじゃないけど」
「だろうな」
拓也は悪びれもなく胸を張る。
「で、肝心の『アレ』はどこにあるんだ?」
俺は訝しげに室内を見回しながら尋ねた。
拓也が言うには、この空き教室を使うにあたって、何か特別なものが用意されているはずなのだが。
「ああ、『アレ』な。ちゃんと設置済みだ。ほら、あそこ」
拓也が指さしたのは、教室の入り口、ちょうどドアの横の壁だ。
そこには、真新しい木の看板が掛けられていた。
達筆とは言えないが、どこか温かみのある文字で、こう書かれている。
『お悩み相談部』
……。
……。
……。
しばしの沈黙。
「…………は?」
俺は間の抜けた声を出した。
「だから、『お悩み相談部』だって。今日からお前が部長を務める、輝かしい部の名前だ」
「いや、待て。待ってくれ、拓也。話が違うだろ。俺はただ、放課後に静かに過ごせる場所が欲しいって……」
「だから用意してやったじゃないか。旧校舎の三階、普通科の生徒はまず寄り付かない。最高のロケーションだろ? おまけに『部活動』っていう大義名分付きだ」
「大義名分って……お悩み相談部ってなんだよ! 俺、悩み相談なんてやったことないぞ!?」
「大丈夫だって。お前、昔から妙に聞き上手だし、人の話、否定しないだろ? 適任だよ、適任」
拓也はポンポンと俺の肩を叩く。
軽い調子だが、有無を言わせない圧があった。
事の発端は、数日前の昼休みだ。
新学期が始まり、クラスの雰囲気にもまだ慣れない中、俺は昼食後の時間をどこか静かな場所で過ごせないかと拓也に愚痴をこぼした。
教室は騒がしいし、図書室は少し窮屈だ。
中庭のベンチもいいが、天気が悪い日は使えない。
そんな他愛ない話だったはずだ。
ところが、生徒会役員でもある拓也は、その話を妙に真剣に受け止めたらしい。
「任せろ! 俺にいい考えがある!」
そう言って教室を飛び出していった拓也が、翌日持ってきたのがこの話だった。
曰く、学校には正式に届け出ていない、いわゆる『非公認』の部活動のような形で、空き教室の使用許可を取り付けた、と。
その活動内容が『お悩み相談』だというのだ。
「なんで相談部なんだよ……。もっとこう、読書部とか、昼寝部とか……」
「そんなふざけた部活、許可が下りるわけないだろ。でもな、『生徒の悩みに寄り添う』っていう名目なら、先生方も悪い気はしない。むしろ、昨今のメンタルヘルス重視の流れに乗っかれるってわけよ」
拓也はしたり顔で説明する。
「それに、一応『部』って形にしておけば、他の連中も無闇に入ってきづらいだろ? お前の望み通り、静かな空間は確保できるはずだ」
「……本当に誰も来ないだろうな?」
俺は半信半疑で尋ねる。
こんな怪しげな名前の部に、わざわざ悩みを相談しに来る生徒がいるとは思えないが。
「まあ、たぶん? 知らんけど」
「おい!」
「大丈夫だって! 看板だって、敢えてちょっと古めかしい感じのデザインにしてもらったんだから。今どきのキラキラした悩みを持つ生徒は、まず近寄らんだろ」
「……そういう問題か?」
俺は深いため息をついた。
なんだか、とんでもないことに巻き込まれた気がする。
だが、今更断ることもできない。
拓也はすでに、担任や関係各所に話を通してしまっているらしい。
俺の名前で。
「まあ、そういうわけだから。部長、しっかり頼むぞ」
拓也はニヤリと笑って、再び俺の肩を叩いた。
「俺はこれから生徒会の仕事があるから、これで失礼するわ。鍵はこれな。ちゃんと戸締りしろよ」
そう言って、古風な鍵を俺の手に押し付けると、拓也はさっさと教室を出て行った。
一人、がらんとした教室に残される。
窓の外では、いつの間にか陽が傾き始めていた。
教室に差し込む西日が、埃をキラキラと照らし出している。
「……お悩み相談部、ねえ」
俺はもう一度、壁に掛けられた看板を見上げた。
見れば見るほど、胡散臭い。
本当に、こんな場所に誰か来るのだろうか。
いや、来ないでほしい。
俺はただ、静かに本でも読んで過ごしたいだけなのだ。
「まあ、いいか……。どうせ誰も来ないなら、ただの自習室だと思えば……」
俺は自分に言い聞かせるように呟き、長机の前のパイプ椅子に腰を下ろした。
ギシリ、と椅子が軋む音が、やけに大きく響いた。
持ってきた文庫本を開く。
今日のところは、このまま静かに時間が過ぎるのを待とう。
そう思っていた、矢先だった。
ガラッ。
再び、教室の引き戸が開く音がした。
まさか、拓也が忘れ物でもしたのか?
そう思って顔を上げると、そこに立っていたのは、見慣れない制服の女子生徒だった。
小柄で、少し怯えたような表情をしている。
うちの高校の制服だが、学年を示すリボンの色が違う。
おそらく、新入生だろう。
「あの……」
彼女は、か細い声で言った。
「ここって……『お悩み相談部』……ですか?」
俺は思わず、手に持っていた文庫本を取り落としそうになった。
嘘だろ。
設立初日に、相談者が現れるなんて。
しかも、見るからに何か深刻な悩みを抱えていそうな雰囲気だ。
俺は内心の動揺を悟られないように、努めて平静を装って答えた。
「あ、ああ……そうだけど。何か用かな?」
彼女は、おずおずと一歩、教室の中に足を踏み入れた。
「あの……相談、したいことが……あって……」
俯いた彼女の表情はよく見えない。
ただ、その声は微かに震えているように聞こえた。
俺は、数秒前までの自分の考えの甘さを呪った。
どうやらこの『お悩み相談部』、本当に相談者が来てしまうらしい。
しかも、よりにもよって、俺が一番苦手そうなタイプだ。
窓の外では、桜の蕾が風に揺れていた。
これから始まるであろう、波乱に満ちた日々を予感させるかのように。
俺の、不本意ながらも始まった『お悩み相談部』での日常は、こうして静かに、そして唐突に幕を開けたのだった。
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