シーン5:小さなきっかけ
シーン5:小さなきっかけ
眠れなかった。
布団に入っても、頭の中はノイズだらけで、どこにも安らぎがない。
天井を見つめ、スマホを何度も開いては閉じる。
SNSも、ニュースも、動画アプリも、どれも飽き飽きしていた。
現実逃避すらできない。
ふと、指が止まった。ネット掲示板のひとつ――半分荒らしみたいな書き込みと、自分語り、宣伝が混じる匿名掲示板。
普段ならスクロールして素通りするような投稿に、なぜか目が止まった。
《異世界通販スキル習得者募集》
……何だ?
ふざけてる。いや、確実にふざけている。
最初はそう思った。だけど、その夜の利著には、ほんのわずかな“引っかかり”があった。
「異世界」も「スキル」も、どこかで聞き飽きた言葉。
だけど、“通販”という単語が妙にリアルだった。
リンクを踏むと、簡素な特設サイトが開いた。
テキストだけのページに、こう書かれていた。
この世界では報われない者たちへ。
少ない資金で始められる、新たな生き方を。
スキル習得者には、異世界とつながる「通販窓口」を提供します。
意味はわからない。だが、嘘だと決めつけるほどの理性も、今の利著にはなかった。
「……これなら、少ない資金でも何か変わるかもしれない」
声には出していない。だが、確かにそう思った。
競輪場で積み重ねる売上、八百屋の研修、貯金の残額、増えない時給。
どこを見ても希望がない。だからこそ、「現実ではない何か」にすがる自分がいた。
もしこれが詐欺でも、別に構わなかった。
金を失って困るほどの余裕はない。むしろ、「何かをしてみた」という事実だけでも、今の自分には意味があるような気がした。
それは、敗北でも現実逃避でもなく、「行動」だった。
本当にくだらないかもしれない。
でも、それを笑えるほど強くはなかった。
画面を閉じたあと、少しだけ深呼吸して、布団の中で目を閉じた。
心のどこかで、ずっと冷えていた場所に、ほんのかすかな熱が灯った気がした。
小さな火種。
今にも消えそうで、それでも確かに存在している。
それが「希望」かどうかは、まだわからない。
だけど、何かが動き出す予感だけは、はっきりとあった。
翌朝、目覚めたとき、体の重さは変わらなかった。
競輪場も、八百屋も、何も変わらない日常が待っていた。
だが、利著はスマホを見た。
履歴から、昨夜のページをもう一度開く。
そこにあったのは、ただの「応募ボタン」だった。
利著は、指をのばした。
迷いはあった。
くだらないとも思った。
でも、その迷いすら、自分にとっては「生きている証」のように思えた。
──送信。
クリック音のないスマホの画面。何も反応は返ってこなかった。
けれど、たしかに何かが始まった気がした。
それは「餓鬼道」の底で、唯一感じた“自分で選んだ行動”だった。