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玉岡利著の10段階成長物語  作者: 斉藤
第2章 餓鬼道
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シーン4:満たされない心

シーン4:満たされない心


夜、アパートのドアを閉めた瞬間、玉岡利著は息を吐き出すようにして壁にもたれかかった。

靴を脱ぐ気力もなく、床に崩れ落ちる。電気はつけなかった。

玄関の足元から、薄闇の部屋全体を見渡す。


静かだった。外の世界の音は遠く、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。


バッグから財布を取り出し、無意識に開く。中にはレシート数枚と、しわくちゃの千円札が一枚だけ。あとは、小銭が数枚。


「……これだけか」


利著は思わず笑った。乾いた、音にならない笑いだった。

朝から競輪場で怒鳴られ、午後は八百屋で笑顔を作って、誰かの機嫌をうかがいながら野菜を並べた。


その結果が、これだ。


財布の中身を指先で確かめながら、利著は思った。自分は今日、何を得たのか。

金ではない。それは確かだ。


疲れただけだ。足は痛み、肩はこり、喉は枯れ、目の奥がじんじんする。

部屋の空気は冷たく、食べるものも残っていない。シャワーを浴びるのも面倒で、ただその場に座り込んだ。


財布をポケットに戻し、電気もつけないまま、利著はベッドの上に寝転がった。

天井を見つめる。何も見えない。暗闇に馴染んだ目で、それでも何かを探そうとしてしまう。


心の中にぽっかりと空いた隙間。

その正体は、空腹じゃない。金でもない。


「……手に入れても、何も得られない」


独り言のように、ぽつりとつぶやいた。


「これが……餓鬼道か」


ようやくその言葉の意味を、少し理解した気がした。

欲しいものを求めて、手を伸ばし、やっと掴んだと思っても、指の隙間からすり抜けていく。

満たされることがない。

もっと金があれば。

もっと休みがあれば。

もっと評価されれば。


そう願い続けてきた。


でも、それらは手に入れても、心の渇きを癒してはくれなかった。


自分は何のために働いているのか?

何のために外に出たのか?

なぜ生きているのか?


その問いに、いまだ答えはない。


八百屋の新人たちは、「未来」を見ていた。

競輪場の常連たちは、「一発逆転」を夢見ていた。


では、自分は?


何を見て、何を目指しているのか。

何もない。

本当に、何もない。


ただ「失わないように」と思って働いているだけだ。

居場所、信用、生きる手段。

それらが崩れ落ちないように、毎日少しずつ、自分を削って耐えているだけ。


それが生活だと言われれば、きっとそうだろう。

でも、それだけではあまりに虚しい。


どこで間違ったのか。

自分のどこがダメだったのか。

もっと頑張れたのか、違う道があったのか。


考えれば考えるほど、出口のない迷路をさまよっているような気分になる。


そして結局、思考はひとつの場所に戻ってくる。


──心が、満たされない。


金でもない、モノでもない。

たった一言の「おつかれさま」とか、「ありがとう」とか。

誰かとちゃんと話す時間とか、温かいご飯とか。

そういう当たり前のものが、今の自分には遠すぎる。


手を伸ばせば届きそうで、でもいつもすり抜けていく。


欲しいものを追いかけているうちに、本当に大切なものを忘れてしまったのかもしれない。


利著は、静かに目を閉じた。


今日も、明日も、同じ日が繰り返されるのだろう。

けれど、今夜だけは、この虚しさに向き合っていたかった。

逃げずに、誤魔化さずに。


暗闇の中で、自分の渇いた心の音だけが響いていた。

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