シーン4:満たされない心
シーン4:満たされない心
夜、アパートのドアを閉めた瞬間、玉岡利著は息を吐き出すようにして壁にもたれかかった。
靴を脱ぐ気力もなく、床に崩れ落ちる。電気はつけなかった。
玄関の足元から、薄闇の部屋全体を見渡す。
静かだった。外の世界の音は遠く、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる。
バッグから財布を取り出し、無意識に開く。中にはレシート数枚と、しわくちゃの千円札が一枚だけ。あとは、小銭が数枚。
「……これだけか」
利著は思わず笑った。乾いた、音にならない笑いだった。
朝から競輪場で怒鳴られ、午後は八百屋で笑顔を作って、誰かの機嫌をうかがいながら野菜を並べた。
その結果が、これだ。
財布の中身を指先で確かめながら、利著は思った。自分は今日、何を得たのか。
金ではない。それは確かだ。
疲れただけだ。足は痛み、肩はこり、喉は枯れ、目の奥がじんじんする。
部屋の空気は冷たく、食べるものも残っていない。シャワーを浴びるのも面倒で、ただその場に座り込んだ。
財布をポケットに戻し、電気もつけないまま、利著はベッドの上に寝転がった。
天井を見つめる。何も見えない。暗闇に馴染んだ目で、それでも何かを探そうとしてしまう。
心の中にぽっかりと空いた隙間。
その正体は、空腹じゃない。金でもない。
「……手に入れても、何も得られない」
独り言のように、ぽつりとつぶやいた。
「これが……餓鬼道か」
ようやくその言葉の意味を、少し理解した気がした。
欲しいものを求めて、手を伸ばし、やっと掴んだと思っても、指の隙間からすり抜けていく。
満たされることがない。
もっと金があれば。
もっと休みがあれば。
もっと評価されれば。
そう願い続けてきた。
でも、それらは手に入れても、心の渇きを癒してはくれなかった。
自分は何のために働いているのか?
何のために外に出たのか?
なぜ生きているのか?
その問いに、いまだ答えはない。
八百屋の新人たちは、「未来」を見ていた。
競輪場の常連たちは、「一発逆転」を夢見ていた。
では、自分は?
何を見て、何を目指しているのか。
何もない。
本当に、何もない。
ただ「失わないように」と思って働いているだけだ。
居場所、信用、生きる手段。
それらが崩れ落ちないように、毎日少しずつ、自分を削って耐えているだけ。
それが生活だと言われれば、きっとそうだろう。
でも、それだけではあまりに虚しい。
どこで間違ったのか。
自分のどこがダメだったのか。
もっと頑張れたのか、違う道があったのか。
考えれば考えるほど、出口のない迷路をさまよっているような気分になる。
そして結局、思考はひとつの場所に戻ってくる。
──心が、満たされない。
金でもない、モノでもない。
たった一言の「おつかれさま」とか、「ありがとう」とか。
誰かとちゃんと話す時間とか、温かいご飯とか。
そういう当たり前のものが、今の自分には遠すぎる。
手を伸ばせば届きそうで、でもいつもすり抜けていく。
欲しいものを追いかけているうちに、本当に大切なものを忘れてしまったのかもしれない。
利著は、静かに目を閉じた。
今日も、明日も、同じ日が繰り返されるのだろう。
けれど、今夜だけは、この虚しさに向き合っていたかった。
逃げずに、誤魔化さずに。
暗闇の中で、自分の渇いた心の音だけが響いていた。