表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
玉岡利著の10段階成長物語  作者: 斉藤
第2章 餓鬼道
7/67

シーン3:二重生活の疲弊

シーン3:二重生活の疲弊


夕方の薄暗い空の下、玉岡利著は重たい体を引きずるようにして、八百屋チェーン本部の研修室に向かった。


朝は競輪場。怒号と煙草の匂い、冷え切った窓口での立ち仕事。

そこを終えて、昼過ぎに売場を出たら、缶コーヒー1本で疲れを誤魔化して、電車を乗り継ぎ、今はここ。


八百屋の研修室は、見た目こそ清潔で明るかったが、利著にとってはただの「もうひとつの戦場」だった。


「今日から現場研修に入ってもらいますね」


そう言われ、支店の一角に立たされてから、もう数日が経つ。

やることは単純だ。マニュアルに書いてある通り、野菜を並べ、商品ラベルを貼り、客が来たら笑顔で「いらっしゃいませ」と声を出す。


だが、頭の中はまったく別のことで埋め尽くされていた。


──どうすればもっと稼げる?


時給は高くない。正社員登用は半年先。その間の生活費は、ほぼすべて競輪場の収入頼み。それも不安定で、いつ切られてもおかしくない。


今日の電気代、来月の家賃、炊飯器が壊れそうだということ、ボロボロの靴の底。

そんな現実が、脳の後ろでずっと警報のように鳴っている。


「玉岡くん、それ、ピーマン逆向き。見栄えが大事だから、意識して」


先輩社員の声に、現実へ引き戻された。利著は慌てて手を動かす。言われたとおりに並べ直す。


横を見ると、同じく研修中の新人が楽しげに笑っていた。まだ学生っぽい、二十歳前後の若者。先輩から教わるたびに、目を輝かせてうなずいている。


「野菜って奥が深いですね!並べ方ひとつで全然違って見える!」


利著はその言葉に反応するふりをして笑顔を作ったが、心は微動だにしなかった。


自分は、そんな風にはなれなかった。

「学ぶ楽しさ」とか「仕事のやりがい」とか、もう何年も前に置き去りにしてきたものだった。


それよりも、今は「生き延びる」ことがすべてだった。


何かを吸収する余裕なんてない。考えているのは、どうすればあと5000円多く稼げるか。週末にもうひとつバイトを入れられるか。


そんなことばかり。


「……玉岡くん!」


突然、研修主任の鋭い声が飛ぶ。


「声が小さい!もっと積極的にいこう。ここは現場なんだよ、見て学ぶだけじゃなく、動いて覚えて!」


利著はハッとして、「はい」と答えた。だが、声が震えていた。


主任は呆れたように眉をひそめて、次の新人に目を向けた。利著は深く息を吐いた。怒られたこと自体よりも、「何も返せなかった自分」に腹が立つ。


焦燥感がじわじわと体を蝕む。


このままじゃ、何も残らない気がする。競輪場では怒鳴られ、ここでは見下され、どこにいても“仮”の自分。


──自分は、何者なんだ。


朝と夜で別の顔を持ち、どちらにもなじみきれず、ただ無理に笑って耐えるだけ。これを「社会復帰」と呼ぶのか。


昼間に見たステーキの画像が、ふと頭をよぎる。あんなもの、自分の人生には存在しない。いや、そもそも「楽しむ」ことすら、もう許されていない気がする。


「ここで結果を出さなきゃ、次はない」


自分に言い聞かせるように、利著は手を動かし続けた。だが、どれだけ声を出しても、商品を並べても、心は乾いたままだった。


休憩室の鏡に映った自分の顔は、くたびれていた。目の下にクマができ、口元は硬直し、何歳か老けたように見えた。


それでも明日はまた競輪場へ行き、終わったら八百屋に来る。


二重生活はまだ始まったばかりだった。だが、すでにどこかで限界の足音が聞こえていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ