シーン2:空腹と渇望
シーン2:空腹と渇望
昼休みのチャイムが鳴る。売場を離れた玉岡利著は、競輪場の裏手にあるベンチに腰を下ろした。風が冷たい。太陽は出ているのに、空気に温かみはない。
利著はポケットから、くしゃくしゃのラップに包まれたおにぎりを取り出す。昨夜、家で炊いた残りご飯を塩だけで握ったもの。具はない。ただの白米。
「うまい」とも「まずい」とも思わない。ただ、腹に何か入れないと倒れそうだった。
モソモソと咀嚼しながら、利著はスマホを取り出し、なんとなくグルメサイトを開いた。何の目的もなかった。ただ、気を紛らわせたかった。
表示されたのは、都内の高級レストランの特集記事。
サムネイルに載っていたのは、分厚い赤身ステーキ。ナイフを入れると肉汁がじわりと広がり、焼き目の香ばしさが画面越しに伝わってくるようだった。
利著の手が止まる。
「……あのステーキ、いつか食べてみたい」
小さな声が漏れた。誰も聞いていないことに安堵しつつ、自分の発言にどこか虚しさを感じた。
記事をスクロールする。
ワインの紹介。前菜のキャビア。デザートのフォンダンショコラ。
どれも美しく、豊かさに満ちていた。
だが、その画面の中の世界と、今この手にある塩むすびの落差が、あまりに大きすぎた。
「……無理だな」
苦笑いにもならない。利著の収入では、そんな店のランチ一食すら遠すぎる贅沢だった。
今の生活では、米と卵が主食だ。コンビニすら高級に感じる。外食は月に一度行ければいい方。服だって、靴だって、髪を切ることさえも「贅沢」の範疇にある。
ステーキなんて、夢のまた夢。手を伸ばしたところで届かない。
けれど──食べてみたい。
ただ、うまいものが食いたい。腹一杯、遠慮せず、誰にも遠慮せず。好きなものを、好きなだけ。
「なんで俺は、こんなとこで冷えた米食ってんだろ」
自嘲の言葉が、吐き出すように出た。
いや、わかってる。自分のせいだ。逃げて、止まって、何もせずに時間を潰してきた。そのツケが回ってきているだけ。
それでも、こうして外に出て、働いて、耐えている。それでも得られるのは、塩むすびと十数枚の紙切れだけ。
その現実が、どうしようもなく惨めだった。
グルメ記事のコメント欄には、誰かの「最高でした!また行きます!」という投稿が並んでいる。笑顔の写真。乾杯の音。友人たちとの楽しい時間。
「違う世界の人間だ」
そう思った。
画面を閉じると、心が妙に冷えた。空腹は多少紛れたが、胸の中には別の渇きが残った。
それは「食」への飢えではなかった。
自分も豊かになりたい、自信を持ちたい、誰かと笑いたい──そんな人間らしい欲求の欠片。
けれど、それは今の自分には贅沢すぎた。
ステーキが食べられないという事実が、ただの飢え以上に、自分が「社会の外」にいることを突きつけてくる。
この生活を続けても、いつか手が届くのだろうか。ステーキ一皿分の希望さえ、今の自分には信じられなかった。
利著は、冷めきったおにぎりの最後の一口を飲み込み、水をあおるようにして流し込んだ。
昼休みはもう終わりが近い。立ち上がって、売場に戻るしかない。
「行こう」
誰にも聞こえないように、つぶやいた。そうしないと、体が動かなかった。
そしてまた、同じ一日が始まる。