第1章 終章
第1章 終章
布団に横たわっても、目は冴えたままだった。体は重く、まぶたも落ちそうなのに、脳だけがうるさく働き続けている。
今日も一日が終わった。起きて、出勤して、客の怒鳴り声を浴び、帰ってきて、何も食べずに横になる。それだけの一日。特別なことなど何もなかった。むしろ、特別など望んでいないはずだった。
だけど、ふとした拍子に胸の奥でチクリと痛む。これでいいのか、という問いが浮かぶ。すぐに打ち消す。答えがないのではない。答えたくないのだ。
電気はつけず、真っ暗な天井を見つめる。部屋の中は静まり返っているが、どこか外の世界の音がかすかに聞こえる。バイクのエンジン音、誰かの笑い声、遠くの踏切の音。
そのどれもが、自分とは関係のないものに思える。自分はここにいて、ただ時間に押し流されているだけ。生きているというより、止まっているような感覚だ。
──本当は、何がしたいんだろう。
ふとそんな言葉が浮かんだ。だが、すぐに霧の中に消えていく。考えようとすると、頭が重くなる。考えなくて済むように、スマホを見て時間を潰す。SNSのタイムラインには、誰かの成功や、楽しげな日常が流れている。自分には関係のない映像。まるで異国の風景。
少し前まで、自分もそこにいたような気がする。でも、今はもう、その中に戻る自信がない。
競輪場の仕事は、続けられるのかどうかさえ不安だ。何かを頑張ろうという気力も、まだ湧かない。ただ、現実は確実にこちらへ向かってくる。
「ここじゃない、どこかへ行きたい」
そんな言葉が喉の奥まで上がってくるが、口には出せない。
逃げたいのかもしれない。でも、逃げる場所もない。家は逃げ場だったはずなのに、今はもう安らげる場所ではなくなっている。
未来のことを考えるのは怖い。数ヶ月先どころか、明日のことさえ見えない。何かをしたい、という気持ちは空っぽで、ただ「何かが違う」という違和感だけが残る。
──このままじゃ、ダメなんじゃないか?
そう思った。根拠もなく、確信もなく、ただ感覚だけで。何が「ダメ」なのかもはっきりしない。けれど、何かが「このままであってはならない」と叫んでいる気がする。
それは誰の声でもない。自分の中にいる、もうひとりの自分の声かもしれない。かすかな声。けれど、確かに聞こえる。
「変わりたい」
その言葉もまた、ぼんやりとした願いに過ぎない。何をどう変えたいのか、わからない。今の生活を? 自分自身を? 社会との関わり方を?
全部かもしれないし、どれでもないのかもしれない。
でも、その言葉が、心のどこかで火種のようにくすぶっているのは確かだった。
はっきりと燃えているわけではない。ただ、灰の中で静かに光っているような感覚。まだ誰にも見せられないし、自分でも直視できない。それでも確かにそこにある。
眠れないまま、時間だけが過ぎていく。時計の針が午前3時を指している。
このまま目を閉じれば、また同じ朝が来る。起きて、出勤して、怒鳴られて、帰ってくる日々。それがまた繰り返される。
でも、もし明日、何かひとつだけでも変えられるなら──。
そんなことを、ほんの少しだけ考えた。
答えはまだ出ない。出す勇気もない。けれど、今夜、自分の中に火種が灯った。その事実だけが、妙に鮮明だった。
そしてそのまま、利著はようやく目を閉じた。