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シーン3:初めての競輪場

シーン3:初めての競輪場


研修まで時間があるから──そう言われて、利著が紹介されたのは競輪場の臨時スタッフだった。


「簡単な仕事だし、短期間。お金ももらえるし、ちょうどいいでしょ?」


あの人事担当者は軽く言ったが、利著には何も見えていなかった。ただ、また家に閉じこもるのは避けたかった。その一心でうなずいた。


仕事内容は切符売り。指定された窓口に立ち、ひたすら客の注文通りに券を発行する。マニュアルをざっと読まされたあと、すぐ現場に放り込まれた。


最初の一日目、競輪場に入った瞬間、空気が違った。タバコの匂い、ビールと揚げ物の脂、騒がしい叫び声。全身に重たくまとわりつくような熱気と喧騒。


制服を着て窓口に立つと、休む暇はなかった。


「2番!1,000円!早くしろよ!」


「3連単、4-7-2を500円ずつ!聞いてんのかよ、兄ちゃん!」


客は皆どこか殺気立っていて、券売機のミス一つで怒鳴られる。目も合わせず金を投げてくる。中には酔っ払って意味の分からない注文をしてくる者もいた。


利著は、何度も謝った。だが謝るほどに声は荒れ、列は詰まり、周囲の空気は刺すように冷たくなっていく。


昼休憩は30分。休憩所も殺風景で、黙々と弁当を食う同僚たちの間に入る余地もなかった。派遣の若者、定年後の高齢者、見るからに事情を抱えたような人たち。誰とも目が合わない。会話もない。


午後の業務が始まると、足の裏が痛み出す。ずっと立ちっぱなしで、クッションのない靴が足を締めつける。だが、座る場所はない。


時間の感覚がどんどんおかしくなっていく。ただ券を売って、怒鳴られて、また売って。それが何時間も続く。目の前にいるのは、人間というより金と怒りの塊だ。


ふと、心の中に疑問が浮かぶ。


──ここが自分の居場所なのか?


何のためにここにいるのかもわからない。八百屋での研修前の「繋ぎ」と言われたが、それが本当に意味のある時間なのか、疑わしくなってくる。


仕事が終わった帰り道、利著はベンチに腰を下ろし、目を閉じた。耳にはまだ怒鳴り声が残っている。


日が暮れていた。制服のままぼんやりと空を見上げたが、何も感じない。ただ、体の疲れと心の摩耗だけが残っていた。


これが社会というものなのか?


この先、自分はどこに行くのだろう? ここから抜け出したところで、もっと楽な場所なんてないのではないか?


少なくとも今は、逃げ道がないように思えた。


「現実って、こういうもんなんだよ」


昔、誰かが言っていたその言葉が頭の中に響いた。


それを認めたくなくて家に閉じこもった。でも、こうして外に出た結果がこれなら、自分は何のために出てきたのか。


家に帰ると、玄関でしゃがみ込んだ。シャワーを浴びる元気もない。ご飯もいらない。音も光も消した部屋の中で、ひとり壁にもたれる。


そのとき、自分の体から何かが抜け落ちていくような感覚があった。


何もしたくない。


何も考えたくない。


けれど、また明日も同じ時間に出勤しなければならない。


「逃げたら、また何もかも終わる」


そんな声が微かに胸の奥で鳴った。だが、それに従えるほどの余力はもう残っていなかった。


その夜、利著はほとんど眠れなかった。


ただ、目を閉じていた。現実を遮断するように

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