地獄 シーン2:強制的な外出
シーン2:強制的な外出
それは、何の前触れもなく訪れた。
チャイムの音が鳴った。最初は聞き間違いかと思った。宅配の予定はないし、誰かが自分の部屋を訪ねてくるはずもない。
だが、インターホン越しに男の声が響いた。
「こんにちはー、○○八百屋チェーンの人事担当の者です。玉岡さん、いらっしゃいますか?」
一瞬、思考が止まった。なぜ八百屋の人事が自分の家に? ふざけた営業か何かかと思ったが、どうやら本気らしい。
「ちょっと、お話だけでも。5分でいいんで」
その声は軽いようで、強い押しがあった。無視を決め込もうと思ったが、何度もチャイムが鳴る。まるで逃げ場を塞ぐように。
利著は、頭を抱えた。何がどうなっているのか分からないが、このまま無視していても引き下がりそうにない。玄関の扉を開けるという行為が、どれほどの労力を必要とするか、彼にとっては誰にもわからない。
しばらく逡巡の末、ガタついたスリッパを履いて、よろよろと玄関へ向かう。ドアスコープから覗くと、作業服姿の男が一人。スーツではない。清潔感のある笑顔を浮かべているが、その目つきには営業慣れした抜け目のなさが見て取れた。
意を決して扉を開けると、男はすかさず笑顔で言った。
「いやー、よかった!やっと会えました。玉岡さん、ご紹介受けましてね。ちょっとお仕事のご相談をできればと思って」
聞けば、以前短期バイトで一緒だった知人が、利著の状況を心配して紹介したらしい。勝手な話だと思ったが、文句を言う気力もなかった。
「とにかく、一度話だけでも。履歴書とか、いりません。場所、すぐそこですし」
どこかで「断れ」と思う自分と、「もうどうでもいい」という諦めがせめぎ合う。最終的に勝ったのは後者だった。
面接なんて、行ってもどうせ受からない。それはわかっている。だが、「何もしないまま」が、ここ最近の自分をいちばん苦しめていたのも事実だった。
「これ以上、家に閉じこもっていても何も変わらないですよ」
男が、何気なく言ったその一言が、利著の背中を押した。変わらないことへの絶望より、変わるかもしれないという不安の方が、少しだけマシだった。
久しぶりにドアの外に足を出す。思わず目を細めた。
外の光が、まぶしい。空気が冷たくて、肺に入るたびに咳き込む。自分の体が、こんなにも外の世界に不慣れになっていたことに驚く。歩くたび、足の裏が地面を踏む感覚を取り戻していく。すれ違う人の視線が気になる。自分だけが異物のようで、早くどこかに隠れたくなる。
面接場所は、家から徒歩数分の距離にある個人店舗の事務所だった。入ると、温かい湯気のような野菜の匂いがした。中年の面接官が軽く頭を下げ、「座って」と手で促す。面接というより、ただの会話だった。
「最近、何してたの?」
「特に……何も」
「そっか。じゃあ、うちでちょっと働いてみない?」
驚くほどあっさりした提案だった。もちろん、その場で返事はできなかったが、「働くこと」に対して完全に拒絶しなかった自分に気づいて、利著は戸惑った。
部屋に戻る道すがら、少しだけ心が動いていた。
風が頬に当たる感覚。信号を渡る音。車の走る匂い。知らず知らずのうちに、自分が「生きている」ことを身体で感じていた。
とはいえ、まだ一歩を踏み出したわけではない。ただ、踏み出す「可能性」が、ほんのわずかでも見えた。それだけでも、今日という日は異常なほど大きな出来事だった。
玄関に戻り、鍵を閉めると、静寂が一気に戻ってきた。さっきまでいた「外」とは別の空気。けれど、まったく同じ部屋には感じなかった。
次の日、自分がどうするのかはわからない。ただ、少なくとも、もう一度外に出ようかと考えることはできる。それが今の彼には、精一杯の「変化」だった。