22.夏の舞踏会 まだ始まってないのに……
サンドレットは、王族控え室の横にある婚約者候補専用の小さめな控え室に入った。
小さなソファーに腰かけると、控えていた侍女が紅茶を淹れ、軽食を置いてから下がった。
(ユアン様はまだいらっしゃらないのかしら?)
せっかく早く来たのにと残念に思ったが、もう一人の候補であるイオリティのことをと思い出してしまい、苦い顔になった。
(イオリティ様が来る前に、ユアン様に遠慮なく褒めていただきたいわ。──そうよ、そろそろ物語の王子様のように、抱き締めたりしてくれても良いのに。婚約者選抜の規則って本当に不便だわ。皆へ平等に対応しなくてはならないなんて……)
三人になるとどうしても王太子が遠慮気味になる気がして、胸の奥がもやつくのだ。
王妃のお茶会に現れた時は、王妃が褒めてくれる言葉に微笑んでくれてるのに。
(やっぱり、公爵家に遠慮してるのね)
ゆったりと寛いで紅茶を飲んでいると、朝からばたばたしていたせいか、空腹を覚える。
色鮮やかな軽食は指先でつまめるサイズで、食べやすそうだ。王宮の料理は伯爵家のものと違って豪華かつ繊細なものも多く、味に於いては他の追随を許さない至高の極み──。
ごくり、と喉がなる。
舞踏会では食事は採れないのだから、ここで食べておくべきだろう。
とは言え、先日ドレスを駄目にしてしまったばかりだ。この予備で作っていたドレスしかないのに汚してしまったら困るのでは……と理性も働き始める。
(ユアン様、早く来てくださらないかしら……)
汚れなさそうなクッキーをつまんで、サンドレットは溜め息をついた。
──かちゃっ
サンドレットの視線の先で、豪華な飾りの施された扉のドアノブがわずかに動く。
(ユアン様かしら?)
そちらに目をやるとゆっくりゆっくり扉が動き、人が通れるくらいまで開け放たれた。
「あ、えっと……どなた?」
だが、誰かが入ってくる気配はない。
──がたっ
首を傾げていると、背後にある火の入っていない暖炉から大きな音がした。
「え?」
振り向いたが、何もない。
しんとした部屋の中は物音一つしなかった。
──きぃいい……ぱたん
風もないのに窓がゆっくり開いて、閉まった。
「……あ……」
(誰も、いない、のに?)
あり得ない。
少しずつ不安が沸き上がってきたサンドレットの顔が引きつり始める。
なんだか、空気がずっしりと重くなったように感じられた。
──ことん
背を向けたテーブルに、固いものが置かれた音がする。
肩を大きく揺らした彼女は恐る恐る振り返るが、やはり何もない。
「……」
ごくり、と喉がなった。
──きんっ
「ひっ」
金属のあたる軽い音とともに、ナイフなどのカトラリーが扇状に広がって浮かんでいた。
光を反射して鋭く輝くフォークに、サンドレットの指先が小刻みに震えだす。
止めようとしても、恐怖で冷えて強張っているため、握ることも難しかった。
宙に浮くカトラリーが、見せつけるようにゆっくりと動く。
「……あ……だ、……な……な」
だれ、なにと問い掛けたかったが言葉にならない。口の中が乾いて、いやな味がする。
くいっと引かれるように動いたフォークが、サンドレットに襲いかった。
──しゃっ、ぶちっ
スカート部分に付いた大きなリボンをその下のフリルごと貫いたフォークが、背後の壁にどすりと刺さる。
「──ひっ!!」
白っぽい壁に紫のリボンが留められ、ぷらん、と揺れた。
──ぶちぶちっ
何が起きたかを確認する前に、襲いくるカトラリーによってドレスのリボンやフリルが次々に壁に縫い留められる。
──ふ、ふふふふふふふ……
低い、地の底から響く様な恐ろしい女の笑い声が耳元で聞こえた。
──おろかな娘よ、幸せになれると思うな……
それは、呪詛のように重苦しい気配を持っていた。
サンドレットの体の奥から抑えの効かない大きな震えが次々と生まれるが、力を込めることも体のどこかを動かすことも出来ない。
耳の奥では心臓の鼓動が鳴り響き、背中と顔に大量の汗が流れ落ちる。
自分では決して叶わない強大な何かが、大きな口を開けて自分を呑み込もうとしているかのような恐怖だった。
──ふふふふふふふ……
かちかちと閉じられない口元から歯の根が合わずに音がなる。
──そこで震えているといい、おろかな娘よ……
その言葉を最後に、恐ろしい気配が薄れ再びしんとした空気が訪れた。
──はあ、はあ、はあ……。
自分の口から荒い息が漏れていることに気づいたが、止めることはできなかった。
どれくらいの時間が経ったのかはわからないまま、漸く震えが止まって耳に痛かった静寂が緩んだ気がした。
ぽろり、と左目から涙がこぼれた。
安堵によるものだったが、ドレスを目にした途端悲しみと絶望のためぽろぽろと溢れだした。
ドレスの惨状に幸せが壊されたかのように感じたサンドレット。
「う……ぅう」
嗚咽とともに涙がさらに流れだした。
──泣き止みなさい、サンドレット。
優しい声がしたのでそちらを見ると、外套をかぶり仮面をつけた女性が柔らかく光りながら立っていた。
──大丈夫よ。あなたには、祝福の込められた素晴らしいドレスをあげましょう。
女性の言葉に、サンドレットの涙が止まった。
──さあ、舞踏会に行くためにこれを身に付けるのです。愛されるサンドレットのためのドレスです。
ふわりととりだされたのは、随分シンプルなプリーツを使ったドレスだった。
「こ、れは……?」
自分のデザインした可愛いらしいものではないけれど、キレイなドレスだった。
──妖精の祝福を……
サンドレットはドレスを受け取った。
(やっぱりわたくしも妖精から愛されているんだわ)
着ていたドレスが魔法のように脱がされ、浮かび上がった新しいドレスがサンドレットに着せられる。
壁に取り付けられた鏡を見ると、上品で愛らしい自分の姿が写っていた。
「まぁ、素敵……」
鏡の前でくるりとまわったり、屈んだりして満足し、振り返ると女性は居なかった。
(きっと、あれは妖精だわ!わたくしを助けるために来てくれたのね!)
うきうきと心を弾ませていた彼女は、扉がそっと閉まったことに気付かなかった。