●第1章 言葉との出会い
街は、いつも言葉で溢れている。
交差点の信号が放つ電子音。広告スクリーンから流れるジングル。スマートフォンを覗き込む人々の指先が生み出す、無数の言葉たち。それらは複雑に絡み合い、重なり合い、時に衝突しながら、この都市の一日を紡ぎ出していく。
その喧騒の中で、私は一人黙々とノートに向かっていた。
古びた喫茶店「モノクローム」の片隅。木目の粗い机の上には、半分も飲まれていない珈琲とボールペン、そして私のノート。窓から差し込む午後の陽光は、ページに落書きのように散りばめられた言葉たちを優しく照らしている。
「あ、その本……」
突然かけられた声に、私は顔を上げた。
そこには一人の女性が立っていた。黒のワンピースに、首に巻いたグレーのストールが風に揺れている。切りそろえられた肩丈の髪が、柔らかな印象を与えていた。
「もしかして、篠田圭介の『透明な言葉たち』ですか?」
彼女は私の机の上に開かれた詩集を指差しながら、少し前かがみになって尋ねた。その仕草には不思議な親しみやすさがあった。
「ええ、そうです」
私は思わず声のトーンを落として答えた。この古びた喫茶店で、まさか篠田圭介の詩集を知っている人に出会うとは思わなかった。
「すごい! 私、篠田さんの詩、大好きなんです」
彼女の目が輝きを増す。
「よかったら、一緒に座ってもいいですか?」
その言葉に、私は少し戸惑いながらも頷いた。
「椎名楓です。でも、楓って呼んでください」
彼女――楓は、私の向かいの席に腰を下ろした。
「葉月深月です。深月で」
「深月……素敵な名前ですね」
楓はそう言って、柔らかな笑みを浮かべた。その表情には、どこか懐かしさを感じた。
「深月さんも、詩を書くんですか?」
楓は私のノートに視線を向けながら尋ねた。
「ええ、まあ……趣味程度ですけど」
私は少し躊躇いながら答えた。他人に見せるつもりのない言葉の断片を、ノートに書き留めているだけなのだ。
「見せていただけますか?」
楓の声には、純粋な好奇心が滲んでいた。
「いえ、こんなの……まだ全然ダメで」
「そんなことないと思います。だって……」
楓は私のノートに目を落とし、そっと続けた。
「『言葉は触れられないのに、確かに肌を撫でていく』……素敵な言葉じゃないですか」
思わず顔が熱くなる。さっき書いたばかりの言葉を、楓は既に読んでいたのだ。
「これ、本当に好きです。言葉って、本当にそうですよね。触れられないのに、確かに存在して……私たちの心を動かす」
楓の言葉には、どこか切実なものが込められていた。
「楓さんは、詩は書かないんですか?」
私は話題を逸らすように尋ねた。
「書きませんね。でも、街中で詩を探すのが好きなんです」
「街中で?」
「そう。この街のどこにでも、詩は隠れているんですよ」
楓はそう言って、窓の外を指差した。
「たとえば、あそこ」
私の視線が追った先には、古びた雑居ビルの非常階段。錆びた手すりに夕陽が反射して、オレンジ色の光が階段を昇っていくように見える。
「あの光と影が作る縞模様。まるで誰かが書いた詩のようじゃないですか?」
楓の言葉に、私は息を呑んだ。確かに、今まで何気なく見過ごしていた風景が、突如として詩的な表情を帯びて見えてきた。
「私、こういうの探して歩くのが好きなんです。街の中に隠れている言葉たちを見つけること」
楓の瞳が、夕陽に照らされて琥珀色に輝いている。
「一緒に探してみませんか?」
その誘いは、まるで魔法の言葉のように私の心を揺さぶった。会ったばかりの人を信用していいものか、理性は警告を発している。しかし――。
「はい」
私の返事は、思いのほか自然に口をついて出た。
それが、私と楓の物語の始まりだった。
その日から、私たちは放課後になると待ち合わせて、二人で街を歩くようになった。最初は週に一度だったのが、いつしか週に二度、三度と増えていった。
「あ、深月さん!」
待ち合わせ場所の地下鉄の改札前で、楓が手を振る。今日も彼女は黒を基調とした服装だ。首に巻いたストールが、初夏の風に揺れている。
「お待たせ」
「ううん、私も今来たところ」
楓の笑顔には、いつも不思議な魅力があった。どこか儚げで、でも芯の強さを感じさせる表情。それは、彼女の書かない詩のようだった。
「今日はどこに行きましょうか?」
「そうですね……」
私は少し考えてから答えた。
「商店街の裏手に、まだ行ったことのない路地があったと思うんです」
「いいですね。行ってみましょう」
楓は目を輝かせながら頷いた。彼女は未知の場所を探検することが大好きだった。特に、人があまり通らない路地裏や、古い建物の隙間に残された言葉たちを見つけることに、純粋な喜びを感じているようだった。
地下鉄の駅を出て、私たちは肩を寄せ合うように歩き始めた。初夏の陽気に、街路樹の緑が鮮やかに輝いている。
「あ、見て」
楓が立ち止まり、古いビルの壁を指差した。剥げかけた塗装の下から、かすかに文字が透けて見える。
「『心臓の鼓動が、街の音に溶けていく』……」
楓が、壁に残された文字をそっと読み上げる。
「誰が書いたんでしょうね」
「きっと、私たちと同じように街の言葉を探していた人なんじゃないでしょうか」
楓の言葉に、私は少し考え込んだ。この街には、私たちの知らない誰かの言葉が、無数に埋め込まれている。それは時に落書きであり、時に看板の文字であり、時には人々の何気ない会話の中にも存在している。
「深月さんも、何か書いてみますか?」
「え?」
「この街に、深月さんの言葉を残してみるんです」
楓は、バッグからペンを取り出した。
「でも、それって……」
「大丈夫です。このペンは水性だから、すぐ消えちゃいますから」
楓の目が、いたずらっぽく輝いている。
「私たちだけの、儚い詩を残しましょう」
その言葉に、背中を押されるように私はペンを受け取った。少し躊躇いながらも、剥げかけた壁に向かってペンを走らせる。
『あなたの言葉が、私の中で育っていく』
書き終えると、楓が満足そうな表情を浮かべた。
「素敵です。深月さんらしい言葉」
その言葉に、私は少し照れくさそうに微笑んだ。
私たちは再び歩き出した。商店街の雑踏を抜けると、急に静かな路地に入る。古い建物と建物の間を縫うように、細い道が続いている。
「この静けさも、一つの詩ですよね」
楓がつぶやく。確かに、喧騒から一歩離れただけで、街は全く違う表情を見せる。それは、まるで詩の中の空白のような静けさだった。
路地を曲がると、思いがけない場所に出た。小さな広場のような空間で、中央にはベンチが置かれている。周囲の建物の陰になっているためか、人の気配はない。
「わあ」
楓が感嘆の声を上げた。広場の一角には、苔むした石垣があり、その上には小さな木々が生えている。都会の中の、小さな秘密の庭のようだった。
「ここ、素敵ですね」
二人でベンチに腰掛ける。遠くから聞こえる車の音も、ここではまるで波のように感じられた。
「深月さん」
楓が、真剣な表情で私を見つめた。
「なんですか?」
「私、深月さんと一緒にいると、言葉が見えやすくなる気がするんです」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「それは、私も同じです」
正直に答えると、楓の頬が少し赤くなった。
「嬉しい」
彼女は、そっと私の手に自分の手を重ねた。温かい。その感触が、私の心臓を早鐘のように打たせる。
「楓さん……」
言葉が喉まで出かかった時、急に大きな音が響いた。夕立の予兆だ。
「あ、雨が」
私たちは慌てて立ち上がり、近くの軒下に駆け込んだ。その直後、大粒の雨が降り始めた。
「すごい雨」
楓が呟く。狭い軒下で、私たちの体が自然と寄り添う。
「でも、これも素敵な詩になりそうですね」
楓の言葉に、私は頷いた。確かに、突然の夕立も、二人で雨宿りをする時間も、全てが詩的な瞬間に思えた。
雨は、意外にも長く降り続いた。私たちは軒下で、肩を寄せ合いながら雨音に耳を傾けている。時折、遠くで雷が鳴る。
「ねえ、深月さん」
楓が、少し震える声で呼びかけた。
「なんですか?」
「私のこと……楓って呼んでくれませんか?」
その言葉に、私の心臓が大きく跳ねた。
「じゃあ、私のことも……」
「みづき?」
楓の声が、雨音に溶け込むように優しく響く。
「うん」
私は小さく頷いた。その瞬間、雨が少し弱まってきた。空には、薄っすらと虹が架かり始めている。