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無機物の身体

作者: 古数母守

 私は898,052年前からソーラーパネルを広げて何もない宇宙空間にぽっかり浮かんでいる。バッテリーに蓄積された電力が高密度に集積された極小の回路を動作させている。それは私のあらゆる活動の源となっている。かつて小惑星が衝突するとか、核戦争が勃発するとか、あってはならない人類滅亡のシナリオを恐れて、太陽系内に移住先を求める動きが活発になった時期があった。火星を人の住める惑星に改造しようと莫大な予算が投入されたこともあった。だがそんなことを気にする必要はなかったのだ。無機質の身体にしてしまえば、酸素も水も食べ物も要らない。ただ電力があれば良い。惑星や衛星に根を張って暮らす必要はなく、こうしてソーラーパネルを広げていれば、宇宙空間であってもずっと生きて行ける。


 でもいったい何のためにこうして生きているのだろう? 時々、考える。いつか死んでしまうなら、行動するのは今しかないと思って、その日その時を悔いのないように一生懸命に生きようとするのだろう。有機物の身体はあまりに脆弱で、生き物は常に死の脅威に晒されている。今、やらなければ、すぐに死んでしまう。今、やらなければ、明日はないかもしれない。そうした気持ちが本当に為すべきことは何なのかを人々に考えさせる。短い人生の間にできることは限られている。後悔しないためには何のために生きるのかしっかり考えなければならない。だが朽ちることのない身体を手に入れてしまえば、今やらなければならないことなんて何もない。いつだってできる。一年後に伸ばしても良い。十年後に伸ばしても良い。きっと一万年後でも大丈夫だろう。今、何のために生きるのかを考える必要はどこにもない。それでも何となく、昔の習慣の名残なのか、何のために生きているのか考えてしまう。


 有機物の身体だった頃の記憶はずっと残っている。その頃、私の行動は常に遺伝子に支配されていた。子孫を残すこと、生き延びること、それがすべてだった。セックスで気持ちよくなりたい。美味しいものが食べたい。ぐっすり眠りたい。そんなことの繰り返しだった。そして絶対に死ぬのは嫌だと思っていた。いつか自分が消滅してしまうのだと思うと怖くて仕方がなかった。その恐怖から逃れるため、私は有機物の身体を無機物の身体に置き換えた。ニューロンとシナプスが複雑に絡み合って保持されていた記憶はすべてシリコンのメモリに移し替えられた。世界で唯一無二の私という存在が、1ビットの情報も欠けることなく移し替えられた。無機物の身体となった私は一切の欲望から解放された。食欲や性欲が立ち現れる生身の身体を失った私は、子孫を残すこと、生き延びることを厳しく命じる遺伝子の束縛から解放された。そして今、この宇宙空間にぽっかり浮かんで永遠の命を生きている。私はもう、死ぬのが怖いなんて考えたりはしない。何のために生きるか急いで考える必要もない。ソーラーパネルから供給された電力が回路を動かしている。それだけのことだ。デブリと衝突することがあれば、この無機質の身体も壊れてしまうのかもしれないが、それを恐れている訳でもない。


 そしてデブリと衝突する機会にずっと恵まれない私は、898,053年目の春を迎えた。私に内蔵されているカレンダーがそれを告げている。春と言えば、桜が綺麗だった。満開の桜の咲く並木道を美しい少女と一緒に歩いたことがある。この宇宙空間には桜はない。桜どころか何もない。そして私はこれからもずっと存在を続けるだろう。多分、私は石ころみたいなものなのだ。石ころはずっと存在しているだけなのだ。


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