さくらひめ
これは、今と昔を繋ぐ物語。
あなたは、辛い別れの経験がありますか。
痛くて、辛くて、悲しくても、世の中に永遠も絶対はない。外に出る事で、もしかしたらその別れを少しでも、前向きなものに変えられるしれません。
願いが叶うその日を信じ、そして繋いだ彼女と同じようにーーー。
ここはどこだろうか。
私は先ほどまで、家に帰る途中だったではないか。それなのに、気づけば、見覚えのない道端の花壇に腰をかけていた。どこにでもあるようなそこには、色とりどりの花が、私の気持ちなんて興味もないという風に咲いている。それがより一層私の気分を落ち込ませた。
ついに私は気でも狂ってしまったのだろうか。会社からの帰り道と言うのは私の妄想で、本当は昼間の会社を抜け出してきてしまったのではないだろうか。そうならば、早く戻らなければ。
先ほどからこのように、さてこの後はどうしようかと考えてはいるのだが、何も知らない私ではどうすることもできない。しかし、ここで諦めるわけにもいかない。とりあえず歩きだしてみるかと思い、立ち上がりかけた私の目の前に、人懐っこそうそうな、不思議な空気を纏う男の子が立っていた。
先ほどまでは存在していなかったはずの彼は、異性なのに、可愛いといった部分では絶対に勝てないと思わせる、そんな男の子だった。
彼は現れた時と同様、唐突に私に話かける。
「この本は読んだ?」
「いや…え?」
「じゃあこれは?」
「えっと…」
「君はこれがすきなんだよね?」と戸惑う私をしり目に、矢継ぎ早に質問をよこすのだ。さも、約束したよね?とでも言いたいような口ぶりだった。
自分の知り合いに、こんな子は存在しただろうかと、考えるが全く身に覚えがない。そもそも、どうして突然、何の脈絡もなく、本について尋ねられるのかがわからない。
確かに読書は好きだ。幼いころから好きなのだから、理由なんてないに等しいし、むしろ日常の習慣にすらなっている。食事と、睡眠と、通勤と…読書だ。これが私の毎日やることなのだ。しかし、それが今なんの関係があるのだろうか。
そう思う一方で、不思議とどこから現れたのかなんてこと疑問には思わなかっただけでなく、なんとなく懐かしい気にもなっていた。確かに少し驚きはしたが、それ以上に、なんだか彼に、ここで会うことは当然の事のようにも感じているのだ。
彼から紡がれるその質問たちは、特にこの現状を解決しようとしてくれるものではなく、ただ、あたかも世間話を楽しむようだった。その姿は、久しぶりの再会を喜ぶ友人のようだ。友人と言うよりは親密な気もしたが、恋人と言うには彼の事を知らなすぎる。なんせ出会ったばかりなのだから。
私はただ戸惑い、思わずその言葉たちを遮ってしまった。いくら、懐かしさを感じたのだとしても、さすがに会話をしなければと思った。しかし出てきた質問もまた、この状況を打開するのは、何の役に立たないものだった。
「あの…えっと…本が、お好きなんですか?」
彼は遮られたことにキョトンとし、小首をかしげながら不思議そうな顔の後、妙に納得した顔をする。
「僕のこと覚えてない?」
「ごめんなさい、私顔覚え悪くて…」
「それじゃあの日のことも?」
そう言って自信ありげな顔で、手を差し出された。この手を握れば、全てがわかるとでも言うようだ。思わずその手を取ると、自分と同じくらいの大きさの、それでいて骨ばった温かい体温。そう感じた時、脳裏でそれまで使われていなかった映写機が、カタカタと軽快な音を立てて動き出した。
そうだ、あれは確か車の中だった。窓の外に見える闇は夜の…あれは夜の高速道路だ。誰かが私を自宅に、安心する場所に送ってくれる最中だった。運転席は見えなかった。暗い闇に溶けていて、その存在自体も闇に溶けていたから、一体化していたのだ。隣を見ると、当たり前のように彼がいて、窓の外を大して興味もなさそうに眺めている。
窓の外を流れる景色が嫌に早くて、なんだか2人だけの後部座席は不思議な空気に包まれていた。甘いピンク色のような、薄暗い群青のようなそんな空気だ。まるでこの世界に取り残されたような、ここだけしか存在しないかのような気がしてしまった。
気づくと座席に投げ出した手に温もりが触れていた。隣の彼はやっぱりさして気にしていないように、こちらを見て、少しだけ微笑み、再び窓の外へ視線を向けた。
ドキドキした。心地よく胸が高鳴った。その温もりを感じていたかった。だから私はその手を握り返したのだ。そうしなければ、彼がどこかへ行ってしまうのではないかという恐れもあったのだと思う。
窓の外を流れる景色は相変わらずで。それでもそのキラキラが、いつの間にか私の周りにも纏ったように感じた。星空を身に纏ったのだ。
その瞬間、外と中を隔てるものがなくなって、真っ暗な中にキラキラと瞬く光の粒と一緒に、彼とふたりで散歩をしていた。歩くと言うには少し早くて、走ると言うには少し遅い。そんな歩みでただ進み続ける。行く当てなんてなく、ただ歩みを進めていた。進みながら、彼の横顔を盗み見ると、とても端正で、思わず見とれてしまった。そこで初めて彼の顔を認識した。
瞳はくりくりと丸く、ぱっちりと開いている。そしてその肌は、真っ白で辺りの光を反射しているようだ。しかしそれらに目がいかないのは、その色素の薄い髪が光を湛えて桃色がかった色をしているからだろう。中性的と言うことに変わりはないが、瞳の奥は強く、男らしさを感じさせる。肌はつるんとしているのに、そこにはこれまでの時間が含まれているようにうかがえた。
私の視線に気づいた彼は、くすっぐたそうに目を細めて「どうしたの?」と私を覗き込み返した。それに私は「見てただけ」と少し笑って恥ずかし気に答えるのだ。
また数歩歩いて、今度は私から「ーーー」と呼びかければ、私の名前をお返しに呼んでくれる。そして再び「どうしたの?」と。だから私は再び答えるのだ。「呼んだだけ」と。
忘れていたわけではなく、それでも脳みその奥深くに眠っていた記憶なのだと思った。それを納めていた引き出しが突然開き、脳裏にあの日の光景が浮かんだ。
私が思い出したことに満足そうに微笑んだ彼は、優しく私の手を離すと最後に一言。
「南の島へ行きたいね。もう“さくらひめ”は読んだ?」
言われた瞬間、映写機には新しいフィルムが準備されたのだろう。カタカタと音を立てながら、眩しいほどの青い空に、透き通る海が映し出された。“さくらひめ”と彼が呼んだ小説は砂浜にポツリと佇んでいて、目の前の青によく似た表紙に、淡いピンクの石ころがひとつ描かれたものだ。
しかし、私は知らないのだ。“さくらひめ”と呼ばれる物語を。あの小説の内容が分からない。外側は鮮明に思い出せるのに、内側だけは何もわからない。それはまるで、目の前の彼のようだと思った。
でもそれを、彼に聞くのはなんだか気が引けて、曖昧に笑うことしか出来なかった。知らないことも、覚えていないことも、酷く恥ずかしかったのだ。
そんな私を彼は全て分かっているような、それでいて特に何も気にしていないような、そんな顔で数秒私を見つめただけだった。そして突然、思いついたように、繋いだ手を優しく離して別れの言葉を告げられる。
「僕はそろそろ行かなくちゃ」
「あ、あの...最後に名前を....」
なぜか悲しそうに微笑んだ彼を見たら、もうそれ以上は言えなかった。
「きっと、そのうちきっと.....」
そう残して、彼は出会った時と同様に、しかし今回は優しい微笑みだけ残して音もなく去っていった。それは私の目の前に現れた時と同様、音もなく、突然に。
///さくらひめ///
大好きだった幼なじみの男の子が、いなくなったの。
悲しかった。とっても辛かった。それはこの身が張り裂けそうになるほど。私はこんな痛みを知らなかったの。だからどうすればいいのかもわからずに、途方に暮れる日々だったわ。
あとから女中に聞いた話だと、彼は自殺をしたんだって。いつも時間には必ず持ち場に着いていた彼がいないから、心配したらしいの。それで部屋に行ったら、太い梁に縄をくくって、そこに首もくくっていたのだって。
それを聞いた瞬間、目の前が真っ暗になったわ。気づいたら、見慣れた天井があって、それがどうしようもなく悲しかった。私はもう、彼のあの、眩しいくらいの笑顔を見る事は出来ないんだってわかっちゃったから。
何も手に着かない毎日で、彼のことを考えたわ。寝ても覚めても彼の笑った顔、怒った顔、泣いた顔が浮かぶの。そして、私を宝物みたいに愛おしそうに見つめる瞳を。思い出すたびに、胸がしびれたように熱くなって、痛くて苦しかった。
もうあの声を聴くことは出来ない。そして笑いあうことも、遊ぶことも、隣で本を読むことも叶わないの。
そんな日々を送っていると、いつからだったか分からないけれど、いつの間にか私は“さくらひめ”って呼ばれるようになったそうよ。どうしてかしらね。
フラフラと、夢見心地だからかしら。今にも散りそうだからかしら。命が…短く見えたのでしょうか。
桜はとっても短命で、それでもこの世に存在する何よりも美しくて、私の大好きな花なの。それに、彼に言われたことがあったの。満開の桜の木の下で、「この花は君によく似合う」って。あの時、頬を撫でられた感覚を今でも鮮明に思いだせるの。
命が短いって嬉しいことだわ。そうすれば、少しでも早く彼に会えるってことでしょう?私は、それを今か今かと待つことしか出来ないの。そう、今の私には…待つことしかで出来ないの。
///
祖母の家で遺品整理があった。大きな桜の木が庭先に一本佇む祖母の家。少し前に大好きだった祖父が死んだのだ。田舎特有の匂い、いや、これは祖父の家特有の匂いなのだろうか。それが充満する部屋で、失ったものの大きさに打ちひしがれそうで、今まで手を付けられなかった作業を黙々と進めていると、後ろから祖母に話かけられた。
「こんなもの見たことなかったけど、あなたの名前が書いてあるから」と言って、一冊の本を差し出している。古びた、年月を感じさせる新聞紙の中に本が収まっているのだろう。それをよく見ると、小さな、それでいて達筆な文字で、私の名前が書かれていた。これは間違いなく祖父の字だ。
しかし不思議なことに、その新聞紙の日付は、私が生まれるもっともっと前のものだった。まだ祖父も若かったであろう日付。そしてもっと不思議なことは、その中の本は新聞紙に似合わず、まるで新品のように綺麗なものだったことだ。
祖父は寡黙な人だった。決して怖いわけではなく、人を寄せ付けないわけでもなく、いつも見守ってくれるのだと安心させてくれる空気を纏っていた。
あれはいつの日だったか、ある、なんてことのない時間を思い出す。
「お前の名前は特別だな」
「どうして?」
「じいちゃんが、昔読んだお話の中に、お前の名前が出てくるんだよ。その人は、美しくて、儚いんだ。そして誰よりも強い女性だったんだよ」
「はかないって何?」
「今に分かるよ。じいちゃんは、その話がどうしても他人の夢物語だとは思えなくてな。どこかにそれがあるはずなんだけど…」
日の光が差し込む窓辺で、祖父の膝の上で聞かせてもらったことがあった。窓の外には桜が満開で、ひらひらと花びらを散らしていた。私をあやす様にゆらゆら揺れる視界と、緩く聞こえる二つの心音とその言葉だけを覚えてる。
それしか思い出せないのは、私はその時、酷く眠かったのだ。そしてその話の意味が分からなかった。どうせ祖父のいつもの昔話だと思ったのだ。私には難しくて、想像することも出来なくて、だから重くなった瞼に抗えなかった。
///
ある日、ふと思いついたのよ。こんなに私だけがうずくまっていたって、どうにもならないってね。だから、私は久しぶりに部屋から出る事にしたの。
確かめたいことをがあったから。
私はまず、書庫に向かった。調べたかったのは「もう一度、彼に会うため」の方法よ。だって、伝えたいことがあふれて、どうしようもなかったの。だから、もう一度、彼に会わないとって。世の中には“絶対”なんて、ないと思ってた。
簡単じゃなくてもいいの。何かをしていないと、落ち着かなかったから。嫌なことばっかり考えてしまうから。
何日も、何時間も書庫に籠る私を、再び周りは心配をしたわ。だって、そこには彼の部屋と同じ、太い梁
があったからね。
それに気づいた時、それも良いかもしれないと思ったのは確かだけど、それだと本当に彼に会えるか分からないでしょう?だから、もし他に方法がなかったらって言う、候補の一つにしておいたわ。そうしたら、ほんの少しだけ、心が軽くなったの。
///
ある程度の片が付き、一人暮らしのアパートへ戻った。一人になると、特に意識したわけではなく、ここではない、どこかに行きたいという衝動にかられた。その衝動のまま、パソコンを開いて、航空券の予約をした。これも意識をしたわけではなく、南国に行こうと思った。青い空と、海が見たくなったのだ。それと、彼の言った南国と呼ばれる国が気になった。あの波の音は、何か教えてくれるのではないかと希望を抱いたのかもしれない。
しかし、それがどこの国なのか、果たして存在する国なのかはわからなかった。未だに彼を信じられないという気持ちも同居しているのだ。まるで、夢の出来事を現実で追おうとしているような、不確かで奇妙な感覚だった。
///
ついに見つけた。
少しの可能性でも良かったの。彼に会えるのなら、何だって良かった。もう一度彼と言葉を交わせるのなら、どんな事でもしたかった。交わせなくても良かったのかも。私の言葉が届けばなんでも良かったのかもしれないわ。
あまりにも馴染みが在りすぎると、人ってその存在を忘れてしまうみたいね。この屋敷も毎年、それの行事を行っているのに、今まで思いつかないなんて。
でも、無理はないかもしれないわね。この方法を見つけたのは、難しい歴史書でもなければ、分厚い辞書の中でもない。たった一冊の、絵本の中だったのだから。それは埃をかぶって、まるで誰かから隠れているみたいだったのよ。
///
真っ青な、目に痛い空が印象的だった。地上の天気は厚い雲に覆われていたのに、空の上はそれをあざ笑うように青かった。
行先は、名前も聞いたことのないような島だ。写真を見て、ここが良いと思った。ここしかないと。直感がそう告げていたのだ。
空港に降り立ち、先にホテルに向かおうかとも思ったのだが、視界に入った海にあらがうことができず、誘われる様にキャリーバッグを持ったまま、砂浜に降りた。
サラサラな砂が足については、離れて、それはまるで日常から切り離された私と同じようだと思った。その砂浜に腰を下ろすと、視界いっぱいに海が広がりーーー
思わず熱い雫が零れ落ちていた。
私の知っている言葉では、綺麗だと思った。然し綺麗なんて言葉では足りないのだ。そんな一言で終わらせていいものではなかった。空と海の境界線が曖昧で、それを太陽の日差しだけが境界線を見分ける、見つける道標になっていた。
そんな景色を私は知らなかったはずだ。暴力的なほど、強い光をここへ届けているのにも関わらず、優しい日差しはそんな私を慰めてくれているようだった。頑張れって、行先を示そうとしてくれていたのかもしれない。
どうしてこの景色は、こんなに暖かくて、悲しくて、優しくて、痛いのだろう。
///
私はすぐに向かったわ。心当たりなんて、一つしかないのだから。屋敷から少し離れた低い丘の上。そこに一本の桜の木があるの。そこは私たちの秘密基地だった。
ただの桜なんかじゃないの。桜の木なら、庭にもっと立派なものがあるんだから。この桜の特別なところは、遅咲き、そして七夕の日にしか咲かない事かしら。そのことは私たちしか知らないけどね。二人だけの秘密だったの。なんだか、誰にも知られたくないと思ったのよ。どちらかがそう話したわけじゃなくて、なんとなく、2人ともそう思っているのだろうなって。
毎年この時期になると、屋敷を抜け出して、2人でここへやってきていたわ。普段通りの他愛もない話を何時間もしていたの。内容なんてこれっぽっちも覚えていないけれど、それでも楽しかったという空気は肌が覚えている。
隣には大好きな眩しい笑顔があって、見上げれば、満開の桜。ひらひらと舞い散る花びらを、追いかける私を、彼は笑いながら見ていた。その瞳の中には、温かい感情があったことくらい、幼い私にもわかったわ。
それに飽きると、再び2人でお話しをして。背中合わせで本を読む。そうするとすぐに、あたりは暗くなっていった。それは戻らなければならない合図だけど、何度でもそれが寂しくて仕方なかったわ。駄々をこねる私を彼は困った顔で、たしなめるの。「また明日も来ればいい」って。
そんな大人ぶったことを言う彼に、私は悔しくなって言い返した。歳なんてさほど変わらないのに、彼はずっと冷静で、自分の周りの誰よりも大人だったから、なんだか寂しかったのかもしれないわ。
「でも明日にはこの花、散ってしまっているでしょう?」
「そうだね、でも僕は一緒にいるんだから。桜がなくても、お話しは出来るだろ?」って言いながら、私の先を歩いて行ってしまう。いつもは一緒に、手を繋いで私の隣を歩いてくれるのにね。だから私はそれを必死に追いかけた。さっきまで感じていた、悔しさなんてなくなって、置いて行かれたくないという焦りだけになってたわ。
ようやく彼の隣に追いついて、もう離さないという気持ちで手を握って、諦めて帰らなければいけない道を進もうとすると、次は彼が突然立ち止まった。
今思えば、この日の彼はなんだかいつもと少し、様子が違った。普段はあまり口数が多くないのに、そしていつでも私だけを優先させてくれるのに。なんだか何かに追われて、焦っているようにも、残された時間を知って、諦めているようにも見えた。
「もし、寂しくなったら、思い出して。僕はここにいるから」って。今、この瞬間も、一緒にいるのに、どうしてそんなことを言うのか、幼い私には分からなかったわ。
その言葉に怖くなったのを覚えているわ。だから隣にいる彼の纏う服の裾をそっと掴んだの。ここに取り残されてしまうことが一番怖かったのよ。
彼は少し驚いた顔をしていたけど、次の瞬間には、優しく目を細めて、再び私の手を握ってくれた。そして、いつもの調子で私の名前を呼んでくれた。そんな彼の後ろに広がる、空を横切る真っ白な一筋の道が印象的だった。
///
周囲の人間は驚いただろう。座り込んだと思ったら、突然泣き出す異国からの来訪者は。そんな私に一人の男性が心配そうに近づいてきた。優しい彼は多分、「何か悲しいことがあったの?」と言ったのだと思う。なんせ私はその国の言葉を全く知らなかったから、なんとなく、空気感でそう聞かれているのだと思った。
「私、ここに一度来た事があるみたい。どうして忘れてたのかしら」
独り言のようにつぶやいた言葉もまた、彼には通じなかっただろう。私が何を言って、何を思っているのか。だって彼の話す言葉と私が話す言葉は全く違うのだ。しかしこちらも空気は伝わったようだ。心と同じく優しい声で、多分、「見つかって良かったね」と微笑んでくれた。それは自分の事のように、喜んでくれている気がして、私も微笑み返したのだ。
渡航記録を見ても載っていない。それでも来た事があるという確信だけがあった。私は何度も、同じ景色に心を震わせているのだ。本当は、3日程度の予定だったけど、迷うこともなくホテルを取り直して、帰りの飛行機をキャンセルしていた。
そして、来る日も、来る日も、街中で、「この辺りに、桜の木はありますか?」と聞いて回った。現地の言葉は相変わらず分からなかったけど、必死に尋ねた。それが伝わったのだろう。彼らも真剣に耳を傾けてくれているようだった。
そんな日々を送って何日目かのある日、昼食を食べに入ったカフェで、同じように質問を繰り返していると、たまたまそのカフェに居合わせた老人が、新聞から目を上げないまま徐に口を開けた。
「それなら、あの丘の上に」
すぐに、詳しい場所を聞いて、挨拶もそこそこに店を飛び出した。道中の事はもう思い出せないけれど、それでもタクシーはどんどん町から離れていく。しかし、不安なんてなかった。あるのは、ただ、やっとと言うはやる気持ちだけだ。
それから、あっという間の日々を過ごし、日本へ帰ってきた。あの日々は特別だと思った。現地の人々は、異国の私に優しく、言葉が通じなくても、そこは「優しさ」で溢れていた。
***
その日に合わせて私は毎日を過ごし、三か月前になると、再び同じ航空券を予約した。今度は誰にも迷惑をかけないように、仕事の都合も付けて、しっかり準備を怠らなかった。まずは、あの時お世話になった人に挨拶をしに行こうと決めていた。
飛行機から降り立つと、やっぱり暑さがじりじりと肌を焦がした。それがなんだか心地よく感じたのは、もしかしたら浮かれた心のせいだったのかもしれない。久しぶりに会った彼らは、私との再会を喜び、そして言葉の上達に驚いていた。
彼らと別れた後、あの日一番に見た砂浜へ向かう。その浜辺に腰をかけ、バッグの中から祖父が私に残してくれた本を取り出した。何度も読んだ一冊の本。然し何度でも他人事とは思えない、物語。それは私の知らない世界での私の話だと気づいたのは、何回目だっただろうか。
パラパラとページをめくっていると、ふと目の前に影が落ちた。紙に落としていた視線をあげると、もう一度会いたいと思っていた一人がいた。
「久しぶりだね」
「そうね、あの時はどうもありがとう」
「ははっ 君、言葉がうまくなったね」
「そうでしょう?私ね、あの日見つかったものを取り戻しに来たのよ」
男性は怪訝そうに片眉を動かした後、「取り戻す?それは良いね。やっぱり幸せは、自分でつかみ取らないと」と、さも愉快そうに優しく空気を震わせた。そして、悪戯っこの表情で、「その感じだと…運命の人でも見つけてたのかな?」と問われた。
「ふふ、そうかもね。」
「今日、運命の人に会うのか…!まるで、織姫と彦星だね」
「あら、七夕の文化を知っているの?」
「もちろん、君は、日本人だろう?僕の祖父も日本人なんだ。それでよく話を聞かせてもらったんだよ」
「そうだったのね、この国で、七夕ってそんなに有名なのかしら?」
「うーん…そうだな…無名ではないかな。と言うよりも、無名でなくしたんだ」
その言葉の意味が分からず首をかしげると、彼は少し自慢げに胸を張った。
「だって僕の家系は、先祖代々、ストーリーテラーなんだ」
そして「良い旅を」と挨拶を残して、砂浜を軽い足取りで去って行った。彼の背中を見送って、なんだか納得したような、また確信を深めた気持ちで、再び本に目を落とした。
そして、日も暮れてくる頃、あの日と同じようにタクシーに乗って、その場所を目指した。迷いなんてなかった。そして、不安も。絶対と言う確信だけを持って、過ぎ行く景色を眺めた。
そこに着くと、そこもあの日と変わらない。やっぱり先客なんていない、私だけの世界だった。しかし、もう少しだ。もう少しすれば、すぐに分かる。
それを今か、今かと待つ間、傍に会った小さな丘に登った。丘に登り終えると、頭上には一本の桜の木。そして、遠くに視線を向けると、夕日が広がる、青からオレンジに変わっていく海が見えた。
徐々に水平線に日が落ちていくのを熱心に見つめていると、ふと、後ろから誰かの足音がした。
「ふふ、今回は、急にじゃないのね」
その足音に向かってそう言うと、息を吐くように笑う声で返事をされる。そして、隣にやってきた体温を仰ぎ見れば、そこには、あの日、映写機を動かしてくれた彼がいた。
「あの日だって、別に驚かそうとしたわけじゃないんだよ?」
そう言いながら、私の隣に腰を掛ける。
「もうすぐ、日が落ちるね」
「うん、私はこの日を待ってたのよ?」
「そっか、でもきっと待つ時間は僕の方が長かったと思うな」
「それはどうかしらね」
「でも良いんだ。それも楽しかったし。それにあの日一人にしてしまった君からの、仕返しだって分かるから。君は昔から、悪戯好きだからね」
そんな会話をしていると、ひらひらと目の前を小さな花弁が横切った。それにつられるように、2人して頭上を見れば、桜が満開に咲いていた。
そして、そのもっと上には、真っ黒な空が。もちろんそれだけではない。その空を真っ二つにする、真っ白な道。
「君のおかげで、またこの景色を、君と二人で見る事が出来たよ。あの時、一人にしてしまってごめんね。僕はまだ子供だったんだ。」
「ふふ、こうやって、会えたんだから、そんなこと良いじゃない。私はあなたのように、楽しかったとは言えないけど。それより、私はあなたの口からききたいことがあるんだけど?」
悪戯に笑いながらそう言うと、彼は眩しそうに目を細めて、
「僕を、見つけてくれてありがとう。今度は離さないって誓うよ」
その言葉に満足そうに笑った私を、彼は優しく抱きしめてくれた。そういえば、彼が目の前に現れたのは確か、7月7日だったと、彼の腕の中で今更思うのだ。
この話を呼んでくださって、ありがとうございます。
読んで初めに感じるのは、もしかしたら意味が分からないかもしれません。それなのに、最後まで読んでいただいたことに、感謝しかありません。
現在と過去は繋がっている可能性があって、それでもそれらを繋ぐ糸は、全て時間とともに曖昧で、不確かになっていってしまうのではないでしょうか。しかしその曖昧さにこそ、人間らしさがあるのかなとも思っています。
それでもそんな中でも唯一、変わらない、色褪せないものがあるとしたら、人の強い気持ちだったら、素敵だなことだなのではないかと思いました。こんなにも複雑な感情、理性だけでは説明できない言動ができるのは、人間の特権ですが、絶対なんてない世界で、一つくらい人間が絶対を持っていたいなとも思っているのかもしれません。
そして、そう思うと、今この瞬間の自分の気持ちと、他人の気持ちを大切にしたいと思えるのかなと思います。もしかしたら、未来になんらかの形で繋がっていくかもしれないので。
そうなると、彼女と同じように、願いが叶うと言われる七夕という日に、今ではないいつかを願うのも、悪くないと思えるようになりません?
ここまではお洒落に決めようと努力の結晶あとがきです(笑)ここからは、今回のこんなにも分かりにくいお話しの無粋な説明を少し。
そもそも、視点が一つじゃないって、読みづらかったですよね。一応、分かりやすくするつもりではあったのですが…。
そして、七夕と、どこが関係あるんだよって思われた方もいたかもしれないと思いました。車の中での逢瀬は、天の川をイメージしてます。私の記憶だと思ってるけど、実は私ではないんですよね。それでもあの頃(昔)の私なわけでもなく、その間の私の記憶です。
七夕は、会うことの出来ない人ともう一度会わせてくれる日って言う解釈です。
そして、それが「本」によって、もたらされたことだから、彼は執拗に「この本は読んだか」と問うんですよね。花壇の前で出会ったときに。彼女はきっとそうしただろうって。だから今の彼女もそうなんじゃないかって。
こんな感じですかね。