第2レース 第1コーナー チャンピオンシップ
秋。―天高く、馬肥ゆる秋―とはよく言ったものだ。
暑さに弱い馬たちは夏が終わると食欲を増し、体重が目に見えて増えてゆく。
オレが世話をする二頭の担当馬、サマーデイズとレッドドレイクも例外じゃない。ここのところ、どちらもふっくらと腹が丸みを帯びてきている。
早朝五時。オレは二つの飼い葉桶にデイズとドレイクの朝ごはんを用意している。
「あっ、こら、引っ張るなってデイズ!」
オレの首の後ろ、ジャージのタグの辺りを、退避馬房に入っていたサマーデイズが咥えた。
不意を突かれたオレは、手を泳がせて転ばないようにするのが精一杯だ。
ちなみに馬の力はとても強い。人間がどうこう出来る範疇を余裕で越えている。サマーデイズはじゃれているつもりなのだろうが、オレは彼の口を一向に振りほどけない。
「デイズはねぇ、早くご飯欲しいんだって」
ニンジン片手に吹雪が声をかけてきた。
「分かってるって! そんなの、馬と喋れるお前じゃなくても分かるさ」
出会った時(入学式)から、吹雪は馬と喋れると自慢していた。
「じゃーん。実は吹雪はねぇー。お馬さんとお話ができるのです!」と自信満々に言ったのを、今でもはっきりと覚えている。
もちろん、現実は異能全開の漫画やラノベの世界じゃない。そんな便利能力があるなんて周りの誰もが信じていない。それに長年馬に接していれば、それとなく馬が求めていることが理解できた気になることがオレにだってある。これは何も馬に限ったことじゃないだろう。犬に接している人は犬の、猫に接している人は猫の、言いたいことが分かった気になった経験があるはずだ。毎日接している動物が相手なら、誰もが抱いたことがある感情じゃないだろうか?
でも少なくとも、オレは吹雪が馬と話せるという言葉を信じている。
いや、それより今は、倒れかかっているオレの身体を何とかして欲しい。ここは馬よりもオレの気持ちを察してくれ! と、とにかく、
「ふ、吹雪、ヘルプ、ヘルプ! って、わ、わ、わ、うわっ――」
求めた援護も虚しく、ついにオレはデイズに引き倒されてしまった。
背中から倒れたために厩舎の天井が見える。ヌッ、と覗き込んできたのは、心配そうな顔をした吹雪と、きょとんとしたサマーデイズのとぼけた顔だ。
「デイズが大丈夫? だって、アオ君」
ブルルっ、とデイズがいななく。まるで吹雪の言葉を肯定するみたいに。その上、オレを引き倒したくせに、オレの顔に鼻面を寄せてくる。
「こ、こら、デイズ。やめろって、やめろよ!」
ヨダレまみれの口で舐められまいと、オレは両手でデイズの顔を押さえた。それでも中々デイズのヤツは催促を止めない。完全にじゃれつきモードだ。
その時、すっ、と差し出されたのはオレンジ色の影――一本のニンジンだった。サマーデイズはそれに釣られて、「ごはん、ごはん♪」と、フラフラ離れてゆく。どうやら吹雪が手にしていたニンジンで気を引いてくれたみたいだ。
「はい、アオ君」
目の前に吹雪の手が現れた。オレのより一回り小さい手。それを取る。
「さんきゅー。助かったぜ、吹雪」
オレを引き起こした手は、ぽにゅんと柔らかく、こんなんでよく馬を追えるなと思うほどだ。吹雪の手で起こされたオレは、思わずそのまま吹雪の手を繁々と見つめてしまった。
「どうしたの、アオ君?」
ペタペタと、指で吹雪の手を押して感触を確かめるオレに、不思議そうな顔をした吹雪が尋ねてきた瞬間――。
ばぁちぃん! と、オレの後頭部で派手な音と衝撃がまき起こった。その衝撃で、オレの頭は前方へと押しやられた。
冗談抜き、マジで目ん玉が飛び出るんじゃないかと思うほどの衝撃だ!
だが次の瞬間、それ以上の衝撃にオレの顔面は埋もれた。
ぽよん! とオレの顔を受け止めたのは、吹雪の豊かな胸だった。
マシュマロ!? マシュマロか!?
驚愕の柔らかさに、オレは刹那の至福に溺れた。
「ちょっ! なにやってるのよ、アンタは! このセクハラ大魔王!」
そう言ってオレを吹雪から引きはがしたのは、竹箒片手の藤澤カオルだ。たしかコイツは、馬房の端で担当馬の世話をしていたはず。いったい百メートルの距離をどうやって一瞬で詰めやがった!? 縮地か!? そうか、《るろ剣》の読み過ぎで縮地が使えるように……。いやそれより、
「いってぇ! テメェ今、箒でオレの頭を、未来のダービージョッキーの頭を殴りやがっただろ!」
「はん! 誰がダービージョッキーよっ! アンタがなれるっていうんなら、その前に私が絶対ダービージョッキーになってみせるから!」
「ほほう、言うじゃないか藤澤。だったら勝負しようぜ!」
尻を払いながら立ち上がったオレは、オレが知る限りこの世で一番生意気な女子に指をつきつけた。
そう、突きつけてやった。ドーン! と効果音が鳴るくらいに派手なポーズを決めて。
「いやいや、不味いってアオ。これ以上罰喰らったら退学だってあるよ!」
忍のヤツが後ろから肩に手を掛けてきた。確かに忍の言うことはもっともかもしれない。
「ケ、ケンカはだめだよぉー」
吹雪も心配そうな表情を浮かべている。
「そうだな。もし喧嘩だったら自分も止めに入らせてもらおう」
普段は会話に参加しない大樹までもが、めずらしく竹箒片手に集まってきた。
ブヒヒン。と、デイズもにわかに殺気立った空気を察したのか、嘶きを上げた。
「なによ、やる気!?」
負けん気が強い藤澤は両手を腰に持っていき、小さな顎をクィと上げて挑発してくる。
くぅ~、ホントに生意気なヤツだ!
だがオレはそんな藤澤に、ククっと笑ってみせた。そう、不敵な笑みってやつだ。
「いやいやいや、ケンカなんてナンセンスだろ。だからここにいるみんなで勝負しようぜ!」
「「「「?」」」」
オレ以外の四人の顔が怪訝なモノになったが、いち早く大樹が気付いた。
「そうか。今週から始まるチャンピオンシップか!」
「正解だ、大樹! 卒業までの半年間を通してポイント形式で行われる『競馬学校チャンピオンシップ』! コイツでの成績がデビューしてからの騎乗依頼の量と質を左右する、と言っていいほどの、オレたちにとって大事なイベントだ」
『競馬学校チャンピオンシップ』は、実戦形式で本物のレースさながらに行われる。これには、現役の先輩騎手が参加することもあれば、競馬学校でのレースは一般公開されるし、幾つかのレースは実際の競馬場で行われるものもある。そして結果は、競馬関係者の誰もが知る所となるのだ。まさにオレたちが騎手として試される、最初で最大の勝負と言える。
「そんなのアンタに言われなくたって分かっているわよ。勝負しよう! なんて言われなくてもぎったぎたのボロボロにしてあげるわ!」
「吹雪だって負けないよ!」
「ボクだって負ける気はないね」
「自分も手加減する気は一切ない」
同期のそれぞれが瞳に光を宿して、互いに視線を交わし合う。誰もがやる気十分。だからこそ、オレは用意していた言葉を口にした。
「おいおい。気が早いだろ、みんな」
一斉に八つの瞳がオレの方に向く。
おお。今、謎解きをする名探偵の気持ちが少しわかった気がするぜ! この感覚は結構クセになりそうだ。まぁ、それは置いておいて。
「たしかに、レースの結果は今後の騎手生活に直結する。でも、それ以外にも何かを賭けないか?」
「や、やらしい。アンタ、私たちに胸を揉ませろとか言わないわよね、変態!」
「だ、誰が言うかよ!」
藤澤の言葉に速攻反論したが、それはそれで……。と、一瞬この前の夜の出来事が脳裏に浮かんだ。この手で触れたアイツの胸の感触……いや、いや、いや! 違うだろ、オレ!
「ほら、吹雪やっぱり行きましょ。顔見ればコイツが変態だって一目瞭然じゃない」
あきれ顔の藤澤は、吹雪の肩を後ろから押して校舎へと戻ろうとする。
「あ、コラ、待てよ、藤澤!」
オレの制止も聞かず藤澤はさらに歩いてゆく。
「で、結局何が言いたいんだ、蒼司?」
冷静な大樹の言葉がオレに当初の提案を思い出させた。
「いや。だからさ、確かにトップを取ればトロフィーと賞状は貰えるけどさ、それだけじゃつまんないだろ。というわけで、オレたちの、オレたちだけの景品ってヤツを用意しないか?」
「へっー、面白そうだな!」「それ面白そうだね!」
オレの提案に、忍と吹雪が瞳をキラキラさせて興味を示した。
ふふふ。やはり、この二人の思考回路はオレに近いってのがたった今証明された。いや、知ってたけどな。というか計算の内だけどな。でも嬉しいぜ、二人とも!
「で、なに? その景品ってのは、もう用意しているわけ?」
吹雪が話に乗った以上、仕方ない。という感じで、藤澤は腕を組みつつ質問してきた。
「いや、まだだけど」
「はっー。だと思ったわよ。ほんと無計画よねアンタって」
「いやいや、まだみんなが乗るか分かんなかったし、やるんならみんなで景品決めた方がいいだろう!」
完全にオレをバカにした溜め息を吐く藤澤に、オレは喰ってかかった。いや、本当に頭から食ってやりたいぞ! 気分的には!
「まぁ、そうだな。蒼司の言うことももっともだ。そうだろ藤澤」
おっ、思わぬ大樹の援軍。まじめな藤澤も、同じく優等生の大樹の言葉には耳を貸す。
ナイスフォロー、大樹!
オレは親指をグッと立てて大樹に示してみせると、大樹の方も親指を立てて応えた。
お前はホント、いいヤツだよ!
「まぁ、そうね。みんなで決めた方が面白いかもしれないわね」
不承不承。そんな感じで、藤澤も同期の輪の中に戻ってきた。
「じゃあさぁ、今度の休みにみんなで出かけて景品を買ってこようよ」
「お、いいねー。ぶっきー!」「悪くないな」「仕方ないわね」
吹雪の提案に皆が賛同の意を示した。
「よし、決まった! じゃあ今度の休みに皆で出かけよーぜ!」
パンと、手を打ってオレはその場の意見をまとめたのだった。




