第1レース 第4コーナー 自由時間
夕食後のトレーニングルーム。
オレは練習用の木馬に跨って両脚をブラブラさせていた。
基本、夕食を取った後は二十一時までは自由時間だ。本を読んだり自主トレをしたり、筋トレをするなど。本当に自由なのだ。二十一時には眠くなくてもベッドに入らなければいけないので、この自由時間は貴重だ。
ちなみにオレが得意なのは瞑想。
だって自主トレで筋肉を鍛えれば腹が減るし、小難しい本を読めば脳が栄養を欲して腹が減る。ホラ、やっぱり何かをやれば基本、腹が減ってしまう。ぼんやりして、少しでも腹が減るのを防ぐのが望ましい。でないと、この前の脱走時のように死ぬほど空腹に悩まされることになる。
だけど、ぎしっ、ぎしっ、ぎしっ……。
規則正しく、木が軋む音が訓練室に木霊し続けている。
部屋の周囲には巨大な鏡が配置されていて、木馬に乗る姿――騎乗フォーム――を確認できるのがこの部屋の特徴だ。
木馬とは、本物の馬を模した木製の練習器具である。木馬には、本物の手綱と鞍と鐙が付けられていて、首が上下に振れるようになっている。どこかのお土産屋で見た赤ベコのような感じだ。
訓練室にある木馬は、全部で五体。
オレは窓際の木馬に跨り、絶賛、瞑想の真っ最中である。その目の前で、端口大樹が騎乗練習の真っ只中だったりする。
ストイックという言葉があるのはもちろん知っていた。けどオレは、その言葉の意味を大樹と出会って初めて知った気がする。
「なぁ、大樹はなんでそんなにクソ真面目なんだよ?」
かれこれ一時間近く、コイツは自主トレしている。
「お前さ、メシの後にそれだけ自主練したら腹が減って仕方が無くなるだろ? ひょっとして、お前、マゾ……」
「マゾではない」
オレの言葉を制し、大樹は騎乗スタイルを崩すことなく答えた。ヤツの眼はずっと真っ直ぐ、ただ鏡の中の自分を映して揺らぐことが無い。
「じゃあ、趣味?」
「趣味でもない。これは自分が自分に課した最低限の日課だ」
そりゃ凄い。確かに毎日これだけやれば嫌でも上手くなるだろうさ。オレは心から騎手になりたい。騎手になって大金を稼ぎたい! いつかダービージョッキーにもなる予定だ。けど、クタクタになるほどの日中の授業を受けていれば、身体を動かすのはもはや億劫だ。わざわざ自主トレをしなくていいと思う。
「大樹ってさぁ、やっぱりマ……」
「マゾではない。マジなだけだ」
しれっと返事を返した大樹が、額に玉のような汗を幾つも浮かべたまま固まった。
「あはっ! マジとマゾか! お前が冗談言えると思わなかった!」
「う、うるさい。ついだ、つい!」
赤面する同期がやけに面白い。だ、ダメだ。ツボにはまった!
しばらくの間、オレは大声で笑い続けた。腹筋いてー。
「……だけどさ、お前見てるとオレもなんか、こう。やらなきゃ、って思う時があるぜ」
言いながら、オレは脚をブラブラとさせた。
「まぁ、なんだ。言葉と行動が伴っていないことは自覚済みだけどさ」
「では、なぜ頑張らない? 蒼司はどうして何事にも手を抜いている?」
おいおい、お見通しかよ。大樹の言う通りオレはどこか手を抜いている。
本番に近い騎乗練習だけは全力だが、それ以外は合格最低ラインを攻めている。
「まぁ、あれだよ。競馬なんて騎乗する全てのレースで勝てるわけじゃないだろ? その日の天候や騎乗馬。さらにはレース展開に恵まれるかっていう運にも左右される。それを証明するように、トップ騎手だって勝率は二割そこそこ。毎回、毎回、一生懸命乗るのは間違っているだろ? それに、……オレはいつかダービーを勝つ男だからな! その、なんだ……、本気になっちゃったらヤバイだろ?」
オレの言葉を聞いて、大樹は木馬の上で姿勢を正した。そして、鏡の中に映るオレを見て小さく笑う。
「なるほど。蒼司の言う通りかもしれないな。だけど、自分は毎回勝つつもりで騎乗したい。どんなに過酷で不利な状況でも。それは自分に嘘をつきたくないからだ。後から、こうしとけば良かったとか、もうちょっと頑張っておけば良かったとか。そんな後悔をしたくないんだ。だから自分は、常に全力で勝負する」
大樹がどこか遠い目をしたような気がした瞬間、ヤツがこっちを見た。
「蒼司は――」
「なんだよ?」
覗き込むように眼を見てきた大樹に、オレは一瞬ひるんだ。
「自分は蒼司の本番での強さは知っているつもりだ。だが日々の努力は、いざという時に自分を裏切らないのも事実だと思うぞ。たまには自分と一緒に練習してみないか?」
うっ、コイツの言うことはまったく正論だ。しかも真顔でそんなこと言われたら……、
「しゃ、しゃーなしだなっ!」
オレは後頭部をカキカキ、木馬に跨って騎乗スタイルを取った。
「たまには付き合ってやるぜ! 大樹大先生に!」
挑発とは分かっている。それでも、オレは努力バカに付き合うことを決めた。このままでは、なんか負けっぱなしみたいだと思えたからだ。
「では、1レース二分。10レース勝負といこう」
「へっ!? それって昼の練習よりきつくねぇ?」
大樹の提案にオレは怯みまくった。
「じゃあ、一本目。スタートだ」
勝手にスタートを告げた大樹は、すぐに木馬の上で騎乗練習を開始した。
「ラストはもちろん本気で追い切るぞ!」
二分間の騎乗練習でも大変だと言うのに、大樹がさらりと言ってのけた条件は、より実戦に近い練習内容だ。
「これって自主練のレベルじゃないだろっ!!」
木馬を前後に動かし、オレは不満をぶちまけた。だが、大樹は嬉しそうにこちらを見る。
「なんだ。怖じ気づいたのか?」
大樹の顔には、すでに玉のような汗が浮かんでいた。そうだ。大樹は今の今まで自主トレを行っていたのだ。すでに体力を消耗しているはずだ。
これで負けたら、オレってどんだけかっこ悪いんだよ!
「ええーぃ! オレはいつかダービーを取る男だぞ! やってやるぜ!」
見事に大樹の挑発に乗ってしまったが、二時間後。汗だくになったオレは、激しく後悔する羽目になった。
今夜の腹の虫との戦いは、想像以上の激戦になりそうだ。と………………。
二十時三分。浴場。
「たぁっー」
湯気が立ち込める中、オレは助走をつけて湯船へと飛び込んだ。
派手に水飛沫が上がる。もちろん掛け湯は済ませてある。
ちなみに競馬学校の湯船は旅館の温泉か! と思うほど広い。泳げるとまではいかないが、ダイブぐらいは十分できる。
「もう! 飛び込むのやめてよ、アオ! 本が濡れちゃうだろ!」
浴槽の縁に腰掛けていた忍が抗議の声を上げた。
忍のヤツは手にしていた漫画本をお湯から守るために、こちらに背中を向けている。
「わりぃ、わりぃ! んで、忍は何読んでんだ?」
「《はじめの一歩》」
答えた忍はすぐに読みかけのページを開いて読書に戻ってしまう。
昼間、落馬してから忍は愛想が悪い。いや、機嫌が悪いのか。
普段なら、読んでいるところの解説をしてきそうなものなのに。
まぁ、当然と言えば当然か……。
幸い大した怪我は無かったとはいえ、馬の背から落ちたのだ。いや、確かに助けなかったのはホント悪い。だが、あれをやったのは藤澤だぞ。間違えるなよ!
オレが頭をかくその横で、汗を流し終えた大樹が湯船に浸かった。その手にもコミックが握られている。こちらは《スラムダンク》だ。
これぞ競馬学校伝統、漫画ダイエットである。長風呂しながらトレーニングで落としきれなかった体重を落とすのだ。
オレたち騎手課程の生徒には、厳しい体重制限が課されている。入学時はもちろん、卒業時に体重四十七・五キロを超過することは許されない。もちろん在学中も同じで、三回体重超過で退学である。
競馬学校では、日中は厳しいトレーニングが課され、出される食事もカロリー計算されている。それでも、体重が増えることは――ないとは言えない。
なにせ入学時は十五歳、卒業するのは十八歳だ。たいがいの生徒が成長期ど真ん中を通過する。だから、初めは小さくても急激に身長が伸びることは十分に考えられる。オレたちの中では大樹がこれに当たる。大樹は入学当初は百四十後半で、オレたちと大差無かったが、今では百七十センチを越えようとしている。
大樹のヤツがとり憑かれたようにトレーニングするのは、体重という強敵と戦うためかもしれない……。
チャポン、と天井から落ちた水滴が湯船の中へと落ちて波紋を作る。
……体重リミットに余裕があるオレは恵まれているのかもしれない。
「やっぱ、オレもなんか持ってこよ」
忍と大樹が黙々と漫画を読みふけっている中、沈黙に耐えられなかったオレは脱衣所に向かった。
脱衣所には本棚が置かれていて、各種スポ根漫画が取り揃えられている。
ちなみに例外的なジャンルもいくつかあるが、最近では時代劇モノにハマったサクラ教官が、今年の頭に《るろ剣》を蔵書に加えていた。これにのめり込んだのが藤澤カオルだ。奴が「蒼紫さま~」なんて言ってると、「けっ、けっ、けっ!」と唾を吐きたくなるけど、たしかに「蒼紫」はカッコイイとオレも思う。しかし、オレたちを目の仇にする時だけ、「斉藤一」を真似るのは勘弁してほしい。お前には「悪・即・斬」が似合いすぎている! もういっそ、刑事か検察でも目指してくれ!
オレはコミック本を濡らさないように新しいタオルを用意して、最近愛読書としているボクシング漫画《はじめの一歩》を奪取し、再び浴場へと足を向けた。
一時間後。
「「のぼせた~」」
オレと忍が脱衣所でフラフラしている横で、大樹は涼しい顔で着替えを済ませると、浴室を出て行った。
「なぁ、忍。同じ時間入っていて、なんでアイツは平気なんだ?」
「さぁ。出来が違うんじゃないか? 多分基本スペックが異常に高いんだよ、アイツ! まぁ、ボクらが量産機で、あいつはカスタム機みたいなぁ・ぁ・ぁ・ぁ・ぁ・ぁ……」
オレの質問に答えながら、忍は扇風機の前に陣取った。声をハモらせて遊んでいる。
「あ・ぁ・ぁ・ぁ・ぁ・ぁ・ぁー、コーヒー牛乳が飲みたいー」
「同感だー!」
賛成しながら、チラッと忍の背中に視線をやる。そこには湯あがりの為だけじゃなく、明らかに、別の理由で赤くなっている箇所があった。
「そ、その、悪かったな。忍……」
「あ、ああ……」
初め、キョトンとしていた忍だが、すぐに理解したのだろう。
「なーに、悪いのは藤澤のヤツさ!」と言って、ニカッと笑った。
「そのとおり!」
オレも腕を突き上げて応じる。
「今度、なんか仕返ししてやろうぜ。アオ」
「ああ、絶対だな!」
忍が突き出した拳に、オレはグータッチした。
とたん、ググッ~とオレの腹が鳴る。
「あはっ、ははは……、今日も腹へったなぁ」
「だな」
こんな感じで、今日も一日が終わろうとしているのだが、実はここからもう一つの戦いが始まったりするのである。そう、空腹との戦いが……。




