第1レース 第3コーナー 騎乗練習
昼食を挟んだ午後。練習コース。
オレたちはジャージに、ベストやヘルメットといった騎乗装備で馬に跨っていた。
総敷地面積約二十六万三千平方メートルの競馬学校には、素晴らしい! と言っていい施設が軒並み揃っている。中でもオレたちが今いる練習コースは、なんら本物の競馬場と遜色がない。一周1400メートルの芝、ダートともに揃ったコースが広がっている。そこでオレたちは日々、様々な練習を行っているのだ。
今も鞍上で栗毛の馬を操り、吹雪がダートコースを駆けてくる。綺麗な騎乗姿勢で、彼女は馬をまっすぐ走らせている。
モンキースタイルとは、中腰で鞍に乗る姿勢のことだ。小さな猿が木の上を四つん這いで歩く態勢に似ている所から、その名が付けられたらしい。
騎手はこれができないと話にならない。
しかし、やってみれば分かるが、鞍の上で中腰なんて素人がやったら拷問だ。危険なので良い子は絶対にマネしないでください。という注意書きをしなきゃいけないくらい危険だ。もっとも、大人でも危険なので、やる時は覚悟が必要だと思う。
吹雪が操る騎乗馬は一完歩――馬が四本の脚で一歩を進むこと――ごとに砂を後方に跳ね上げ、徐々に速度を上げてくる。
追い切り練習が終わったオレと忍は、練習馬の頭を並べ、吹雪がゴール板を駆け抜けるのを眺めていた。
「今日は吹雪のヤツ、調子良さそうだな」
「うん。綺麗に乗れてるね」
などと偉そうなことを言っているが、馬をまっすぐ走らせることは相当難しい。通常、馬は右に行ったり、左に行ったりと、まっすぐには走らない。馬をまっすぐ走らせるのが騎手の仕事と言っても過言ではないだろう。
ちなみに、馬をまっすぐに走らせることだけみれば、同期の中で吹雪はピカ一と言える。けど、吹雪の騎乗にはムラがあって、ダメな日はからっきしダメなのだ。不思議なことに……。
「なぁ。たぶん、吹雪はおっぱいでバランスを取っているんじゃないか? で、おっぱいのバランスが悪いと調子が悪いって、どうだ!」
「おおっ~~、なるほど! 成長期だからね! 日によって状態が違うのかも!」
忍は納得したとばかりに激しく頷いた。
「ねぇ。アンタたち」
不意にかけられた声の方に視線をやると、オレたちの後方五メートルといったところ。ヘルメットにジャージ姿の藤澤が、馬を操り佇んでいた。
「うぉ、藤澤! いつの間に背後を取った! お前には忍者の血でも流れているのか!? まったく気配を感じなかったぞ!」
「ふん。なにが忍者よ。厨二病が! それより今のセクハラだから二人とも! ちゃんとサクラ教官に報告しといてあげるから、後できっちり絞られなさい!」
「えっ!? い、いや、チクるのは無しだろ、藤澤!」
焦るオレたちを、藤澤は冷めた表情で眺め「残念ね」と馬首を巡らせようとした。なので、
「あらぁーん、池柄さんの奥さん。藤澤さんったら、ちょっと自分が『まな板』! だからってムキになっちゃって、嫌ねー」
「まったくよねー、音梨さんのところの奥さん」
オレたちは馬を寄せ合い、どこぞの主婦よろしく、口元に手の甲を寄せてヒソヒソ話を装い、大声で藤澤を挑発した。
すると、プルプルと藤澤の肩が戦慄き始める。
「ア、ア、ア…………、アンタたちねぇ! 世の中には言っていいことと悪いことがあるのを、ちゃんと知っているんでしょうね!」
勢いよく馬ごと振り返った藤澤カオルは、眉を怒らせ、鞭でこちらを指してきた。
「あらん、聞こえてしまったようですわよ忍さん?」
「いやー、だって本当のことですもっぉん……ぉん……ぉん………………」
オレの横でセリフを最後まで言いきれずに、忍がスローモーションで馬の背中に倒れてゆく。宙に舞う鼻血までもがゆっくりと動いている。
完全に油断していた忍は、中世騎士の馬上槍試合を思わせる、藤澤カオルの見事な右ストレートを喰らってしまったのだ。まさに、駆け抜けざまの渾身の一撃。いや、痛恨の一撃!
なんちゅう恐ろしいことを! いや、さすがは藤澤! 馬上で人を殴ろうと思ったら、目的となる馬に、自分が操る馬の体と自分自身を相当近づけないと不可能だ。つまりそれは、ヤツの騎乗技術と身体能力がずば抜けている証拠ってことになる。まぁ、オレに狙いを定めなかったのは、右と左、たまたま殴りやすさの関係だろう。助かったぜ、って!
「し、しのぶー!」
落馬しそうになった親友を、オレは手を伸ばしてなんとか支えることに成功した。
「どうやら命が惜しくないようね、アナタたちは! 覚悟しなさい!」
駆け抜けた位置で馬首を廻らせた藤澤は、ゆらりとオーラを立ち上らせて両目を光らせる。
その姿はまさに、漆黒の黒馬に跨る世紀末覇者! ヤツの身体が実際より大きく見える!
「いや、お前。フツーそれはやる前に口にするセリフだろ! やってからじゃ遅すぎだろ!」
「知らないわ。悪・即・斬! この世に悪が栄えた例はないのよ!」
そういや藤澤のヤツ。最近の愛読書は《るろ剣》だとか言ってたな。ってか、斉藤一とか、どんだけ渋いところを攻めてるんだよ!
「それに私だって! 去年より一センチバストアップしてるんだから! ちゃんと成長しているんだからね!」
半ば切れ気味に微成長をアピールする藤澤は、手にする鞭の先を向けてくる。
いや、ちょっと待て! 今度は手でなくて鞭ですか! それは痛いじゃすまな……んっ!?
「ははーん、さては藤澤。忍を殴って、手、痛かったんだろ?」
「だ、黙りなさいよ!」
ブンブンブン。と、彼女は馬上でかざした鞭を上下させている。その顔は心なしか赤い。
「いやー、ホント分かりやすいな。藤澤」
うん? だが待て! 今、オレの両手は忍の体を支えるために塞がっている! もし藤澤の攻撃を躱そうとするのなら、忍の身体から手を離さなくてはならない。だがその場合、忍が落馬する危険性は大だ。こ、ここは、自分の命を取るか、友の命を取るか……。どうやらオレは人生最大の決断に迫られているようだ!
「とにかく覚悟しなさいよね!」
まずい! 藤澤が馬の腹に蹴りを入れて前進を始めやがった! まだこっちは答えを出せていないのに! けどヒーローものの主人公とかホントすげぇよな! こういう時は必ず自分の身を犠牲に友を救うのが定番だろ。たとえば右手一本で戦うツンツン頭の高校生とか!(ここまで0.2秒)。
だけどオレは右手に『幻想殺し』なんて装備してねぇし、ましてやヒーローじゃない。それに、自分の身を犠牲にしたら攻撃がヒットしたところに鞭の跡が残っちゃうのは嫌だよなー。風呂場でみんなにからかわれるのが決定だ(0.5秒)。
いや待て。顔だったらどうだ? もう風呂場どころの騒ぎじゃないぞ! すれ違う人みんなに理由を聞かれそうだ(0.8秒)。
うんにゃ、それよりなにより鞭で叩かれたら、ちょー痛いじゃん! なるほど、どうやら答えは出てしまったようだ。いや、初めから出ていたのかもしれない(0.9秒)!
チィーン、と。オレの中で甲高い鐘の音が鳴った。
「すまん忍。お前の尊い犠牲はぜったいに忘れない!」
オレは両手を友の身体から離し(なるべく忍が落馬しないように気を付けて)、馬を操って逃げようと決めた。その時だった、
「どうだったー。カオルン? ちゃんと見ててくれたー?」
ダートコースから出てきた吹雪が、騎乗馬を走らせながら近づいて来た。
「えっ。あっ、吹雪!」
吹雪に対応しようと、藤澤が馬を止めた。
ナイス援軍! 正義は遅れてやって来るとはよく言ったもんだぜ! どうやらオレの安全は確保された。ふー、やれやれだぜ。
ほっと胸を撫で下ろして額の汗を拭ったオレの耳に、どずんっ! という音が届いた。
音の発生源に目をやれば、忍が無防備に馬から落ちていた。
「あっ、手離しちゃったんだっけ……」
すまん、忍。ほんと、気を付けたつもりだったんだが……。
「貴様の尊い犠牲は忘れない、池柄忍軍曹!」
馬上で敬礼して、オレはその場を思いっきり誤魔化した。
良い子は決してマネしないでね、の見本的行為だった。




