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蒼きギャロップ  作者: 印藤ゆう
21/24

第5レース 第2コーナー  決戦前夜

 時は流れて、卒業試験を三日後に控えた日の夜。

 サクラ教官ちゃんに呼び出されてオレは教官室へと足を向けた。

「音梨、入ります!」

 ガラリと引き戸を開けて教官室へ入った。

 この時のオレは、なんか呼び出されることしたっけ? とビクビクしていた。

 そりゃもう、教官室に呼び出されるのが初めてではないとはいえ(あえて馴れているとは言わないでおこう)、サクラ教官と面と向かって話をするのは覚悟がいる。藤澤あたりが大魔王ラスボス級なら、サクラ教官は神である。そう、ゴッド。いや、ゴッデスか? まぁとにかく、卒業が差し迫ったこの時期に呼び出されるとは、普段素行の悪いオレにとっては心臓に悪すぎる。

 なので、オレはおずおずとサクラ教官の前に進み出た。だが、このままでもどやされる。

 教官の前では姿勢よく、礼儀正しく、元気よく、が基本だ。

「ご用件は何でしょうか! サク……、東雲教官!」

 ビシッ、と背筋を伸ばし、オレは気をつけの姿勢をとった。

 書類に目を通しているサクラ教官はどこか上の空だ。

 気になって、ちらと視線をやると、そこには端口大樹の名前があった。

 あの書類……、オレたちの評価表とかだろうか? でも、どこかで見たような気も……。

 さらに首を伸ばそうとしたオレに、「どうした、音梨」とサクラ教官が声を掛けてきた。

「えっ、いや、教官がお呼びだと聞いたので……」

「あ、ああ。そうだったな。悪かった。少し考え事をしていてな」

 サクラ教官はデスクの上の書類を片付けると、オレの方に向き直った。

「ふむ……」

 指を顎先にかけ、教官は思案顔をした。

 呼び出した後に何かを考えるサクラ教官ちゃんは珍しい。

 嫌な予感がする!

 はっ、もしかして単位落とした!? それとも留年!? ……いいや、最悪は退学か!?

 十分にあり得る。なにせ、相変わらず、オレはムチを振るえていないのだから。しかも、今の用紙に大樹の名前があったのが気になる。

 まさか、大樹に比べてオレは全然ダメだ。とか言われるんじゃ?

「で、どうだ音梨。調子は?」

「はっい、退学だへは勘弁してくだはい!」

 緊張のあまり、オレは噛みっ噛みで言ってしまった。

「退学? なんだそれは? 退学したいのか、貴様?」

「いえ、違います!」

「あははは、そう緊張するな。別に説教しようとお前を呼び出したわけじゃないぞ」とサクラ教官は額に手を当てて笑う。

「はぁ、そうなんっすか」

 だらり、とオレは脱力した。もう、完全に脱力。伝説のスライムもかくや、というだらけぶりだった。すると、サクラ教官は傍らにあった竹刀に手を伸ばした。

「お前は『加減』という言葉を知っているか、音梨? 『加減』だ……!」

 キランッ、と教官の目が光る。

「は、はい! 今、覚えました、『加減』! 覚えました! もう忘れません、絶対に!」

 即座にもう一度姿勢を正すオレ。その速度たるや、タキオン粒子も真っ青な速さだったに違いない。よくやったオレ。と自分で自分を褒めてやりたい。

「で、調子だ」

 こえぇー。目が完全に戦闘態勢だぜ。サクラちゃん。

「そ、そうですね。調子は悪くない。というか……なんというか……」

「なんだ。ハッキリしないな?」

 サクラ教官の顔が曇った。

 まぁ、オレがはっきり答えないからなのだろうけど……。オレとしても自分で自分の調子が分からないのだ。確かに年末、突破口を見つけた。だけど、それは練習中に何度もできるものじゃないのだ。勝負するなら一度っきり……。いや、少なくとも回数は制限される。練習で何度もやっては意味がないような気がして、オレはそれを封印していた。

 だから、調子はと訊かれても、今一つ分からない。

「ふむ。授業中のお前の顔が明るくなったから、てっきり進展があったのだと思ったが…………。私の勘違いだったか?」

 へっー、そんなふうにもオレたちのことを見ているんだ。サクラ教官。

 ちょっと嬉しいかも……。

「そ、そうですね。ムチはなんとかできるかも……。いえ、してみせます!」

「そうか」

 コクン、と頷いたサクラ教官は、

「……悩んでいい。迷っていい。悔やんでいい。それでも明日はやってくる。どうせやってくる明日なら、思いっきり笑って向かえてやれ」と言った。

「?」

「私が競馬学校ここの生徒だった頃、当時の教官がかけてくれた言葉だ」

 つまり。サクラ教官もここにいた時、悩んだり、迷ったり、悔やんだのだろうか?

 デビューした年に三九勝を上げ、翌年には重賞、三年目にはG1を制覇した天才ジョッキー。過去の華々しいサクラちゃんの経歴からは想像できない。

「音梨」

「は、はい」

「人生は経験だ。若いうちに失敗はいっぱいしておけ。次、同じ失敗をしたときに後悔をしないためにもな。今の状況も、乗り越えれば必ず貴様の血肉となるはずだ」

「はい」

「でっかくなってみせろ」

「はい!」

 サクラ教官はオレの返事に目を細めた。

「あの。ありがとうございます、東雲教官。オレに目をかけてくれて。オレを気にかけてくれて!」

 正直、教官の仕事は優秀な騎手を育てることだと思う。それだったら、大樹や藤澤を育てるのに時間を割いた方がいいと思う。問題児のオレなんかより……。

 なんて感動していたら、

「まぁ、あれだ。デキの悪いヤツほど……というだろう?」

 サクラ教官は意味深な表情を浮かべた。

「いや、面と向かってデキが悪いって言いきられると、ちょっと……」

 てへへと笑い、オレは頭をかいてみせた。

「そうか? 最大級の褒め言葉だったんだがな」

 ぐっ、と握りしめた拳をサクラ教官は差しだした。

「卒業試験、期待しているぞ。音梨」

「ご期待に応えられるよう、頑張ります」

 右手を拳に変え、オレはサクラ教官とグータッチした。




 卒業レースを翌日に控えた深夜。オレは廊下を一人で歩いていた。

 時間的には午前一時というところ。

 シーンと静まり返った学校の廊下は、ぼんやりと非常灯の明かりがあるだけで、おおむね暗い。

 でも、今日は意外と明るいな。と思って外に目を向けると、そこには真ん丸なお月様が出ていた。

 闇夜にぽっかりと浮かぶ白い満月。それはどこか神秘的で、とても綺麗だった。

 オレは階段の踊り場で、少しの間、一人で月を見上げていた。

 いつもなら、オレの寝つきはいいほうだ。腹の虫さえ大人しければ……。けど、今日に限って、どうにも眠れない。

 卒業レースを明日に控えて……いや、すでに今日か……。

 まぁ、不安がないと言えば、それは嘘になる。

 ムチを振るえるかどうか。何度か試した――、勝算はあると思う。けど、確定じゃない。

 その結果もいよいよ分かってしまう。

 頑張ってきた結果が出てしまう。それが怖いのかもしれない。なにせ確率は五分五分。……いや四分六で分が悪い。悪い方の結果が出てしまうかも。その考えがオレの心から離れない。

 階段を下りオレが行き着いたのは、闇に光を放つ自販機の前だった。

 ジャージのポケットから小銭を取り出し、ミネラルウォーターのボタンを押す。

 ガチャコン、と吐き出されたペットボトルを手にした時、コツコツと木霊する足音が聞こえてきた。

 ま、まさか。幽霊!? 

 なーんて、そんなはずはない。こんな時間に足音を響かせるのは、見回りの教官か、それとも……、深夜徘徊する生徒しかいない。

 自分のことは棚に置き、オレは音の発信源に目を向けた。

「あら?」

 現れたのは藤澤カオルだった。オレが完全にジャージなのに対し、藤澤はピンク色のパジャマにジャージの上を羽織った格好だ。 

「な、なによ、変態!」

 オレの視線に気付いたのか、ジャージの前を合わせるようにして藤澤は身構えた。

「な、なんでもねーよ」

 まぁ、馬の顔のプリントってどんだけレアなパジャマだよ。とは言えないよな。なぜか逆鱗に触れる予感が激しくある。

「どうせ眠れないんでしょ、付き合いなさいよ」

 自販機でミネラルウォーターを購入し、藤澤はベンチへと誘ってきた。

 珍しい。

 まぁ、眠れないのはお前もなんじゃねーの。とは口が裂けても言うべきじゃないだろうな。この場合は。

 おっ! なんだかコイツのこと分かってきたかも。成長してるじゃん、オレ!

 何分経ったかわからないが、ベンチに腰かけたオレと藤澤の間には会話がなかった。

 二人揃って逆方向を見て、ペットボトルをちびちびやっている。

 ――沈黙。静寂。冷たい空気だけが漂う。

 ったく、自分で誘っておいてなんだよ。ちょっとは話せよ。まぁ、これも口に出すべきではないだろうけど。

「ねぇ、アンタ……。なにか喋りなさいよ」

 はぁ!? そうくる!? そうきますか!

 くぅ、しゃあない。ご希望なら、会話をしてやろうじゃないか。会話を、キャッチボールしてやろうじゃないか! うーん……。けど、なにを話すかなぁ?

 なんて迷っていたら、藤澤は痺れを切らしたようだ。

「音梨、アンタさ」

「うん?」

 藤澤は視線を少しだけこっちに向けた。

「あの日。あの落馬した日。なんであんな無茶したのよ?」

「あ、ああ……」

 そうだな。オレは同期の誰にも話してなかった。オレの家が倒産の憂き目にあったことを。

「いくらアンタでもあの無茶はないでしょ」

「だな」

 とは言いつつも、あの時は本気でいける! と思ったんだけどなぁ。

「ひょっとして、……レース前に私が挑発したから?」

 恐る恐るという感じで藤澤は訊いてきた。

「もしかして、ずっと気にしていたのか?」

「ち、ちがうわよ! た、ただ、やっぱり気になるじゃない。アンタのあの落馬が私にも責任があるかもって! そりゃ、アンタの騎乗技術が低くて……。ううん、そうじゃない。ゴメン。私が悪かったら謝る……。アンタの担当馬のこともあるし………………」

 藤澤は途中からしおらしくなって、言葉尻を濁した。

 なんだか、コイツ、ちょっとかわいいかも。

 そんなふうに思ってしまったからというわけではないが、オレは藤澤に全部話すことにした。

「べつに、お前のせいじゃねぇよ。実はさ。……オレの実家、小さな生産牧場なんだけど、倒産したって言われたんだよ。あのレース前に。んでさ、焦ってたんだよなぁ、オレ。……バカだよなぁ」

「そうなんだ」

「あっ、でも、倒産は回避できたみたいなんだ」

 あはははと笑って、オレは後頭部をかいた。

 やっぱ、言わなきゃよかったかな? と思ったが、藤澤はとくに表情を変えず、「ふーん。良かったじゃない」と言ってペットボトルを傾けた。

 またもや沈黙が流れる。

「なぁ、藤澤。お前さ」

「なによ?」

「お前、ひょっとして家のことが……家族が嫌いなのか?」

 自分の家のことを話題にしたからではないが、オレは年末からの疑問を口にしてみた。

 コイツの実家は二代に渡って調教師の家系だ。しかも名門と言われる一流厩舎。よって藤澤の家には、名門と一流、その二つの言葉が常について回る。

 小さい頃から馬に触れられ、調教師テキ騎手ジョッキーに顔も覚えられている。

 まぁ、騎手になったらいきなり人脈があるってのは、やっぱデカいよなぁ。

 ふつー、そんな家を嫌うだろうか? んなわけないよなぁ。でも、お抹茶の井藤先生とのやり取りと、この前の態度を見た時、なぜかそう思ったんだよなぁ。

「ねぇ、音梨」

「なんだよ?」

 ひょっとして逆鱗か? 触れてはいけない場所に触れてしまったか? だが、会話を求めたのはお前だろ?

 オレは万が一に備えて、「ジュワッ」と話す異星人のように構えを取った。

 ペットボトルミサイルや拳が飛んでくるのを警戒してのことだったが、

「アンタにしては勘がいいじゃない」と、口を尖らせる藤澤がそこにいた。

 まるで拗ねた子供のように。

 へぇ、これは驚いた。図星とは……。しかも、それを認めるとか。超意外。にしても、コイツでも悩みを抱えているんだ。

 いつも強気な藤澤が、急にどこにでもいる女の子に見えた。

 こうなると理由が気になるところだが……。オレがそれを訊いてみようとした瞬間、今度は先手を打たれた。

「そういえば、音梨さ。アンタのご両親、素敵ね。とくにお父さん。私の父親と比べたら百倍素敵よ」

「はぁっっっ!?」

 オレの大きな声がロビーに木霊した。

「お前、どこをどう見たらそんな感想が出てくんだ! あんなののどこがいいってんだよ!」

「アンタ、ひょっとして自分の両親がどれだけ素敵なのかわかってないの? 最悪っ!」

「じゃあ、どこがいいのか教えてくれよ!」

 かぁちゃんが「いい」と言うのならわかるが、親父がいいとか訳が分からん!

「だって、アンタが怪我したら北海道から飛んできて、その、抱きしめてくれるなんて。……ふつうないわよ。素敵じゃない」

「な、なに言ってんだ? そんなの恥ずかしいだけだろ!」

 オレは頭をかいて、藤澤の感性を疑った。

 それとも女子は、たとえば吹雪なんかも同じように考えるんだろうか?

「ねぇ、音梨はさぁ」

「な、なんだよ」

 おっと、オレがトゲトゲしてどうする。藤澤が唇を噛んで言いよどんでいる。

 オレはなるべく言葉を柔らかくして、「言えよ」と促した。

「その、音梨はさぁ。最近変わったよね」

「!」

「まぁ、単細胞のアンタがなんでやる気になったのか分かるけど、どうせなら最初から本気出せばよかったんじゃない? そしたらたぶん……」

「そしたら?」

「なんでもない」

 ったー、こいつは。ホント、よく分からん!

 何が言いたいんだよ! はっきり言えよ! 言ってくれなきゃ分かんないって!

 でもそこで、去年の暮の藤澤の言葉――「私は頑張ればできるのにやらないヤツが大っキライなの!」が思い出された。

「そうだな」

 頑張ればできるのに、なぜオレがやらなかったのか――。

 大口叩いて本気にならなかった理由。ダービージョッキーになると言っておきながら、その前にある、騎手になるというハードルに本気で挑んでこなかった理由。それは、

「オレはたぶん、本気になるのが怖かったんだ」

「本気になるのが怖い?」

 藤澤が首をかしげた。どうして? っていう表情だ。

 まぁそりゃ、最初っから本気のヤツには分からないだろうな。

 まぁ、オレも本気になってやっと分かった。本気になると、そんな些細なことは気にならなくなるんだ。

「まぁ、なんだよ。本気になっちゃったら負けた時に言い訳ができないだろ?」

 つまり、言い訳を取って置きたかったんだ。まだ本気になっていない、という免罪符を手にしておきたかった。ってこと。

「でもさ、大樹を見ていて気付いたんだ。いや、引きずられてトレーニングするようになって分かったんだ」

「なにが?」

「やっぱ言い訳はカッコ悪いって、さ」

「ふーん……」

 半分くらいになったペットボトルを手の中で転がして、藤澤はこちらを見た。

「それ、よくわからない」

 はい、はい。そりゃそうか。

 優等生に劣等生の気持ちは分からないだろうよ。でも、

「藤澤にはオレがカッコ悪く見えていたんだろ?」

「そりゃ、もう。世界で一番カッコ悪かったわ」

 くす、と藤澤が吹き出した。まぁ、いかにもコイツらしい評価だ。そう思ったら、つられてオレも笑ってしまった。

 あははは、と深夜のフロアに二人の笑い声が響きわたる。

 ひとしきり笑いあった後、

「一つ教えてあげる」と藤澤は言った。

「な、なんだよ?」

「スタートの時、あと少し重心を前に傾けなさいよ。そうすれば、騎乗馬はもっとスタート上手くきるわよ。まぁ、馬によるんだけど、アンタの担当馬ならきっとうまくいくわ」

 驚いた。マジで驚いた。藤澤からオレにアドバイスとは。

「ありがとな。藤澤」

「ふん! アンタは私の同期なのよ。もっと強くなってくれなきゃ困るんだからね!」

 立ち上がった藤澤は、へくちっ、と可愛らしいくしゃみをしてジャージを胸元にかき寄せた。

「お正月の時……」

「うん?」

「仲間だって言葉……嬉しかった」

 真っ直ぐにこっちを見て、藤澤は笑った。

「あ、ああ……」

 まさか、藤澤の口からそんな言葉が出るなんて。ひょっとすると、まだまだオレの知らない藤澤がいるのかもしれない。そんなふうに思えた。

「風邪、ひくなよ」

「アンタこそね」

 オレが手を振ると、藤澤も小さく手を上げた。そして、指だけを動かす。たぶん、さよならという意味なのだろう。彼女はそのまま階段を上がっていった。

 そんな藤澤を見ながらオレは呟いた。

「オレは、本気出してお前に負けるのが怖かったのかもな……」

 そして、大樹に負けるのも……。

「でも、もう言い訳はしない」

 藤澤の姿が消えるのを待って、オレは振り返った。そのまま廊下の先に向かって深々と頭を下げる。

 誰もいない夜の廊下。冷気が漂うその先に、ちらりとピンク色のジャージが翻った気がした。

 さて。あと十時間ほどでオレの運命の幕が上がる。

 言い訳のできないオレたちの戦場に立つことになる。

 ぶるっ、と身震いがした。

 それは寒さのせいか、武者震いのせいか。オレ自身にも判断は付かなかった。

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